近年、医薬品開発において候補分子の三次元構造が注目されてきました。特に、2009年に発表された論文「Escape from Flatland(平面世界からの脱却)」1では、分子内のsp³炭素の割合(Fsp³値)が高い、すなわち三次元的な構造を持つ医薬候補分子が臨床開発で成功しやすいと報告されました(過去記事:「創薬に求められる構造~sp³炭素の重要性~」参照)。しかし、近年の研究では、この仮説が必ずしも現在の創薬プロセスに適用できるとは限らない可能性が指摘されています。
“Return to Flatland”
Ian Churcher, Stuart Newbold, Christopher W. Murray Nat. Chem. Rev. 2025, doi:10.1038/s41570-025-00688-5
“平面世界への回帰”
Loveringらによる2009年の論文中1では、医薬品分子の三次元的特性を定量化するためにFsp³という指標が用いられました。Fsp³が高い分子は平面性が低く、溶解性や選択的標的結合性が向上し、オフターゲット相互作用が減少する可能性があると考えられていました。この研究では、Fsp³と臨床試験成功率の間に統計的に有意な関係(P < 0.001)があると示され、以降、Fsp³は創薬における重要な指標の一つとして広く認識されてきました。
一方、2025年の本論説 “Return to Flatland” では、この仮説—「三次元的な構造を持つ医薬品(高Fsp³値の分子)は臨床開発において成功しやすい」—が現在でも成り立つのかを再評価しています。著者らは、2009年以降に承認された医薬品および現在開発中の医薬品についてFsp³値を解析しました。その結果、近年の承認薬ではFsp³値が低下している(0.458 → 0.392)ことが明らかになりました。また、臨床開発中の医薬品においても、Fsp³の高さが成功率と明確な相関を示していませんでした。
低Fsp³承認薬の増加要因
この変化には、標的とする分子の変化や合成技術の進展など、複数の要因が関与していると考えられます。
- 標的の変化
近年、キナーゼ阻害剤の開発が進み、これらは比較的平面性の高い分子(低Fsp³)であることが多いため、承認薬のFsp³値が低下している可能性があります。 - 合成技術の進歩
金属触媒を用いたクロスカップリング反応が一般的になり、sp²結合を持つ分子の合成が容易になったことが影響していると考えられます。 - スクリーニング効率の問題
Fsp³が高い分子は標的選択性を高める可能性がありますが、スクリーニング時のヒット率が低下することが指摘されています。例えば、三次元性を強化したフラグメントセットを用いたBRD4-BD1のスクリーニングでは、従来のフラグメントセットと比較してヒット率が約2.5倍低下したと報告されています。
これらの知見から、本論説では「Fsp³値の高さだけに依存した分子設計は、必ずしも医薬品開発の成功に直結しない」と結論づけています。三次元性という単一の指標を過度に追求するのではなく、標的の特性や薬理活性、物性、合成可能性など、多角的な視点を踏まえた分子設計の重要性が提言されています。
本論説は比較的短文のNews & Viewsとしてまとめられており、すぐ読める内容です。創薬化学に関わる方にとって、一読することで新たな視点を得る良い契機となるでしょう。
参考文献
- Lovering, F.; Bikker, J.; Humblet, C. “Escape from flatland: increasing saturation as an approach to improving clinical success.” J. Med. Chem. 2009, 52, 6752–6756. DOI: 10.1021/jm901241e