有機化学を履修したことのある方は、ほとんど全員と言っても過言でもないほどカルベンについて教科書で習っていることでしょう。この記事では、カルベンの説明とカルベンを利用した反応、生体触媒でのカルベンによる反応、生体内へのカルベンの反応の導入といった研究の発展について紹介したいと思います。
カルベンとは
カルベンとは価電子数が6であり、電荷を持たない炭素の化学種です。詳細は本記事と離れてしまいますので割愛しますが、電子の状態としてはsp2混成軌道に2個の電子、もしくはsp2混成軌道に1つとp軌道に1つの電子を持ちます (図1) 。従ってラジカルを2つ持つようなイメージを持ってもらうと良いかなと思います。ラジカルは言うまでもなく反応性が高く、それが2つもあるカルベンとなれば非常に反応性が高いことが伺えると思います。
カルベンの反応
カルベンは、その反応性の高さから様々な反応を引き起こすことが可能です。例えばC-H結合への挿入、N-H結合への挿入、シクロプロパン環の形成などが知られております 。特にシクロプロパン環の形成は、有機化学の教科書ではよく取り上げられている反応です (図2) 。以後このシクロプロパン環の形成をカルベン転移反応と呼ばせて頂きます。
しかしこのカルベン転移反応には、反応後にジアステレオマーの混合物として存在してしまうことが問題点となります。カルベンはまず、1つの電子がオレフィンと反応してC-C結合を形成します。ここで図3のピンクの矢印示したようにC-C結合の自由回転により2つの遷移状態をとり、結果としてジアステレオマーの混合物となります。図3では2つのジアステレオマーを示しておりますが、カルベン側の側鎖が異なれば、全部で4つのジアステレオマーの混合物が生じてしまいます。
またこのようなジアステレオマーの生成以外にも、反応性の高いカルベン同士の反応など副反応が起こってしまうことも問題となっていました (図4) 。このようなカルベン転移反応におけるジアステレオ選択性や副反応を改善するために、カルベンの生成方法や、反応に用いる触媒が検討されてきました。
カルベンの生成方法
このような反応性の高いカルベンは、古典的には塩素や光を用いた反応により生成されていました。現在でも様々なカルベンの生成方法があるなか、ジアゾ化合物を用いたカルベンの生成方法がよく用いられております。ジアゾ化合物は光や熱に応じて安定な窒素を放出することでカルベンを生成します (図5) 。また、ジアゾカルボニル化合物の場合、電子吸引性であるカルボニル基がジアゾ基の双極子モーメントを安定化させるため、カルベンの生成によく用いられております。こちらのカルベンの生成を利用した反応や詳細について興味がある方は、是非こちらの記事をご覧ください。
カルベン錯体
カルベン錯体とは、カルベンを配位子として持つ有機金属錯体であり、1960年頃からその開発が進められてきました。有名なものだとフィッシャー型カルベン錯体や、シュロック型カルベン錯体が錯体として用いられてきました (図6) 。これらの錯体は、反応性の高いカルベンを安定化させることが可能となります。このような錯体を用いることで、副反応やジアステレオ選択性を改善する試みが行われてきました。
そのようなカルベン錯体の開発のなか、1980年頃から、金属ポルフィリン錯体を用いたカルベン転移反応が報告されるようになりました (図7) 。初めの報告はロジウムをポルフィリンの金属中心にもつ金属錯体でありますが、これらを用いることで、当時では既報より高いジアステレオ選択性を発揮することが可能となりました。
その後1995年に鉄-ポルフィリン錯体を用いたカルベン転移反応が報告されました (図8) 。この報告では、既報の金属-ポルフィリン錯体よりも高いジアステレオ選択性を示す結果となりました。
生体触媒を用いたカルベン転移反応の応用
鉄-ポルフィリン錯体と聞くと、P450やシトクロムbなどの生体触媒を思い浮かべる方もいるのではないでしょうか。これらの生体触媒は、酵素の活性ポケットに鉄-ポルフィリン錯体結合部位を持ち、この錯体を用いることでヒドロキシ化など様々な反応を引き起こします。先に述べた1995年の報告を受け、2013年にタンパク質の指向性進化でノーベル賞を受賞しているFrances H. Arnoldらがin vitroにおいて、P450を用いたカルベン転移反応を報告しました。この報告では、P450のアミノ酸に変異を加えることで、ジアステレオ選択性が90%を超えるP450を作製することができ、さらに変異を加えていくことによりジアステレオ選択性をコントロールすることもできました (図9) 。この報告を皮切りに、Arnoldや、遷移金属錯体の権威でもあるJohn F. Hartwigらが、生体触媒を用いたカルベン転移反応の研究を発展させていきました。
生体内でのカルベン転移反応の実現
In vitroにおいてP450がカルベン転移反応を行うことが実証できたことから、次のステップとしてカルベン転移反応を生体内で行わせることが期待できます。そこで先に紹介したHartwigや、合成生物学の権威であるJay. D. Keaslingらがこの研究に取り組みました。2021年には、カルベン転移反応を行うことのできるP450を発現させた放線菌の生体外から、ジアゾカルボニル化合物を添加することで、カルベン転移反応を生体内で実現させました6。さらに2023年には、カルベンの生成元のジアゾカルボニル化合物として、天然のジアゾカルボニル化合物であるazaserineを選び、azaserineの生合成に関わる遺伝子群 (生合成遺伝子クラスター) 、カルベンと反応するオレフィンを持つスチレンの生合成に関わる遺伝子、指向性進化によりジアステレオ選択性を向上させたP450を放線菌に共発現させました。その結果、放線菌の生体内において、一次代謝物からカルベン転移反応を利用して、ジアステレオ選択的に非天然のシクロプロパン環含有化合物を獲得することに成功しました (図10) 。この研究は既報の研究と異なり、原料を加える必要がないこと、酵素を精製する必用がないことなどが挙げられます。また合成生物学の特徴でもありますが、この放線菌を一度作製してしまえば、大量培養によりいつでも大量に目的化合物を得られることが可能となります。
おわりに
古くから知られているカルベン転移反応を、生体内に組み込むことに成功したという意義は非常に大きいと思います。この研究により、生体触媒による様々な反応を生体内で行わせることが期待でき、また反応物は一次代謝物より生産されるため、コスト的な部分においても非常に有意であると考えられます。今後は様々な有機反応が生体内でも行える可能性が十分に考えられます。
しかし、この研究のためには、多くの研究者によるカルベンの研究による集大成ではないかと思います。今わたしたちが行っている研究が、数十年後、数百年後にどのような形で利用されていくのか、発展していくのか、そのような期待をもって研究をしていくのも面白いと思います。
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