分子軌道法によるスピン多重度・反応性の制御 |
前回の私(YU)のトピック(有機化学者のための分子軌道法)の中で有機化学者向けに分子軌道法について説明させて頂きました.σタイプの相互作用やπタイプの相互作用,また2:1や2:2:1の相互作用など色々出てきましたね.その他にも特殊な相互作用としてスルースペース相互作用やスピロ共役,スルーボンド相互作用などというものがありました.今回は分子設計の際にこれらの相互作用をうまく取り込むことによってスピン多重度や反応性を制御している研究例を紹介しましょう.今回のお話にはスルースペース相互作用等の考え方が頻出しますので,知らない方は前回の私のトピックを理解してから読むことをお勧めします.反応性の制御には立体的要素を利用するものもありますが,このように電子論の観点から制御するというのも論理的で大変意義のある研究だと思いませんか.それでは始めましょう.
▼ 無置換シクロペンタン-1,3-ジラジカル
シクロペンタン-1,3-ジラジカルという分子を御存知でしょうか?右に示したように大変単純なビラジカルです.しかしこの分子,分子軌道論的には大変興味深いものがあります.このような小分子にも関わらず有機化学や物理化学,理論化学の分野においてこれまでに多くの研究例があり,その多くがJACS等の有名ジャーナルに報告されているのです.その中でも特に大阪大学の安倍とワシントン大学のBordenらにより精力的な研究が行われてきました.そこでまず,この分子についてのお話から始めましょう.
図1. シクロペンタン1,3-ジラジカルの分子軌道の組み立て もう少し細かく見ていくことにしましょう.C-H結合の軌道は結合性のΦ1と反結合性のΦ2があります(図2).いずれも軌道の対称性としてはΦSと相互作用が可能です.ΦAとは対称性の都合上相互作用しません.しかし,ΦSとΦ2はエネルギー差が大きいため第一次近似としては相互作用をしないと考えられるのです.よって,図2のようにΦSとΦ1が相互作用し結合性軌道と反結合性軌道ΨSに分裂します.一方,ΦAはいずれとも相互作用しないため,非結合性軌道ΨAとなります.結果として,都合の良いことにこれら二つのΨSとΨAはほぼ同エネルギーとなり縮退します.このようにしてできた分子軌道にフント則に従い電子を詰めていくと確かに基底三重項となりますね.
図2. スルーボンド相互作用を考慮したシクロペンタン1,3-ジラジカルの分子軌道
▼ 2位にフッ素を導入したシクロペンタン-1,3-ジラジカル
スルースペース相互作用の大きさは二つの軌道間の距離で決まるため,導入したフッ素の影響はないことが明らかです.ということはスルーボンド相互作用にフッ素が強く影響していると考えられます.高校化学で習った通りフッ素原子は電気陰性度が大きな原子です.つまりこれは,HOMOおよびLUMOのエネルギー準位が低いことを意味します.これを踏まえてフッ素を2位に導入した際の分子軌道を考えてみましょう.C-F結合のΦSとΦ2はC-H結合のそれらに比べてエネルギー的にずっと低い位置にきます(図3).図3にC-H結合のHOMOとLUMOのエネルギー準位を橙色で示しておきました.すると,Hの時にはエネルギー差がありすぎて相互作用のなかったΦSとΦ2が相互作用するレベルまでエネルギーが近くなりました.
一方,これまで相互作用していたΦSとΦ1は逆にエネルギー的に離れてしまい相互作用しなくなるのです.ΦAは相変わらず軌道の対称性の都合上相互作用をしません.結果としてΦSとΦ2が相互作用をして結合性軌道ΨSと反結合性軌道を生じます.この状態でフント則に従い電子を詰めると基底一重項になるわけです.
図3. 2位にフッ素を導入したシクロペンタン1,3-ジラジカルの分子軌道
▼ 2位にケイ素を導入したシクロペンタン-1,3-ジラジカル
図4. 2位にケイ素を導入したシクロペンタン1,3-ジラジカルの分子軌道
▼ 22位に酸素を導入したシクロペンタン-1,3-ジラジカル
表1. 各置換体の一重項と三重項のエネルギー差
一方,ΨSはその対称性のため相互作用せず,非結合性軌道ΨSnを生じます.ここで注目すべきはスピロ共役導入前後のHOMO-LUMOのエネルギー差(ΔEH-L)です.図5ではピンクで示しました.スピロ共役を導入することによってΔEH-Lが大きくなっていることが分かります.ΔEH-Lが大きくなるとΔESTも大きくなりますので,酸素原子を導入した際には二つの電子的効果(ΦS,Φ2間の相互作用とスピロ共役)の働きによりΔESTが決まっていることが分かります.しかし,それは分かっても依然としてヒドロキシル基を導入した際とエチレンケタール基を導入した際のΔESTの違いは説明できません.いずれの置換基でもΦS,Φ2間の相互作用とスピロ共役は働くと考えられるためです.しかし,実はスピロ共役の大きさがこれら二つの置換基を導入した際で大きく異なるのです.そして,それをもたらしているのは立体化学なのです.その点について大阪大学の安倍らが詳しく研究を行っておりますので以下説明致します.
図5. 2位にエチレンケタール基を導入したシクロペンタン1,3-ジラジカルの分子軌道
図6. 2位にヒドロキシル基を導入したシクロペンタン1,3-ジラジカルのにおける二面角qの定義と例
▼ 軌道相互作用とラジカルカチオン
▼ 軌道相互作用と反応の選択性
図7. 7-ジフェニルメチレンノルボルネンの分子軌道の組み立て
下に示すスキーム1のようにメタノールによる捕捉実験ではほぼ定量的に6を与え,7の生成は認められませんでした.以上の結果より平野らは非古典的ラジカルカチオンという新たな概念を提案するに至りました.
図8. 理論計算により求められた 52+の立体構造
▼ おわりに
(2005.6. 15 YU)
▼参考、関連文献
●シクロペンタン-1,3-ジラジカルに関する文献 ・Xu, J. D.; Hrovat, D. A.; Borden, W. T. J. Am. Chem. Soc. 1994, 116, 5425-5427. ・Abe, M.; Adam, W.; Nau, W. M. J. Am. Chem. Soc. 1998, 120, 11304-11310. ・Abe, M.; Adam, W.; Heidenfelder, T.; Nau, W. M.; Zhang, X. J. Am. Chem. Soc. 2000, 122, 2019-2026. ・Abe, M.; Adam, W.; Ino, Y.; Nojima, M. J. Am. Chem. Soc. 2000, 122, 6508-6509. ・Abe, M.; Adam, W.; Hara, M.; Hattori, M.; Majima, T.; Nojima, M.; Tachibana, K.; Tojo, S. J. Am. Chem. Soc. 2002, 124, 6540-6541. ・Zhang, D. Y.; Hrovat, D. A.; Abe, M.; Borden, W. T. J. Am. Chem. Soc. 2003, 125, 12823-12828. ・Abe, M.; Ishihara, C.; Nojima, M. J. Org. Chem. 2003, 68, 1618-1621. ・Abe, M.; Adam, W.; Borden, W. T.; Hattori, M.; Hrovat, D. A.; Nojima, M.; Nozaki, K.; Wirz, J. J. Am. Chem. Soc. 2004, 126, 574-582. ・Abe, M.; Kawanami, S.; Ishihara, C.; Nojima, M. J. Org. Chem. 2004, 69, 5622-5626. ・Abe,M.; Ishihara, C.; Tagegami, A. J. Org. Chem. 2004, 69, 7250-7255. ・Abe, M.; Ishihara, C.; Kawanami, S.; Masuyama, A. J. Am. Chem. Soc. 2005, 127, 10-11. ●シクロヘキサン-1,3-ラジカルカチオンに関する文献 ・Ikeda, H.; Hoshi, Y.; Miyashi, T. Tetrahedron Lett. 2001, 42, 8485-8488.
●シクロヘキサン-1,4-ラジカルカチオンに関する文献 ・Ikeda, H.; Minegishi, T.; Takahashi, Y.; Miyashi, T. Tetrahedron Lett. 1996, 37, 4377-4380. ・Ikeda, H.; Ishida, A.; Takasaki, T.; Tojo, S.; Takamuku, S.; Miyashi, T. J. Chem. Soc. Parkin Trans. 2, 1997, 849-850. ・Ikeda, H.; Minegishi, T.; Abe, H.; Konno, A.; Goodman, J. L.; Miyashi, T. J. Am. Chem. Soc. 1998, 120, 87-95. ・Ikeda, H.; Takasaki, T.; Takahashi, Y.; Konno, A.; Matsumoto, M.; Hoshi, Y.; Aoki, T.; Suzuki, T.; Goodman, J. L.; Miyashi, T. J. Org. Chem. 1999, 64, 1640-1649. ・Miyashi, T.; Ikeda, H.; Takahashi, Y. Acc. Chem. Res. 1999, 32, 815-824. ●7-ジフェニルメチレンノルボルネンラジカルカチオンに関する文献 ・Hirano, T.; Shiina, S.; Ohashi, M. J. Chem. Soc. Chem. Commun. 1992, 1544-1546. ・Ishii, H.; Shiina, S.; Hirano, T.; Niwa, H.; Ohashi, M. Tetrahedran Lett. 1999, 40, 523-526. ・Ikeda, H.; Namai, H.; Hirano, T. Tetrahedran Lett. 2005, 40, 3917-3921
・早わかり分子軌道法 武次徹也,平尾公彦 著 裳華房
分子軌道法の基礎を解説したテキスト。分子軌道の概念に至る流れの全体像がつかめるように構成。分子の科学、ボルン・オッペンハイマー近似、1中心1電子系、独立電子近似、ハートリー法などについて解説。
大野公一,岸本直樹,山門英雄 著 裳華房
原子軌道と分子軌道、原子軌道の図示、分子軌道の組み立てと図示の基本、いろいろな分子の分子軌道等を解説。電子軌道運動やエネルギー準位のイメージを利用しながら、化学元素の性質の由来や化学結合の仕組みを学ぶための本。
吉田政幸 著 東京化学同人
大野公一 著,梅沢喜夫 編,竹内敬人 編 岩波書店
大野公一 著 東京大学出版会
▼関連リンク
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【用語ミニ解説】
■スルースペース相互作用
結合生成することのない空間を介した軌道相互作用。
■ESR
電子スピン共鳴(Electron Spin Resonance)。
豊富な実例で示すESRによる素材の測定法。素材の物性は電子の状態によって左右される。その電子状態をESRでどのように解明できるか、ESR自体の理解よりは素材への応用を目的に、豊富な実例で解説。
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■HOMO, LUMO
HOMO(最高占有分子軌道)。LUMO(最低非占有分子軌道)。
port:3016 / Static Propaties / Frontier Orbital Theory
Electronegativity 。
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