2002年のノーベル化学賞は、島津製作所ライフサイエンス研究所主任の田中耕一氏(43)、バージニア・コモンウエルズ大教授のジョン・B・フェン博士(85)、ETH(スイス連邦工科大)教授のクルト・ビュートリッヒ博士(64)に授与されました。日本人のノーベル化学賞受賞者は4人目で、3年連続となります。また今年はノーベル物理学賞を小柴昌俊・東大名誉教授も同時受賞しており、化学分野に限らず日本の研究レベルの高さを世界にアピールする結果となりました。大変喜ばしい結果です。
今回のノーベル化学賞は”for the development of methods for identification and structure analyses of biological macromolecules”、すなわち「生体高分子の同定・構造解析手法の開発」に対して与えられました。
分析化学分野にカテゴライズされますが、田中氏とフェン博士はそのうち「質量分析法(MS)」、ビュートリッヒ博士は「核磁気共鳴分光法(NMR)」における、生命科学にまで波及しうる新たな手法の開発が評価対象となりました。
ノーベル賞を受賞するような分析技術は、いずれも研究スピードを革新的に速めるような技術であり、今回の受賞も全く例外ではありません。本記事では受賞対象となった各分析技術について、簡単に解説してみたいと思います。
質量分析:タンパク質の分子量を測りたい!
質量分析(Mass Spectrometry, MS)とはその名の通り、有機化合物の重さ(分子量)を量るための分析法です。MSの最大の特徴は、きわめて微量のサンプル量で構造情報が得られるところにあります。クロマトグラフィーと組み合わせることで、10-13~10-14 gの超微量化合物でさえ検出可能です。
ノーベル賞の説明に入る前に、原理としくみを簡単に述べておきます。MSを行うためには、まずサンプルを装置に導入(試料導入部)し、適当な方法でイオン化する必要があります(イオン化部)。発生したイオンを質量によって分離(質量分析部)し、検出します(検出部)。 このスペクトル情報を解析(データ処理部)することで、化合物の分子量が決定されてきます。質量分析計の内部は、概ねその5つを行う部位から構成されています(下図)。田中氏とフェン博士が新しく発明したものは、このうちのイオン化部になります。
MSを行なう上でイオン化は必須です。たとえばかねてより汎用されてきたイオン化法の一つに、電子衝撃法(Electron Ionization, EI)があります。簡単にいえば、気化させた試料に加速電子をぶつけ、試料をラジカル陽イオン化させる方法です。この方法は簡便で測定も容易なため、現在でも低分子量化合物の解析などに用いられています。
しかしながらEI法には2つの制約がありました。一つは難揮発性物質や熱に弱い化合物などは気化できず測定できない点。もう一つは電子をぶつけた際に断片化(フラグメンテーション)してしまい、特に高分子量化合物では有用なスペクトル情報が得られない点です。
田中氏が開発したマトリックス支援レーザー脱離イオン化法(Matrix-Assisted Laser Desorption Ionization, MALDI)、及びフェン博士が開発したエレクトロスプレーイオン化法(Electrospray Ionization, ESI)は、こういった制限を克服するものであり、タンパク質などの高分子量化合物でもマイルドにイオン化できます。これにより、測定可能な質量上限が大幅に向上したのです。
MALDIとESI:その原理
MALDI法の原理
これは、大きなエネルギーを瞬間的に与えイオン化し、化合物の熱分解を抑制する手法(エネルギーサドン)の一種です。
MALDI法ではまず、マトリックスと呼ばれる粘ちょう性の液体とサンプルを混合します。これにレーザー光を照射すると、マトリックス表面が急速に加熱され、サンプルと共に気化されます。この過程で、励起状態にあるマトリックスとの化学反応を通じてサンプルのイオン化が達成されます。
この方法は、タンパク質をはじめとする分子量の大きい化合物に対し、特に威力を発揮します。飛行時間型質量分析計(Time of Flight, TOF)と組み合わせることで、高感度の検出が可能であり、10万以上の分子量をもつ化合物の測定も可能になります。
ESI法の原理
これは、非常に強い静電場で基質からイオンを抽出する手法(フィールドデソープション)の一種です。
ESI法ではまず、キャピラリーにサンプル溶液をとり、それを大気圧環境下で噴霧します。キャピラリー先端には高電圧が印加されているため、噴霧溶液は高度に荷電した霧状液滴になります。この液滴をガス対向流などのエネルギーを与えて細分化させ、最終的にイオン化が達成されます。
ESIは大気圧下でイオン化が達成されるため、難揮発性物質などにも適用できる点が最大の特徴です。
MALDI及びESIの利点
それぞれのイオン化法には得意な点・不得手な点が存在します。サンプルの特性に応じて使い分けるのが賢い使用法です。
■MALDIがESIより優れている点
- 幅広い種類の生体高分子(糖タンパク、オリゴヌクレオチド、オリゴ糖)に適用可能
- マトリックスを適切に選択すれば、無機・有機化合物による汚染を減ずることが出来る
- 分離精製を経ず、混合タンパク質の直接分析が可能
■ESIがMALDIより優れている点
- 分解能が高く質量測定の精度が高い(分子量15000程度までは、同位体ピークの分離も可能)
- 液体クロマトグラフィー/質量分析法(LC/MS, 後述)への適用がしやすい
- 溶液中のイオンが測定可能
質量分析法の応用
現在では、MSは分子量決定にとどまらず様々な手法に応用されています。
分子式の決定
高分解能MSという技術を用いると、小数点以下数桁までの分子量(精密質量)が求められます。この精密質量をコンピュータで計算すれば、分子組成式を直接決定できます。
たとえば整数値分子量で32となる原子組成は以下の4つ(12C=12.0000を原子量の基準とした場合)が考えられるのでが、その精密質量数は全て異なることがおわかりでしょう。どんな高分子でも、小数第4位程度まで測定できればほぼ一通りに決められます。
組成 | 整数質量 | 精密質量 |
O2 | 32 | 32.9898 |
H2NO | 32 | 32.0136 |
H4N2 | 32 | 32.0395 |
CH4O | 32 | 32.0262 |
ガスクロマトグラフィー/質量分析法(GC/MS)・液体クロマトグラフィー/質量分析法(LC/MS)
化合物分離法であるガスクロマトグラフィー・液体クロマトグラフィーとMSを組み合わせることで、混合物の迅速な定性・定量分析が行えます。その検出感度の良さを反映して、現在では非常に多くの分野(たとえば医療分野・食品分野・犯罪捜査など)で用いられています。
多次元NMR:タンパク質の立体構造を知りたい!
もう一つの受賞対象技術である核磁気共鳴法(Nuclear Maginetic Resonance, NMR)ですが、これは簡単に言うと原子が置かれている電子的環境を見積もるための分析法です。どのようなときにどういった測定値を与えるかが多角的にデータベース化されているため、構造決定における大変強力なツールとなります。
しかしタンパク質には膨大な数の原子が含まれ、とりわけ水素原子の取り扱いは難題でした。水素原子は感度良く測定できる一方、ほとんどはα-アミノ酸に結合した似たような環境にあるため、数百・数千もある水素原子の微妙な違いを区別することはかなり難しいのです。
ここで威力を発揮するのが多次元NMRです。大雑把に言えばNMR測定法を二種類、もしくは多種類同時に組み合わせて行うやり方で、単純なNMR測定だけでは得られない構造情報を得ることができます。
ヴュートリッヒ教授が初期に取り組んだのは、核オーバーハウザー効果相関スペクトル(NOESY)や1H-1H相関スペクトル(COSY)といった2次元NMR手法を、タンパク質に適用可能なレベルにまで磨き上げることでした。前者は水素原子の立体的近さ、後者は水素原子が数原子間隔程度のconnectivityを持つかどうかを調べることができます。のちにヴュートリッヒ教授はTROSYやCRINEPT といった発展的測定法の開発にも成功しています。
ヴュートリッヒ教授はこれらのNMR手法を適用することで、数々のタンパク質構造解析に成功しました。この多次元NMRは現在では、溶液状隊におけるタンパク質の立体構造情報を得る定番ツールとなっています。タンパク質の動的挙動を見積もれること、結晶化しづらいタンパクにも適用可能であることから、同じく定番ツールであるX線結晶構造解析と相補的に使われています。
おわりに
以上紹介してきたMSやNMRは、かつては低分子量化合物にしか適用出来なかった技術でした。しかし今回の3人が開発した技術によって、分子量の大きな生体高分子にまで適用範囲が広がり、生命化学分野での解析スピードが飛躍的にアップしたのです。まさにノーベル賞にふさわしい、独創的かつ画期的な成果といえるでしょう。
余談ですが、私自身MALDI法が日本企業の手による開発と言うことを、今回初めて知りました。マスコミ側も受賞対象と予想してなかったらしく、報道時の説明なども手間取っている様子でした。 ノーベル賞委員会は緻密な調査を重ねて世界最高の賞を維持していることが改めて感じ取られ、審査員の方々に敬意を表したく思います。
また、今回ノーベル賞を受賞された方々にも、お祝いの言葉を述べさせて頂き、本稿を結びたいと思います。おめでとうございました!
(2002.11.11 公開, 20016. 9. 11加筆修正 by cosine)
(※本記事は以前より公開されていたものを加筆修正のうえブログに移行したものです)