1938年兵庫県芦屋市生まれ。進学校として知られる私立灘中・高校を経て京都大学工学部工業化学科に入学。学部学生時代は、普通の学生と同じで麻雀、遊び好きの学生だったという。しかし、実験を始めると、とたんに面白くなった。大学院進学は「入院したつもり」でがんばったという。助手時代は週2日の徹夜は当たり前で、学生からは「鬼軍曹」と呼ばれたそうだ。
1968年フグ毒の解明で著名な平田義正教授に呼ばれ、名古屋大学理学部助教授に就任。平田先生には「私が天然物を担当する。それ以外を野依さんがやってくれ。」といわれたという。平田先生の弟子には、アサガオの青い色を突き止めた後藤俊夫先生(名大教授)、中西香爾先生(コロンビア大学教授)、パリトキシンの岸義人(ハーバード大教授)がいて、自分一人だけが無名というプレッシャーのなか、一生懸命がんばった。
名大に着任したと同時に14ヶ月間、アメリカハーバード大学のE.Jコーリー教授(1990年ノーベル化学賞受賞者)の元へ留学した。このときに今回の同じノーベル賞受賞者であるシャープレス博士と知り合った。彼が日本に来るときは大相撲を一緒に観戦し、ちゃんこ鍋をつつく仲だと言う。
1972年、33歳で教授に昇格した。不斉合成で必要な触媒の開発に本腰を入れた。世界でも10以上の研究室が同じ物質に興味をもち、それを合成しようと試みたが、失敗の連続で4年かかってようやく60%ee(ee:エナンチオマー[鏡像体]過剰率。100%eeが片方だけを選択的に作り上げたということ)、さらに2年かかって100%eeまで磨き上げた。
その後、その触媒を用い、1983年高砂香料と共同でL-メントールの中間体合成(世界の需要の3分の1をまかなう生産)、生理活性物質プロスタグランジンの合成で、コーリー先生でも20工程かかる過程をわずか3工程で合成等々の仕事を成し遂げ、現在は世界に3人いる不斉合成性のパイオニアの1人であり、発表論文数は約400、世界で引用された回数は1万6千件(日本の化学分野で最多。)、特許も145件以上取得し大学教官のなかで10指にはいるほどになった。
その間、京大、東大、カルフォルニア大、MITなどから迎え入れたいという話は何度か会ったのだが、名大に愛着があり離れられなかったという。私も去年、講演会を聞いたのだが非常に熱く、そして自分の学問に自信を持っていている人だ。そして、今回「有機化学は麻雀より面白い」という名言を残しているとおり、本当にすきなのであろう。
・研究者プロフィール
・日本経済新聞2001.4.25
・日本経済新聞2001.4.23 |