bergです。今回は量子化学の黎明期に有機化学の分子軌道論との橋渡しとしての役割を果たしたヒュッケル法(Hückel法)の2回目です。前回はシュレディンガー方程式からヒュッケル法の概要、エチレン、ブタジエン、ベンゼンなどの簡単な分子での計算を追っていき、芳香族性の判定法(ヒュッケル法、フロスト円)までたどり着きましたね。ただし、ヒュッケル法ではn個のπ電子を有する共役系について知見を得るにはn次の行列式(永年方程式)を解く必要があり、複雑な分子では手計算で求めるのが困難でした。そこで、2回目の今回はMicrosoft Excel®のソルバー機能を用いて簡単に解を求める方法をご紹介してまいります。
前回のおさらい
・量子力学の基盤となるシュレディンガー方程式は、厳密には解けない(水素原子除く)。
・ヒュッケル法はπ共役系分子について、分子軌道近似、π電子近似、LCAO近似を施すことで単純化して解く方法。 ・シュレディンガー方程式の左側からΨ*をかけて積分したものをエネルギー固有値Eについて解き、これが最安定となる係数を求める。 ・上記はEの各係数での偏微分が0となることを意味し、これをまとめると永年方程式(行列式)が0となる条件を求めることと同値。 ・永年方程式の解から各準位のエネルギー固有値と分子軌道のかたちが分かる。 ・ポリエン・環状共役系ではエチレンより安定化するケース→共鳴エネルギー(非局在化エネルギー)、芳香族性 ・逆にシクロブタジエンでは不安定化→反芳香族性 ・芳香族性(4n+2)/反芳香族性(4n)の判定はヒュッケル則に従う。 ・ねじれた環では安定性が逆転する(メビウス芳香族性) |
ざっとこんなところでしょうか。それではいよいよ今回の内容に進んでいきましょう。
ナフタレンの反応性を考察してみた!
まず手始めに、ナフタレン(C10H8)を例にMicrosoft Excel®のソルバー機能を用いて簡単に解を求める方法をご紹介します。
スルホン化が代表例ですが、ナフタレンへの芳香族求電子置換(SEAr)反応が一般的に低温ではα位に、高温ではβ位に起こりやすいことは高校化学でもよく題材に取り上げられ、学部生向けの教科書にはそれぞれ速度論支配、熱力学支配であることが説明されています。混み合っていないβ置換体が熱力学的に安定なのはともかくとして、それではなぜα位の方が早く反応が進行するのでしょうか?これは従来の有機電子論では説明がつかず、実はフロンティア軌道論の揺籃の地として決定的な役割を果たした難問でもあります[1]。
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以下の計算環境は
ソフトウェア:Microsoft Excel 2019 64bit版
CPU:Intel Core i9-9980HK 2.40GHz
仕様可能メモリ:25.6GB
で実行しています。
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Excelのソルバー機能とは、関数の値が指定値となるような変数の値を探索する機能です。今回の場合、行列式(関数)の値が0となるようなx(変数)を全て求めることになります。
まずは行列を作成します。変数x以外の定数項は手動で入力、xの項はQ5セルから呼び出しています。永年方程式の解(行列式)はMDETERM関数で求めています。
ここまで来たらあとはソルバーを回すだけです。「データ」タブの右側、「分析」のカテゴリのソルバーアイコンを選択し、目的セル(行列式の値)を指定値(0)にするために変数(x)を変化させます。x>3の領域には解がなさそうなので念のため確認してみます。
案の定解なしでした。これでx<3の範囲で探索すればよいことになります。
(解があると予想される領域で見つからない場合にはオプションから「制約条件の制度」を緩めます)
見つかりました。最大の解はx=2.303くらいでした。回答をレポートとして別タブに出力しておくと後々便利です。
このように計算にかかった時間までご丁寧に出力されます。
解が得られるたびに制約条件を変えて次の解を探索していくと、ナフタレンについては、
と定まります。どれも0.1秒足らずで計算できました。10個のエネルギー固有値が重複なく得られたので、軌道の縮退がないことが示されました。
案外重解が一つもなかったので、HOMOのエネルギーがα+0.618β、LUMOがα-0.618βとわかります。
さて、問題はHOMO(x=-0.618)のローブの形です。得られたxの値を永年方程式の導出過程に現れる行列のα-Eに代入し、行列と係数ベクトルの積(MMULT関数で計算可能です)が0となり、2乗和が1となるような10個の係数群を求めます。条件を増やさないと一意には定まらないため対称性に着目して同様にソルバーで解くと、
α位の係数が0.4253、β位が0.2629となります。ゆえにHOMOの電子密度は、
となり、α位がβ位の2.7倍近いという結果が得られ、実験結果の説明がつきました。福井謙一教授らはこのHOMO(フロンティア軌道)の電子密度の差異に着目し、これが求電子試薬との反応性を規定していると考えてフロンティア軌道論を提唱しました。このような計算で分子の反応性を予測できるというのは非常に興味深いですね。
フラーレンの永年方程式を解いてみた!
このたび、π共役系分子の金字塔ともいえるフラーレン(C60→過去記事)についても永年方程式が解けるのか試してみました!
永年方程式は60次になりますが、画像の連番を参考にひたすら作成していきます。
構造式とにらみ合って打ち込ましたが、かなりしんどいです(笑)これでもほとんどの項は0です。なんだか模様に規則性がありそうですね。
ソルバーでしらみつぶしに解を求めていくと
と13個の解が見つかりました。一部の解は20秒近く計算にかかりました(笑)
答え合わせをすると、フラーレンのエネルギー準位は15個ある[2]ようなのですが、いろいろと条件を変えて試行してもどうしても2つの軌道を発見できませんでした。60次関数では勾配が極めて急峻になるため、見逃しが発生しやすくなるのかもしれません。また、π平面の歪みによって縮退が解ける可能性も考えられそうです。随分苦行した割には寂しい結果となりましたが、特別なソフトを使わずにここまでの結果が得られるとわかったことは大きな収穫でした。学生時代以来ひさびさに量子化学に触れて、良い頭の体操になったと思います。
フラーレンはその高度に対照的な構造のため、高次に縮退した電子構造を持ちます。とりわけLUMOが三重縮退していることから電子受容能に優れ、最大6電子還元まで受けることが知られています。
このような特性を活かした[2+3]双極子付加反応をはじめとする化学修飾が容易であり、有機半導体などの機能性材料をはじめとする応用が嘱望されています。
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ここまでご覧のように、ヒュッケル法は大胆な近似を用いた極めてシンプルな計算手法でありながら、それなりに化合物の物性を説明できる結論を導ける優れた手法です。とはいえ、手計算やExcelでの求解には限界もあります。現在はGAMESSやGaussianなどの優れた計算科学ソフトウェアがあり、ハートリー=フォック法(HF法)や密度汎関数法などのヒュッケル法よりはるかに高度な計算(非経験的分子軌道法)を誰でも手軽に行うことがでるようになりました。特にGAMESSは無償版も提供されており、非常にありがたい時代になったといえますね。
関連書籍
参考文献
[1] 稲垣 都士, 池田 博隆, 化学と教育, 2019, 67(1), p.28-31,https://doi.org/10.20665/kakyoshi.67.1_28
…フロンティア軌道論についての総説
[2] M. S. Golden et al, Journal of Physics: Condensed Matter, 1995, 7,8219-8247.https://doi.org/10.1088/0953-8984%2F7%2F43%2F004
…フラーレンの電子構造について