第590回のスポットライトリサーチは、大阪大学大学院工学研究科(鳶巣研究室)博士後期課程1年の稲垣 徹哉 さんにお願いしました。
今回ご紹介するのは、「フィッシャーカルベン錯体」に関する研究についてです。フィッシャーカルベン錯体は、抗生物質の主要な部分構造であるβ-ラクタムの合成原料として知られていますが、β-ラクタムの合成には量論量の有害なクロムの使用や、また光照射が必要なことが課題とされてきました。今回クロムを用いずに触媒的にフィッシャーカルベン錯体を発生させる方法を報告されました。さらに触媒反応の中間体であるフィッシャーカルベン錯体の単離とX線構造解析についても報告されています。本成果は、Nature Catalysis 誌 原著論文およびプレスリリースに公開されています。
“Catalytic synthesis of β-lactam derivatives by carbonylative cycloaddition of acylsilanes with imines via a palladium Fischer-carbene intermediate”
Inagaki, T.; Kodama, T.; Tobisu, M. Nat. Catal. 2024, 7, 132-138. doi:10.1038/s41929-023-01081-5
研究を指導された兒玉拓也 助教と鳶巣守 教授から、稲垣さんについて以下のコメントを頂いています。それでは今回もインタビューをお楽しみください!
兒玉先生
今回の研究の鍵の一つであるフィッシャーカルベン錯体(以下カルベン錯体)を結晶として単離するに至るまでの過程に、稲垣さんの人となりが表れています。カルベン錯体が初めてNMRで観測されてからの約5ヶ月間、稲垣さんは常に好奇心と熱意を持ち、数えきれない量の実験と次の一手を打つためのディスカッションを重ねてきました。「I have not failed. I’ve just found 10,000 ways that won’t work.」というエジソンの名言は有名ですが、今回の成果は、失敗を恐れず挑戦し続けた稲垣さんのまさに「努力の『結晶』」だと思います。持ち前のセンス、スピード感と体力に加え、留学から帰国してますますパワーアップした稲垣さんの今後の活躍に目が離せません。
鳶巣先生
アシルシランを使った触媒反応は、稲垣さんの先輩の櫻井さん(ケムステの「研究室でDIY!~エバポ用真空制御装置をつくろう~」で紹介いただいています(ref3))によって発見されました。しかし、その後の稲垣さんの活躍がなければ、うちの研究室の大きな柱となるテーマには育っていませんでした。触媒反応、生成物の合成展開、中間体錯体の単離、DFT計算、、、全部一人でこなします。稲垣さんは、「趣味は研究」と豪語するだけあり、ほぼ毎日僕の部屋にディスカッションに来ます。その度に新しい実験結果を持ってくるので、週一回しかない連続ドラマをまとめて見ているようなスピード感がたまりません。全然違う研究分野のラボに4か月海外留学をして、最近帰国したのですが、「先輩の見つけたテーマではなく、今度は自分で新しいものを立ち上げたい!」と、さらに高い志をもって全力疾走しています。そんな稲垣さんを見ていると、こちらもいつもフルスロットルにさせられてしまいます。
Q1. 今回プレスリリースとなったのはどんな研究ですか?簡単にご説明ください。
今回私たちは、有機ケイ素化合物の一種であるアシルシランとイミンとをパラジウム触媒存在下反応させると、β-ラクタム化合物が得られるという反応を発見しました。この反応はアルコキシ基などのπ供与性置換基を持つフィッシャーカルベン錯体(以下FC錯体)という金属錯体を原料に進行することがこれまでに知られていましたが、有害なクロム錯体の使用と光照射が必要でした。私たちの研究グループでは、無害な有機ケイ素化合物を原料にFC錯体を発生する触媒を開発し、従来法で抱えていた2つの課題を克服しました(図1)。本研究成果により合成されるβ-ラクタム化合物は抗生物質の主要な部分構造として知られています。原料であるアシルシランとイミンは様々な構造を持つものが入手容易であるため、多種多様な構造を持つβ-ラクタム化合物を簡便かつ安全に合成することができ、従来法では合成困難な多様な医薬品化合物の迅速探索に貢献することが期待されます。また、反応機構に関する学術基盤の確立にも成功しました。本研究ではアシルシランがパラジウムと反応することでFC錯体中間体が生成しますが、この重要な中間体をX線結晶構造解析によって同定することができました。
Q2. 本研究テーマについて、自分なりに工夫したところ、思い入れがあるところを教えてください。
本研究テーマでは多くの苦労とそれに対する工夫がありました。特に思い出深いのは「1. 最適配位子の発見」と「2. カルベン錯体観測の成功」です。
まず1つ目の「最適配位子の発見」についてお話します。この研究テーマはたった数%の生成物をGC(ガスクロマトグラフィー)で観測したところから始まりました。そこから、反応の条件検討を数えきれないくらい行い生成物の収率向上を目指しましたが、残念ながら収率が50%を越えることはほとんどありませんでした。そこで、過去のデータを一度徹底的に見直すことにしました。すると、「配位子として利用していたNHC(N-ヘテロ環式カルベン)の立体的な嵩高さがこの反応に重要ではないか」という1つの仮説が浮上しました(図2)。具体的には、窒素原子に結合しているアリール基のオルト位置換基が嵩高いほどより多くの生成物を与えることに気づいたのです。この仮説を基に文献調査を行い、IPr*というNHC配位子がこの反応に有効であると考えました。さっそく合成し検討した結果、生成物の収率が一気に90%以上まで向上し、この反応に驚くほど有効であることが分かりました。自身の仮説が大当たりであったことについて、嬉しいという気持ちはもちろんありましたが、それよりも驚きの方が大きかった記憶があります。このIPr*の有効性は次で話すカルベン錯体の観測につながるだけでなく、アシルシラン関係の他研究テーマにおいても大きなブレイクスルーとなっています。
次に、2つ目の「カルベン錯体観測の成功」についてお話します。私は先述のIPr*が中間体として観測できるほどカルベン錯体を大きく安定化させている可能性を考えました。そこで、カルベン錯体のNMRでの観測を興味半分で試すことにしました。すると実際に、カルベン炭素に由来する特徴的なピークを13C NMRで観測できたのです(図3)。この実験結果がカルベン錯体をX線結晶構造解析で同定しようと強く決意した大きなきっかけになっています。興味本位で行ったこの実験が後に大きな結果を産むことになるとは当時全く思いませんでした。持ち前の好奇心がなければ今の結果はないことを考えると、とても感慨深いです。
Q3. 研究テーマの難しかったところはどこですか?またそれをどのように乗り越えましたか?
本研究テーマで最も難しかったことは、やはりカルベン錯体のX線結晶構造解析による同定です。先の質問に対する回答で、この取り組みのきっかけについてお話ししましたが、目的の達成には約5か月かかりました。その背景には多くのトライアンドエラーが隠れており、鳶巣研究室の兒玉拓也助教のアドバイスもいただきながら、本当に多くの試行錯誤を重ねました(図4)。この目的を達成する上で、私は主に2つの問題に悩まされました。
具体的な問題1つ目として、「パラジウムとIPr*との間で形成される錯体が室温であらゆる溶媒にほとんど不溶であること」がありました。X線で構造を解析するためには、時間をかけてゆっくり再結晶を行い、綺麗な結晶を得る必要があります。しかし再結晶の途中で原料のPd(IPr*)錯体がどうしても析出してしまうので、この反応系でカルベン錯体の綺麗な結晶を得ることは不可能という結論に至りました。つまりIPr*に似た、より最適な配位子の合成を余儀なくされました。めげずに私は、次の作戦としてtBu基を末端のフェニル基に導入したIPr**配位子での検討を行いました。この検討は功を奏し、原料のPd(IPr**)錯体が再結晶の途中で析出することはありませんでした。しかし、次なる問題が待ち構えていました。
具体的な問題2つ目として、「カルベン錯体が時間経過で分解すること」がありました。目的のカルベン錯体はその錯体同士での反応や、より安定な別の錯体への変換により分解してしまいます。そこで私はアシルシランの立体的な嵩高さを調整することで、この問題を解決できると考えました。検討の結果、アリール基とシリル基の両方を適度に嵩高くすることでカルベン錯体の安定性を向上させることに成功し、ついに念願のカルベン錯体の結晶を得ることに成功しました。カルベン錯体の結晶構造が露になった瞬間、兒玉助教と分析室で一緒に大喜びしたことは今でも鮮明に覚えています。この実験結果は本研究テーマ最大の思い出です。
Q4. 将来は化学とどう関わっていきたいですか?
私は今年の4月から博士後期課程の2年生になります。つまり、自身の進路について真剣に考えなくてはならない時期に差し掛かろうとしているタイミングです。私は有機化学関連の研究にいつまでも取り組んでいきたいという強い気持ちを持ち続けてきました。特に、基礎研究は夢があってとても挑戦的な研究テーマが多いので、やりがいに溢れているように思います。なので大学や研究機関のようなアカデミアに就職し、これからも基礎研究を続けていく道が今の自分に向いているのかなと漠然と考えています。一方で、色々な世界を見たいと思っている自分もいて、例えば企業で応用研究に携わることにも興味があります。自分の将来に真剣に向き合って、後悔のない選択をしたいと思っています。
Q5. 最後に、読者の皆さんにメッセージをお願いします。
ここまで目を通していただき、本当にありがとうございます。本研究テーマをスポットライトリサーチに取り上げていただき、大変光栄に思っています。ここでは書ききれなかった裏話がまだまだありますので、学会やセミナーなどで見かけたらぜひお声がけいただければと思います。
最後に、本研究テーマがここまで成長した要因を自分なりに考えてみました。私は大きく2つの要因があると思います。
1つ目は「カルベン錯体の結晶構造をとる!」という強い情熱を絶えず持ち続けたことです。これまでカルベン錯体が反応に関与していることを示唆する間接的な結果は多く得られていましたが、確実な証拠と言うには不十分でした。そのため、「誰が見ても納得するようなすごい結果を出してやる」という強い思いは研究生活で常に持ち続けていました。この情熱は、実験が上手くいかなかったときに「次はどのような実験をすべきか」を考える大きな原動力となりました。最後まで粘り強く次の作戦を考え続けることが成功の鍵だったと思います。
2つ目は「自分だけの力だけでなく、たくさんの人たちの力添えがあったこと」です。この研究テーマの起源は、僕が学部4年生だったときに面倒を見てくださった先輩である櫻井さんが発見した、パラジウム触媒によるアシルシランのアルケンへのシクロプロパン化反応です(ref4)。私はこのシクロプロパン化反応において、いくつかの機構研究を実施することでカルベン錯体が反応に関与していることを間接的に証明することに貢献しました。櫻井さんの最初の発見がなければ、私の今の研究はありませんでした。さらに、今回の研究成果は、研究室のチームのメンバー、信頼している先輩や教員の皆様、他大学の先生方など、本当にたくさんの人からの貴重なアドバイスもあってこそでした。定期的な報告会だけでなく、「私が何かアイデアを思いついたとき」や「研究が行き詰ったとき」など、どんなときでも一緒になって真剣にディスカッションしていただきました。特に、本研究の遂行にあたり、指導教官として終始多大なご指導を賜った鳶巣守教授とX線結晶構造解析で多大なご協力をいただいた兒玉拓也助教には深く感謝申し上げます。最後に、本研究を取り上げてくださったChem-Stationのスタッフの皆様にこの場を借りて心から感謝を申し上げます。
研究者の略歴
名前:稲垣 徹哉(いながき てつや)
所属:大阪大学大学院工学研究科・応用化学専攻・鳶巣研究室
略歴:
2021年3月 大阪大学工学部・応用自然科学科卒業
2023年3月 大阪大学大学院工学研究科・応用化学専攻 博士前期課程 修了
2023年4月~現在 大阪大学大学院工学研究科・応用化学専攻博士後期課程
関連リンク
- 40年超の課題フィッシャーカルベン錯体の触媒化を達成-無害な有機ケイ素化合物から医薬品に欠かせないβ-ラクタムを簡便・安全に-:大阪大学プレスリリース
- Inagaki, T.; Kodama, T.; Tobisu, M. Catalytic synthesis of β-lactam derivatives by carbonylative cycloaddition of acylsilanes with imines via a palladium Fischer-carbene intermediate. Nature Catal. 2024, in press. DOI: 10.1038/s41929-023-01081-5: 原著論文
- 「研究室でDIY!~エバポ用真空制御装置をつくろう~」(リンク)
- Sakurai, S.; Inagaki, T.; Kodama, T.; Yamanaka, M.; Tobisu, M. Palladium-Catalyzed Siloxycyclopropanation of Alkenes Using Acylsilanes. J. Am. Chem. Soc. 2022, 144, 1099. DOI: 10.1021/jacs.1c11497