第601回のスポットライトリサーチは、東京大学大学院薬学系研究科 天然物合成化学教室 (井上研究室)に在籍されていた渡辺 崇央 (わたなべ たかひろ)博士にお願いしました。
井上研究室では、高機能天然物の全合成の高度一般化のための反応・合成法・戦略の開発に取り組んでいます。さらに、自由自在に三次元構造を操れる有機合成化学を武器に、天
本プレスリリースの研究内容は、タキソールの全合成についてです。収束的合成戦略に基づくフラグメントの分子間ラジカル反応とPd 金属触媒を用いた8員環形成反応を活用してタキソールの複雑な分子骨格を高効率的に構築し、タキソールの全合成を最長直線工程の28工程で達成しました。この研究成果は、「Journal of the American Chemical Society」誌に掲載され、またプレスリリースにも成果の概要が公開されています。
Total Synthesis of Taxol Enabled by Intermolecular Radical Coupling and Pd-Catalyzed Cyclization
Takahiro Watanabe, Kyohei Oga, Hiroaki Matoba, Masanori Nagatomo, and Masayuki Inoue*
J. Am. Chem. Soc. 2023, 145, 47, 25894–25902
当時講師として本研究を現場で指揮され、現在、
渡辺崇央君は誠実かつ律儀であり、不言実行の人物です。彼の口から「無理です」や「できません」という後ろ向きな発言を聞いたことがありません。どんな課題にも深い洞察をもって臨み、必ず実行に移してから成否を判断していました。
複雑な天然物の全合成研究において、事前に20工程を超える最初から最後までの合成経路を主観的に「予想」することは可能ですが、その成否を客観的に「予測」することは不可能です。タキソールの全合成では、最終標的であるタキソールはもちろんのこと、合成途中のあらゆる中間体の三次元構造を理解し、骨格構築の方法や酸素官能基の導入法、その順序や組み合わせを紐解いて「実現」しなければなりません。
渡辺君は、常に二次元NMRと向き合い、「今の基質は椅子形だから…」「今の基質は舟形に近い…」などと、日々、隣接官能基の関与を考えていました。論理的思考と精緻な実験の繰り返しにより、「次の一手」を巧みに打ち出し、一工程一工程の「実現」を積み重ね、全合成を完遂してくれました。彼の不撓不屈の努力と、いくつもの予期せぬ結果を成功へと転換した強い意志に、敬意を表します。
今後も本研究で培った抜群の科学的・論理的思考力、合成化学力、課題設定能力を活かした、新たな舞台での目覚ましい活躍を期待しています。
北海道大学大学院薬学研究院
長友 優典
Q1. 今回プレスリリースとなったのはどんな研究ですか?簡単にご説明ください。
タキソールはタイヘイヨウイチイの樹皮より単離され、実際に抗がん剤として広く臨床利用されている天然物です。その構造的特徴として、6/8/6員環が高度に縮環した3環性炭素骨格上に、歪みのかかった橋頭位オレフィンやオキセタン環(D環)に加え、8つの酸素官能基および9つの不斉中心を有することが挙げられます。
2023年、井上研究室では既に、市販原料から34工程でタキソールの全合成を達成しています(Angew. Chem. Int. Ed. 2023, 62, e202219114)。我々は、この2023年に発表した全合成と並行して、タキソールの全合成をより効率化する収束的合成戦略を計画しました。具体的には、新規な逆合成解析により、高度に酸素官能基化されたA環およびブロモ基を電子求引基として用いたC環フラグメントを設計しました。その後、両フラグメントの立体選択的な脱一酸化炭素型ラジカル反応、立体選択的なC8位第四級中心の構築、Pd(0)触媒による8員環B環の構築を実現しました。その結果、タキソールの全合成を総28工程で達成しました。今回の全合成経路では、以前の当研究室の合成経路から6工程削減し、総収率を5.8倍に向上したことになります。本全合成で適用した新規ラジカル連結反応を用いた合成戦略と酸素官能基導入戦略は非常に強力であり、複雑な分子構造を有する高酸化度天然物の全合成に広く応用されることで、有機合成化学の大きな発展が期待できます。
Q2. 本研究テーマについて、自分なりに工夫したところ、思い入れがあるところを教えてください。
C8位第四級炭素の構築です。プロジェクト当初の合成計画では、A環α-アルコキシアシルテルリド1とC環2-CNを連結して得られたラジカル連結反応成績体に対しC8位メチル化を行うことで、所望の第四級炭素を構築する予定でした。しかし、論文中でも述べていますが、予期に反してエーテル架橋よりも嵩高いA環部位を避けるように反応が進行し、タキソールとは逆の立体化学に相当する3のC8位第四級炭素が構築されました。本プロジェクトの前任者である的場博士(現・九州大学 大学院薬学研究院 助教)の在学時から顕在していたこの課題は、本合成戦略をとる上では必ず解決する必要がありました1)。私自身も一旦は異なるC環フラグメントを用いて検討を進めていましたが、別の課題が生じてその合成経路は断念しました。しかし、そのときの検討過程で見出した知見が大きな足掛かりとなり3から4を導くことができました。さらに、後輩の大賀君と共にラジカル連結反応とC8位メチル化条件を精査した結果、1とC8位にブロモ基をもつ新たなC環2-Brを連結したのち、C8位にメチル基を導入して4を導くという、より効率的な合成経路を確立できました。最後に4に対するDBU/aq. HCHO条件でのアルドール反応が立体障害の高いC8位でも円滑に進行することを見出して、5の所望のC8位第四級炭素を構築することに成功しました。
Reference
- Matoba, H.; Watanabe, T.; Nagatomo, M.; Inoue, M. Lett. 2018, 20, 7554–7557.
Q3. 研究テーマの難しかったところはどこですか?またそれをどのように乗り越えましたか?
C10位への酸素官能基導入です。タキサン骨格上に所望の位置・立体選択性にて酸素官能基を導入するためには、その特異な3次元構造に起因する反応性を制御する必要があり、その実現は極めて困難でした。特にC10位への酸素官能基導入については、まずC15位ジメチル基を避けるように酸化剤が接近することで、タキソールとは逆の立体化学をもつアルコール6-αが最初に得られました。タキソール全合成においては、α配向のC10位ヒドロキシ基をアセチル化した後、エピメリ化してタキソールに相当するβ配向の酸素官能基を導入することが、これまでの定石でした。これと同じ変換を我々の合成中間体にも適用しましたが、予想に反して7-αのエピメリ化がまったく進行しませんでした。残された時間の制約の中で前例のない変換を実現するのは大きなプレッシャーでしたが、先生方と検討方針を議論し、短期集中で課題を解決するという信念のもとで取り組めた結果、一旦酸化してジケトン8に変換した後、完全な所望の位置・立体選択性にてC10位ケトンを還元できる条件を見出し、6-βを経由して7-βを導くことができました。ほっとしたのと同時に、置換基の有無で反応性が劇的に変わるタキサン骨格の奥深さも身をもって味わうことができました。
Q4. 将来は化学とどう関わっていきたいですか?
現在私は製薬会社にて、原薬のプロセス開発に携わっています。高い品質の原薬を安定的に供給できる製法を確立するためには、反応における不純物量の制御や、効果的な精製条件を確立するなど、プロセスの細部までつくりこむ必要があります。これには化学現象の本質的な理解が求められると感じています。井上研究室でのタキソールの全合成研究を通して、多数の官能基を持った複雑な中間体への条件検討や複雑な生成物の構造決定など、化学反応への理解と追究を徹底して実践したことで、有機合成化学の能力を磨けたと自負しています。この経験と培ってきた能力を土台にしながら、一人前のプロセスケミストとして活躍できるよう日々研鑽を積んでいく所存です。
Q5. 最後に、読者の皆さんにメッセージをお願いします。
ここまで読んでくださりありがとうございました。有機合成化学的に挑戦的かつ、創薬科学的に重要なタキソールは数多くの有機合成化学者の興味を惹き、50年以上にわたって合成研究が行われてきました。これまでに井上研究室を含む14例の全合成が報告されてきましたが、それぞれの合成例がその時代の有機合成における最新の合成戦略と戦術の変遷を表してきました。ぜひ皆様もそれぞれの全合成例、特に井上研究室の2報を読み比べてみて、戦略の違いや工夫点、さらにはそこからプロジェクトに携わった人々の思いまで読み取っていただけましたら、これに勝る喜びはありません。
今回幸運にもこのような成果を挙げることができましたが、個人的な実感としては結果を出せずに歯痒い思いをした時間のほうが多かったように思います。実際、私は先行きの見えない不安から、博士課程への進学を逡巡しました。しかし博士課程を修了した今振り返ってみると、確かに一歩一歩の道のりは険しかったものの、それを乗り越えてきたことで多岐に渡る能力を身につけられました。加えてタキソール全合成を完遂できたことで自分に自信がついたと感じていますし、研究を始める前には想像していなかった素晴らしい感動を味わうことができたのは、今後の自分にとっての財産になりました。
タキソールのような複雑な天然物の全合成は文献通りの反応を積み重ねるだけで完結できるほど易しく古めかしいものではありません。全合成研究の現場では多くの学生・研究者がその時々の最新の科学をもって、各々が考える最高の合成経路を開拓しようと挑戦しており、次々に知見が生み出される非常にダイナミックな分野であると認識できました。むしろ既知反応を適用したのに、思いもよらない生成物が得られることは私の日常でした。そこで解決につながる「次の一手」を見出すためにはさまざまな有機合成の知識や技能を発揮する必要があり、解決に導けたときの感動や高揚は言葉では言い表せないものがあります。この全合成研究の一連の営みにこそ有機合成の魅力が詰まっているといっても過言ではありません。
本研究を遂行するにあたり、コロナ禍も含め、最高の環境と多大なご指導を賜り、私のステージを引き上げてくださいました井上将行先生、長友優典先生に厚く御礼申し上げます。最後に、このような貴重な機会をくださいましたChem-Stationのスタッフの皆様に感謝申し上げます。
研究者の略歴
名前:渡辺 崇央 (わたなべ たかひろ)
所属(当時): 東京大学・大学院薬学系研究科・天然物合成化学教室 (主宰:井上将行教授)
研究テーマ:タキソールの全合成
経歴:
2018年3月 東京大学薬学部卒業
2020年3月 東京大学大学院薬学系研究科薬科学専攻 修士課程修了 (指導教員:井上将行教授)
2021年4月- 2023年3月 長井記念薬学研究奨励支援事業
2021年9月- 2023年3月 東京大学次世代研究者挑戦的研究プログラム「グリーントランスフォーメーション(GX)を先導する高度人材育成」プロジェクト(SPRING-GX)
2023年3月 東京大学大学院薬学系研究科薬科学専攻 博士後期課程修了 博士(薬科学)取得 (指導教員:井上将行教授)
2023年4月- 製薬会社 勤務
関連リンクと井上研究室のケムステ過去記事
- Total Synthesis of Taxol Enabled by Intermolecular Radical Coupling and Pd-Catalyzed Cyclization:原著論文
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- 分子間および分子内ラジカル反応を活用したタキソールの全合成
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