はじめに
この記事では、化学部分における修士と博士の所得について比較検討し、その結果をもとに博士進学の経済的意義について改めて考えます。
経済的リターンを主目的として博士課程後期に進学する人はおそらくほとんどいないでしょう。とは言え、せっかく頑張って博士の学位を取るのだから、その努力に見合ったリターンを多少なりとも期待したくなるのは人情というものです。博士進学のリターンの最たるものが真理の欠片を見出す喜びだとしても、研究者も一人の人間として「食べていく」必要があるわけですから、経済的リターンも大事なトピックです。
博士の学位はただの飾り?
読者の皆さんは「日本では博士は評価されない」という意見を聞いたことがあるはずです。酷い場合には「博士の学位を取っても、就職にも出世にも役に立たないんだから、学位なんて取るだけ無駄。ただの飾りだ。」くらいの発言を耳にすることもあるかもしれません。私は年に2回くらいはこういった意見を耳にします。もちろんもっとオブラートに包んだ表現ですが。
この手の嘆き節には「アメリカでは博士の学位を取ると給料が大幅に増加するのに、日本はなぁ」というアメリカとの比較がセットになることが多いです。確かにアメリカの労働統計局のデータを見ると、修士卒の平均賃金は1000万円(8万ドル)ほどなのに対して、博士卒の平均賃金は1300万円(10万ドル)ほどとなっています。アメリカでは学歴による賃金の差が大きいことは間違いないようです。アメリカのデータを見ると、日本はどうなっているのか、いよいよ気になります。しかし日本の政府統計には学歴別の詳細な所得が公表されておらず、個人あるいは団体が独自に調査を実施して実態を推し量ることしかできません。
そこで日本学術会議の小委員会の1つである「科学技術立国を支える化学系博士人材の育成支援小委員会」も調査に乗り出すことにしました。この調査のメインテーマは、化学分野における博士進学に関する意識を明らかにすることです。メインテーマからは少しずれるのですが、調査の一環として社会人の方に所得をお尋ねしています。(メインテーマについては『化学と工業』Vol.76, No.3, 2013をご覧ください。)
調査は2022年にウェブアンケートの形で実施し、総回答数は5175件でした。この中に、修士卒の社会人931名,博士卒の社会人2426名が含まれます。この方々の所得の実データを見てみましょう。
化学分野における修士と博士の所得
図1は化学分野における修士と博士の賃金をプロットしたものです。所得については、100万円刻みの選択式の設問を作成しました。
ざっと見ていただくだけでも修士の方はボリュームゾーンが400万〜600万円 のあたりに存在し、博士の方は600万〜1000万円のあたりに存在することがわかります。
修士の所得の中央値は750万円、博士の所得の中央値は850万円となっています。確かにアメリカと比べれば差は小さいのですが、差がないわけではありません。
また、下位25%の上限(第一四分位)を見ると、修士は550万、博士は650万円でした。また上位25%の下限(第三四分位)を見ると、修士も博士も1050万円でした。博士課程でトレーニングを受けた成果か、博士は一定水準以上の所得を得ている方が多いようです。ただし、修士でも博士でも実力がある人は給料が伸びているようです。
修士と博士の所得の差異をχ2乗検定で確認したところ、修士は博士に比べて年収100万〜 600万円の層が多く、博士は修士に比べて年収700万〜 1000万の層が多いことがわかりました。
これはあくまでも推測ですが、1000万円を大きく超える所得を得ている人は組織の経営に携わっており、こういったポストに就けるかどうかに関しては、学位とはあまり関係がないのかもしれません。
**まとめると、化学分野においては、博士の学位を取得することで、650万以上の所得を得られる可能性が高いです。700万〜1000万円程度のアッパーミドル(中の上)程度の所得を得られる可能性も十分にあります。つまり博士の学位はただの飾りではなさそうだということがこの結果から見えてきます。**
性別比較
日本社会では男女の所得にはかなりの格差が存在することはよく知られています。そこで次に性別の要素を加味して比較しましょう。
図2のグラフを見ると、博士の女性のボリュームゾーンが700万-900万円のあたりにあります。博士の男性は700万〜1100万円付近にボリュームゾーンがあります。修士の女性は、400万〜600万円のあたりに集中しています。修士の男性は400万〜700万円がボリュームゾーンです。
博士の女性の所得の中央値は750万円、博士の男性の所得の中央値は850万円です。また女性の修士の中央値は550万円、男性の修士は750万円です。
このように見ると、日本社会の男女の所得の格差は非常に大きいことは明らかです。ただし、博士の女性のボリュームゾーンである700万〜900万円であり、修士の男性のそれが400万〜700万円だという点は注目に値します。この数字は、博士の学位を取得することで、男女の賃金の格差を(部分的にとは言え)覆すことが可能だということを示唆しているからです。
大学や企業を舞台に自らのキャリアを切り拓いて行きたいと願う女性にとって,博士の学位の取得はその願いを後押しする助けとなる。これは無視できない事実であり、とても喜ばしい事実です。もちろん雇用や職務の機会の不平等は社会的・制度的な改革によって是正していく必要がありますが、 そのような社会変革とは別の問題として、女性のキャリア形成の戦略として学位の所得を目指すという選択肢は十分に有効に機能しそうです。
学位の経済的効果は遅効型
次に年齢別の所得に見られる博士の学位の経済的な効果を確認します。回答者に女性が少ないこともありますので、今回は年齢別の比較は男性に限定します。また同じく、20代の回答も数が少ないため、30代以上の比較を行います。
表1を見ると、博士と修士の所得の差は年代が進むごとに広がり、60代で最大の500万円差となります。ただし、50代では両者の差は一旦なくなります。この点は解釈が難しいです。概して言えば、学位の経済的効果は遅効型だと言えそうです。
改めて考えてみると、そもそも「アメリカでは博士の学位を取ると給料が大幅に増加するのに、日本はなぁ」という嘆きは、博士の就職の場面、すなわち初任給を目の当たりにしたときにしばしば聞かれる声だったように思われます。修士と博士の初任給は月額あたりで3万〜5万円程度しか違わないため、こうした嘆きはもっともではあるのですが、中長期的なスパンで見たときにはやはり修士と博士の所得には大きな乖離が生じます。自分のキャリアを長い目で見るのであれば、博士進学は十分にリターンが見込める自分への投資だと言えそうです。
おそらく、博士の学位の経済的効果に即効性がないという事実は、日本企業が博士の学位そのものをさほど重視していないことを反映しているのでしょう。逆に、博士の学位の経済的効果が遅効性の効果を発揮しているという事実は、博士の中には優秀な人材が多く、実力が賃金や昇進に反映されていき、それがキャリアの中盤から後半にかけて目に見える差となって現れることを反映しているのではないかと思われます。
気になる所得の分散〜ハイクラス博士人材の正体とは〜
先ほど、「博士の中には優秀な人材が多く」と述べました。当たり前のことですが、博士と一言で言っても、その能力は千差万別です。企業は学位を評価しているのではなく、能力を評価しているわけですから、博士の所得にもそれなりのバラつきが生じます。
実際、データを見てみると600万〜1000万円のボリュームゾーンを超える高所得層の博士人材がいること15%ほど存在しています。また高所得層の中には、5%と少数ではありますが、1600万円以上の所得を得ている人々もいます。逆に低所得層の博士も25%ほどいます。こういった所得の分散は、もちろん運の側面もあるとは思いますが、やはり本人の能力に起因するところが大きいはずです。
学生や初期キャリアを歩んでいる博士人材からしてみれば、こうした所得の分散は大いに気になるところです。つまり、どうすれば「稼げる博士」になれるのか、どうすれば「稼げない博士」ならずに済むのか、という話です。ここまで見てきたようにおそらくは当人の能力によってある程度は説明ができそうですが、どういった能力がどのように評価されるのかはまだ見えてきません。
そこで筆者らは次に企業の経営層・研究所長を務める「ハイクラス博士人材」にインタビュー調査を実施して、ハイクラス博士人材の能力やその能力を獲得するに至った経緯を紐解いて見ようと考えています。調査の結果については、引き続きChem-Station様に報告させていただきたいと考えております。続報をお待ち下さい!
本記事は、科学技術立国を支える化学系博士人材の育成支援小委員会の東北大学大学院 理学研究科 西村君平先生による寄稿記事です。