明治から昭和にかけて“化学界の権威”として活躍した高知出身の化学者=近重真澄を紹介する展示が高知市で開かれています。 (引用:8月25日テレビ高知)
近重真澄(ちかしげ・ますみ)は、明治3(1870)年9月3日、高知県高知市に生まれました。中学生の頃は、政治への関心が高かったそうですが、科学を志すようになり17歳の時には漢文で「科学論」を執筆するほどだったそうです。明治24(1891)年、第一高等中学校(現・東京大学教養学部等)を卒業し、東京帝国大学理科大学化学科(現・東京大学大学院理学系研究科)に進みました。同27年に卒業すると、すぐに大学院へと進み、同29年7月に大学院を卒業すると第五高等学校(現・熊本大学)の教授となりました。大学院時代には3本の論文を発表しているようで、院生の頃から化学者としての頭角を現していたようです。当時の就職事情はよく分かりませんが、大学院卒業後、即教授に就任という現在では考えられないキャリアを進んだことも驚きです。近重は同年にJournal of the Chemical Societyに「The atomic weight of Japanese tellurium」というタイトルで論文を発表しました。アブストラクトによると、テルルの質量についてはいくつかの報告例がすでにありましたが報告された質量が異なっていたため、日本で算出されたテルルを使って質量を実験的に調べたという内容のようです。この発表は、テルルがヨウ素よりも質量が軽い大きな証拠となりました。
明治31年12月には、新しく発足した京都帝国大学の助教授となり、同35年12月には「インジゴに関する研究」で理学博士の学位を授与されました。その後、教授職を務めていた近重は無機化学の研究でヨーロッパ留学の機会を得て明治38年から41年まで、ドイツとフランスで化学の最前線を学びました。ドイツではゲッティンゲン大学のタンマン博士に師事し、合金についての研究に注力し、これ以来無機化学を専門とするようになりました。ちなみにタンマンは毎日10時間実験室で過ごし、研究室員にも長時間実験することを求め、思うようにデータを出さないものにはきびしい叱責の声が飛ばすような鬼軍曹でしたが、その情熱で500件以上の論文を発表したそうです。
帰国後は、京都帝国大学、大正3年に分科された後は、京都理科大学の教授として教鞭をとっていました。大正6年、ついに自身の研究をまとめた「金相学」を発表しました。金相学は、5章から成り、
- 実験方法
- 純金属の物性
- 二元素合金の物性
- 二元素合金の応用
- 三元素合金の合成
という内容になっています。
漢字とカタカナで書かれているためなかなか読みにくいですが、合金の状態や相転移についてが主の内容です。興味深い内容は、骨董品を化学的に分析した結果で、刀剣を顕微鏡観察によって組成分を同定し物性を調べたり、銅と錫の割合を色の観察によって解析して使用用途を推定するなど、歴史学や考古学の分野にも貢献していたようです。事実、壁画に使われていた顔料の調査や各地の遺跡から発掘された青銅器の分析を行った結果を発表しています。
大正9年、京都理科大学に金相学講座が開設され、近重は硫黄やセレンの研究にも取り組まれたそうです。そして大正16年化学研究所の所長に就任し、昭和2年には日本化学会の会長に任命された後、昭和5年に定年退官するまで多くの研究で功績を残し、金相学を発展させたそうです。
最近になって高知県内で博士の写真など貴重な資料が見つかったことから、近重真澄の生誕150周年を記念して企画されました。展示は高知市上町の龍馬の生まれたまち記念館で開かれていて、近重真澄の紹介パネルと資料を展示しています。11月14日まで行われますが、一部資料は10月2日までだそうです。
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- 本多光太郎の足跡をたどる-交流のあった人々:鉄鋼の世界的権威である本多光太郎もタンマン博士の研究室に留学していて近重真澄とは約五か月、滞在期間が重なっていた。