縮退した電子状態にある非線形の分子は通常不安定で、分子の対称性を落とすことで縮退を解いた構造が安定です1。このように分子の対称性を落として電子状態の縮退を解き、電子的な安定化を得ることを、ヤーン·テラー効果 (Jahn–Teller effects) と言います。
ヤーン·テラー効果の例
例えばヘキサアクア銅(II) イオン錯体 [Cu(H2O)6]2+ の幾何構造と電子構造を考えます。六配位錯体の典型的な構造は八面体であり、結晶場理論によると八面体構造では d 軌道は 2-3 型に分裂すると考えられます。Cu2+ の d 電子の数は 9 つであり (d9 ) であるため、三重に縮退した t2g 軌道は完全に占有され、二重に縮退した eg 軌道は、不完全に満たされます (下図)。このとき 9 つ目の電子 (オレンジ色で示した) は、二重に縮退した eg 軌道 (dz2 軌道とdx2−y2 軌道) のどちらに入れてもよいわけで、この電子構造は縮退していると言えます。
しかし、もし dz2 軌道と dx2−y2 軌道のどちらかを不安定化するかわりに、もう片方を安定化させることができれば、その安定化させた軌道に多く電子を収容することで系全体として安定化できると考えられます。そのように dz2 軌道と dx2−y2 軌道のエネルギー準位を分裂する方法として、アキシャル位の配位子との結合を伸ばすのが1つのアイデアとして考えられます。そうすることで、アキシャル方向 (z 軸) に伸びた軌道である dz2 軌道と配位子間の反発が軽減できるので安定化でき、逆にエカトリアル方向に伸びた軌道である dx2−y2 軌道は相対的に不安定化されます。このときより安定化した dz2 軌道に電子を2つ収容し、不安定化した dx2−y2 軌道に 1 つの電子を置くことで、分裂する前よりも安定な電子配置が得られることが分かります。
一方、 t2g 軌道 (dxy/yz/xz 軌道)のエネルギー準位も分裂します。八面体から歪んだことによって t2g 軌道に収容されていた電子の安定化および不安定化の程度についても考えてみましょう。上述の eg 軌道の分裂の議論と同様に 、z 軸成分を持つ軌道 (dyz/xz) は安定化し、dxy 軌道は相対的に不安定化します。ただし重心の法則によって dyz/xz の安定化の程度は dxy 軌道の不安定化の半分となっているため、完全に占有されたt2g 軌道の分裂による正味のエネルギー的な変化はありません。もう一つ付けたしをすると、dxy/yz/xz 軌道は z 軸方向に直接重なっている軌道ではないので、分裂の程度も eg 軌道における分裂より小さくなっています。
したがって、d9 電子構造を持つ [Cu(H2O)6]2+ において、完全な八面体構造から伸長した八面体へと歪むことによって 、安定化された dz2 軌道に電子を2つ置くことができ、完全な八面体よりも安定な電子配置が得られると考えられます。実際に、単結晶 X 線回折によって決定された [Cu(H2O)6]2+ の結晶構造を見ると、アキシャル位の Cu–O 結合の方が、エカトリアル位のCu–O 結合よりも長くなっており、Cu2+ 周りの構造は伸長した八面体となっています2。
八面体からの歪み方は 2 種類ある
上述の [Cu(H2O)6]2+ の議論において、eg 軌道の縮退の解き方として、アキシャル位の Cu–O 結合が伸ばして dz2 軌道を安定化させる場合を考えましたが、dx2−y2 軌道を安定化させるような歪み方もありえます。すなわち、エカトリアル位の 4 つの Cu–O 結合を伸ばせば、dx2−y2 軌道が安定化し、dz2 軌道が不安定化する可能性も考えられます。このような歪み方は圧縮した八面体とみることができます。t2g 軌道の分裂の仕方は、伸長した八面体の場合と逆で z 軸成分を持つ dyz/xz 軌道は不安定化し、dxy 軌道が安定化します。t2g 軌道の分裂のパターンは伸長した八面体の場合と異なっていますが 、先ほどの議論と同様に完全に占有されたt2g 軌道の分裂による正味のエネルギー的な変化はありません。
アキシャル位の結合を伸ばすか、エカトリアル位の結合を伸ばすかのどちらが起こるかについては、ヤーン·テラーの法則では予測できません。ただし、実際にはアキシャル位の結合を伸ばす方が、伸ばす結合の数が少なくて済むので、伸長した八面体構造の方がよく見られます。
伸長した八面体と圧縮した八面体がどちらも D4h 対称性であることにも注目しましょう。どちらの歪み方でも軌道の表現の記号 (representation) は同じです。
ヤーン·テラー効果を示す条件: Jahn–Teller theorem
上では d9 電子配置を持つ Cu2+ を例に考えましたが、ヤーン·テラー効果によって理想的な正八面体から歪んだ構造を取る電子配置は d9 だけではありません。 量子化学者のHermann Arthur Jahnと Edward Teller は、縮退した電子状態あるあらゆる非線形の分子やイオンは通常不安定で、その対称性を落とすことで縮退を解いた構造が安定という理論 (Jahn–Teller theorem) を発表しました1。 これを金属錯体に当てはめると、ヤーン·テラー効果によって歪む可能性がある条件は、① 非線形であることと② 縮退した d 軌道に不完全に電子が満たされている (半閉殻でも閉殻でもない) ことの2つです。この条件について、もう少し詳しく説明しましょう。
非線形であること
これは、ヤーン·テラー効果が起こるのは八面体錯体だけではないことを意味します。例えば四配位四面体錯体などでもヤーン·テラー効果が観測される場合はあります。四面体錯体でヤーン·テラー効果が起こる場合は、少し平たくなって C2v 対称性の構造になります。三脚型配位子にキレートされた擬四面体構造 (C3v) の錯体の場合には、C3軸上の単座配位子が軸から傾いたり、その結合長が伸びたりすることでも、正四面体構造から歪むこともあります。
この条件は、分子の対称性を崩すことによって 縮退した d 軌道が分裂させたとしても、安定化する軌道と不安定化する軌道は等しく分裂する (= 重心の法則) に由来します。例えば先の八面体構造からアキシャル方向に伸長する例では 、dz2 軌道が安定化する分と同じ分だけdx2−y2 軌道が不安定化します。したがって、もし eg 軌道が完全に満たされている (= 閉殻, d10) であった場合、構造を歪ませることによるエネルギー的な安定化の効果が得られません。
t2g 軌道の分裂の仕方は、eg 軌道よりもやや複雑です。上の [Cu(H2O)6]2+ の例で見たように 八面体からアキシャル位方向に伸長する例では、 dyz/xz の 2 つの軌道が安定化するのに対して dxy 軌道の 1 つのみが不安定化します。このとき、dyz/xz の 2 つのそれぞれの軌道の安定化は、dxy 軌道の不安定化の程度の半分となっています。したがって、もし t2g 軌道が完全に満たされている、あるいは半閉殻の場合には分裂することによる正味の安定化が得られないのです。
上記のことを考慮すると、次の電子配置以外の錯体において、ヤーン·テラー効果がみられることになります。ちなみに四配位四面体において, 原理的には “低スピン d4” もヤーン·テラー効果を示さないと考えられますが、四配位錯体で低スピン配置を取ることは非常にまれなのでカッコをつけています。
ヤーン·テラー効果を示さない電子配置
6 配位八面体: d0 , d3, 高スピン d5, 低スピン d6, 高スピン d8, d10
4 配位四面体: d0, d2, (低スピン d4) , 高スピン d5, d7, d10
逆に言えば、上の電子配置以外では、程度の差はあれヤーン·テラー効果が観測されます。ただし、ヤーン·テラー効果を強く示す電子配置と弱くしか示さない電子配置の区別は、理解しておくと便利です。六配位の場合は、eg 軌道に電子が不完全に満たされている場合に特に大きなヤーン·テラー効果がみられます。その理由は、t2g 軌道に比べて eg 軌道は配位子に直接向いているため、歪むことによるエネルギーの分裂が大きく、安定化の効果が大きく得られるからです ([Cu(H2O)6]2+ での軌道の分裂の図を参照) 。具体的には、高スピン d4, 低スピン d7, d9において、著しいヤーン·テラー効果がみられます。さらに言えば Cr2+ (d4) 低スピンCo2+ (d7) , Cu2+ (d9) などがそのような電子配置を示し、強いヤーン·テラー効果を示す代表的な金属イオンです。
四面体錯体の場合は、t2 軌道の方が配位子の方向に近いので、 t2 軌道が不完全に満たされている場合 (特に 高スピン d4 やd9 配置のとき) に著しいヤーン·テラー効果が見られます。四配位錯体において d8 電子配置を持つ中心金属は平面四角構造を好みますが (記事最後の練習問題も参考)、Tp 配位子のように四面体構造に強制する配位子がキレートしている場合に d8 電子配置を持つ場合は、歪んだ四面体構造が見られます (上図の TpNpCo(CO) の例も参照)。
著しいヤーン·テラー効果が観測される電子配置
6 配位八面体: 高スピン d4, 低スピン d7, d9
4 配位四面体: 高スピン d4 , (d8) d9
上は、暗記するものではなくて、ヤーン·テラー効果の起源をしっかり理解すれば理屈から導き出せるものです。
ヤーン·テラー効果の実験的証拠
単結晶 X 線構造解析により結晶構造を調べれば、中心金属の構造が歪んでいることが直接観測できます (上の [Cu(H2O)6](C6H14N2)(SO4)2 結晶構造を参照)。
一方、構造の変化による電子状態の変化 (d 軌道の分裂) は、可視紫外分光法 (UV-vis spectroscopy) で、d–d 遷移を調査することによって確認できます。例えば [Cu(H2O)6]2+ の Uv-vis スペクトルは、以下のように エネルギー的に近い 2 つのピークが重なって見られます。これは、分裂した t2g 軌道のそれぞれからdx2−y2 軌道へ遷移するピークに対応すると考えることができます。
有機分子におけるヤーン·テラー効果
上では金属錯体において、ヤーン·テラー効果によって歪む可能性がある条件が、① 非線形であることと② 縮退した d 軌道に不完全に電子が満たされている (半閉殻でも閉殻でもない) であると述べました。しかし、ヤーン·テラー効果は金属錯体だけでなく、有機分子にも見られます。例えば メタン CH4 のイオン化によって発生するカチオンCH4+ は、三重に縮退した t2 軌道が不完全に満たされた電子配置となるので、ヤーン·テラー効果によって歪みます5。
二次ヤーン·テラー効果
これまでに述べてきた、構造変化を伴うことで縮退した電子状態を解こうとする効果は、厳密には一次ヤーン·テラー効果 (first-order Jahn–Teller effect; FOJT) に分類されます。一方、基底状態の電子状態が縮退していなくても観測される、二次ヤーン·テラー効果 (second-order Jahn–Teller effect; SOJT) と呼ばれる効果も存在します6 。二次ヤーン·テラー効果が起こるのは、占有された軌道のエネルギー準位的に近い位置に混成可能な空軌道が存在し、軌道間の混成 (軌道の対称性の直積) と対応できるような対称性の基準振動が存在するときです。 例えば 同じ AH2 型の分子でも BeH2 は直線状で H2O が折れ線状である理由や、AH3 型の分子において BH3 は平面三角で NH3 が三角錐型である理由が、二次ヤーン·テラー効果の議論によって説明できます。
練習問題 (答えは参考文献のあと)
- (一次の) ヤーン·テラー効果とはなにか。50字以内に簡潔に説明せよ
- 次の分子について、(一次の) ヤーン·テラー効果を示すか示さないか予測せよ。
- [Ti(H2O)6]3+
- [Cr(H2O)6]2+
- [Mn(H2O)6]2+
- [Fe(CN)6]4−
- [CoCl4]2−
- [Co(CN)6]4−
- W(CO)6
- [FeO4]4−
- [Fe(N(SiMe3)2)2]−
- 六配位八面体構造で d8 電子配置の錯体 (例えば [Ni(H2O)6]2+) について考える. もしこの分子がアキシャル方向に伸長して dz2 を安定化して, さらに eg 軌道の電子を 2 つともdz2 軌道に収容した場合, もとの八面体構造よりも電子の軌道のエネルギーが安定になりそうに思える。しかし実際には [Ni(H2O)6]2+ は理想的な八面体構造をとる。この理由について考察せよ。
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参考文献
- Jahn, H. A.; Teller, E. Stability of Polyatomic Molecules in Degenerate Electronic States – I—Orbital Degeneracy. Proc. R. Soc. Lond. Ser. – Math. Phys. Sci. 1937, 161 (905), 220–235. DOI:10.1098/rspa.1937.0142.
- Naïli, H.; Rekik, W.; Bataille, T.; Mhiri, T. Crystal Structure, Phase Transition and Thermal Behaviour of Dabcodiium Hexaaquacopper(II) Bis(Sulfate), (C6H14N2)[Cu(H2O)6](SO4)2. Polyhedron 2006, 25 (18), 3543–3554. DOI:10.1016/j.poly.2006.07.010.
- Winter, A.; Thiel, K.; Zabel, A.; Klamroth, T.; Pöppl, A.; Kelling, A.; Schilde, U.; Taubert, A.; Strauch, P. Tetrahalidocuprates(Ii) – Structure and EPR Spectroscopy. Part 2: Tetrachloridocuprates(Ii). New J. Chem. 2014, 38 (3), 1019. DOI: https://doi.org/10.1039/c3nj01039b.
- Detrich, J. L.; Konečný, R.; Vetter, W. M.; Doren, D.; Rheingold, A. L.; Theopold, K. H. Structural Distortion of the TpCo-L Fragment (Tp = Tris(Pyrazolyl)Borate). Analysis by X-Ray Diffraction and Density Functional Theory. J. Am. Chem. Soc. 1996, 118 (7), 1703–1712. DOI: 10.1021/ja9523101.
- 有機分子でのヤーン·テラー効果に関する文献: Wörner, H. J.; Merkt, F. Jahn–Teller Effects in Molecular Cations Studied by Photoelectron Spectroscopy and Group Theory. Angew. Chem. Int. Ed. 2009, 48 (35), 6404–6424. DOI: 10.1002/anie.200900526.
- 二次のヤーン·テラー効果に関する文献: Pearson, R. G. Concerning Jahn-Teller Effects. Proc. Natl. Acad. Sci. 1975, 72 (6), 2104–2106. DOI: 10.1073/pnas.72.6.2104.
練習問題の答え
- 分子の対称性を落として電子状態の縮退を解き、電子的な安定化を得る効果 (35字)
- 中心金属の酸化数と d 電子数を計算する. 必要であればスピン状態も予測する.
- [Ti(H2O)6]3+: Ti3+, d1. ヤーンテラー効果示す
- [Cr(H2O)6]2+: Cr2+, d4. 水は弱い配位子なので, 高スピンと予測される. 高スピン d4 は ヤーンテラー効果示す
- [Mn(H2O)6]2+: Mn2+, d5. 水は弱い配位子なので高スピン. 高スピン d5 は ヤーンテラー効果示さない
- [Fe(CN)6]4−: Fe2+, d6. CN− はπ受容性の強い配位子なので低スピン. 低スピン d6 はヤーンテラー効果示さない
- [CoCl4]2−: Co2+, d7. 四面体錯体はたいてい高スピンであるし, Cl− は弱い配位子なので高スピン. 四配位錯体において高スピン d7 はヤーンテラー効果示さない
- [Co(CN)6]4−: Co2+, d7. CN− はπ受容性の強い配位子なので低スピン. 六配位錯体において低スピン d7 は強いヤーンテラー効果示す
- W(CO)6: W0, d6. CO は強い配位子であり, しかも 5d 金属はたいてい低スピンなので, この錯体の電子構造は低スピン d6. ヤーンテラー効果示さない.
- [FeO4]4−: Fe4+, d4. 四面体錯体はたいてい高スピンなので, 個の錯体の電子構造は高スピン d4. 四面体錯体で高スピン d4 は強いヤーンテラー効果示す
- [Fe(N(SiMe3)2)2]−: Fe2+, d6. 二配位の直線状錯体と予想されるので, ヤーンテラー効果示さない.
- eg 軌道の電子を 2 つともdz2 軌道に収容すると, スピン対形成の反発による不安定化の効果が加わる. [Ni(H2O)6]2+ では, 歪んで dz2 軌道を安定化させて そこに 2 電子入れるよりも, スピン対形成の反発の効果が勝っており, 理想的な八面体構造をとるものと考えれられる.
【補足】 d8 電子配置の錯体においては, 平面四角構造がよく見られます。これは 八面体を無限に伸長させた構造と考えることができ, この問題で考えたようにdz2 軌道を安定化させて そこに 2 電子入れた電子配置と考えることができます。しかし, そのように d8 電子錯体が平面四角構造を取ることはヤーンテラー効果とは言いません。スピンの多重度も変わってしまっていることにも注目しましょう。