2023年4月1日から、化学物質を扱う職場での労働環境に関する法令 (労働安全衛生規則等) が大きく改正され施行されました。企業や作業所等、常日頃からしっかりマネジメントされているような職場ではすでに周知されていることかもしれませんが、大学教員での筆者は、恥ずかしながらその詳細に関してつい最近まで把握していませんでした。同じように、割と管理がゆるめな大学のラボ (注: 筆者の私見もありますが) では、何が変わり、変わろうとしているのかしっかりと周知されているか疑問に思います。本記事では、安全・衛生対策のために改正される (た) 法令の内容について、備忘録も兼ねて重要な点をピックアップしていきたいと思います。
概要
厚生労働省は、化学物質による労働災害を防止するため、労働安全衛生規則等の一部を改正しました。
(令和4年5月31日公布)化学物質による休業4日以上の労働災害 (がん等の遅発性疾病を除く) の原因となった化学物質の多くは、化学物質関係の特別規則※の規制の対象外となっています。本改正は、これら規制の対象外であった有害な化学物質を主な対象として、国によるばく露の上限となる基準の策定、危険性・有害性情報の伝達の整備拡充等を前提として、事業者が、リスクアセスメントの結果に基づき、ばく露防止のための措置を適切に実施する制度を導入するものです。
※ 特定化学物質障害予防規則、有機溶剤中毒予防規則、鉛中毒予防規則、四アルキル鉛中毒予防規則
図1 化学物質規制の見直し 厚生労働省 HP より引用 |
労働安全衛生総合研究所による法改正の概要動画
リスクアセスメントの厳格化
「職場における化学物質の管理のあり方に関する検討会」では、以下のような背景・問題点が挙げられています (参照: 安衛研HP)。
- 日本の化学物質管理は「法令準拠型」すなわち限られた特定の物質や作業に対する規制を守ることで行われてきた。
- 一方、工場等で日常的に使われている物質は数万に上り、その用途もさまざまである。
- 労働災害の多くは規制されていない物質により発生しており、この中にはがんのような重い健康障害も含まれる。
- 規模の小さい事業場での災害発生が多い。
- 物質の危険性・有害性情報を伝達する制度の対象が限定的。
以上を踏まえ、「自律管理型」の化学物質管理の必要性が提言されました。「自律管理型」とは、法令では達成すべき基本的な枠組みと指標を示し、具体的な管理手法については事業者の判断で選択・決定する事を指していてます。自立管理型の物質管理を達成する方策として、以下の提言がなされています。
- 化学物質の危険性・有害性に関する情報伝達を強化する。
- 危険性有害性情報に基づいたリスクアセスメントの実施と対策を基本とする。
- 化学物質の自律的な管理のための実施体制を確立する。
- 小規模事業場支援を幅広く行う。
このうち、2023年4月1日から義務として求められるようになるのが、リスクアセスメントの実施と対策です。
リスクアセスメントとは、事業場にある危険性や有害性の特定、リスクの見積り、優先度の設定、リスク低減措置の決定の一連の手順をいい、事業者は、その結果に基づいて適切な労働災害防止対策を講じる必要があります。労働安全衛生法第28条の2では、「危険性又は有害性等の調査及びその結果に基づく措置」として、製造業や建設業等の事業場の事業者は、リスクアセスメント及びその結果に基づく措置の実施に取り組むことが努力義務とされ、その適切かつ有効の実施のために、厚生労働省から「危険性又は有害性等の調査等に関する指針」が公表されています。
職場における化学物質のリスクアセスメントに関しては対象物が定められており、「労働安全衛生法第57条の3」でリスクアセスメントの実施が義務付けられている危険・有害物質が対象物となっています。リスクアセスメント対象物質は、次のサイトで検索することができます。
安衛法 リスクアセスメント対象化学物質一覧 -琉球大学 研究基盤センターHPより |
対象物質は多すぎて列挙が困難ですが、酢酸エチルやノルマルヘキサン、アセトニトリルなど汎用溶媒もリスクアセスメント対象物質に含まれており、職場の管理者は、労働者がリスクアセスメント対象物に曝露される程度を最小限度に減ずることが求められるため、今回の法令改正を機にその扱いを見直していく必要があります。では、一体どういった対策を講じれば良いのでしょうか?
リスクアセスメント対象物への曝露に対する方策
具体的には、リスクアセスメント対象物に対し、以下のような方策を取る必要があると規定されています。
1 労働者がリスクアセスメント対象物にばく露される程度を、以下の方法等で最小限度にしなければなりません。 2023 (R5).4.1施行
i 代替物等を使用する
ii 発散源を密閉する設備、局所排気装置または全体換気装置を設置し、稼働する
iii 作業の方法を改善する
iv 有効な呼吸用保護具を使用する
i は、ルーチンで使用する溶媒や原料化合物を、できる限り危険性・有害性の低い物質で代替して作業する必要があることを示しています。作業上の限界はあると思いますが、より安全 (と予測できる) 物質を使用してくださいという、当然ながら最も重要な方策となります。同じリスクアセスメント対象物質でも、ベンゼンよりトルエンを使えというのは最早当たり前かと思いますが、その考え方をさまざまな化学物質について考慮し、広めていくことが求められます。例えばコチラのケムステ記事では (爆発等の危険性に関しても一緒に紹介しておりますが)、溶媒などの代替品候補について紹介しています。ただし、現在リスクアセスメント対象物質に含まれていなくても、現時点ではその危険性・有害性が判っていないだけで、将来的にそのリスクが明らかになる物質もあると思います。そこで、より準備がしやすく、速やかに講じられそうな対策が上記引用部分の ii 以降になります。
大学研究室で出来る ii や iii への最も基本的な対策は、いわゆるドラフトチャンバーの使用を徹底することになると思います。反応や後処理など合成に関するすべての操作をドラフト内で行うのは安全・衛生管理上理想ではありますが、スペースや設置費用の問題から難しいアカデミア研究室も当然あると思います。これらの対策を最大限行うためには、リスクアセスメント対象物質や SDS、GHS 分類などを細かくチェックし、リスクの高い物質を扱う際に優先的に対策を講じていくことがまず第一に求められるでしょう。もちろん、排気装置の適切な使用は将来的により厳しく求められるようになると思われますので、研究室や学部・大学・研究所単位で環境整備を行なっていくことが必要でしょう。
そして iv は最も簡単にでき、有効な対策となります。有効な呼吸用保護具と言いますが、ホスゲンなどの毒ガスやアスベストなど特に有害な粉塵を扱うわけではない場合、簡単な市販のマスクを付けるだけでも充分な対策となり得ます。2023年3月13日から、新型コロナウイルス感染症拡大に伴うマスク着用の義務は屋内でも原則不要となる方針が示されました。大学や研究所では独自の着用義務を続けるところもあるかもしれませんが、自主的に外す人も多くなってくると思います。しかし、化学系の研究室では不織布マスクのレベルであっても常に着用することが望ましいと考えられます。研究歴のそこそこある方は、コロナ前に研究室で常日頃からマスクをしていたか思い出せますでしょうか?筆者は正直、半年に一度の有機溶剤等特殊健康診断の時に指摘されつつも、よっぽどの物質を使う時以外マスクをしていませんでした。今思えば、研究室でマスクの着用が徹底されたのは、コロナ禍での数少ないプラス作用だったようにも思います (研究自体が数ヶ月ストップしたのは流石に辛かったですが)。溶媒蒸気だけでなく、シリカゲルや普段使用している試薬などの粉塵の吸引防止に対してもマスクの着用は非常に有用です。まず簡単にできることから、リスク軽減措置を講じていくことが大切であると考えられます。
その他、厚生労働省の資料では以下のような対策が例として挙げられています。
◆ 危険有害性の高い物質から低い物質に変更する。
物質を代替する場合には、その代替物の危険有害性が低いことを、GHS区分やばく露限界値などを もとに、しっかり確認します。 確認できない場合には、代替すべきではありません。危険有害性が明らかな物質でも、適切に管理 して使用することが大切です。
◆ 温度や圧力などの運転条件を変えて発散量を減らす。
◆ 化学物質などの形状を、粉から粒に変更して取り扱う。
◆ 衛生工学的対策として、蓋のない容器に蓋をつける、容器を密閉する、局所排気装置の フード形状を囲い込み型に改良する、作業場所に拡散防止のためのパーテーション(間仕切り、ビニールカーテンなど)を付ける。
◆ 全体換気により作業場全体の気中濃度を下げる。
◆ 発散の少ない作業手順に見直す、作業手順書、立入禁止場所などを守るための教育を実施する。
◆ 防毒マスクや防じんマスクを使用する。(使用期限、保管方法に注意が必要です)。
また2023年4月からの努力義務として、リスクアセスメント対象物以外の物質も、 労働者が曝露される程度を、引用部分 ii~iv に示す方法等で、 最小限度にするように努めなければならないこととされています。つまるところ、あらゆる化学物質への曝露は最小限に止める必要があることを表しています。
皮膚等障害化学物質等への直接接触の防止
呼吸器以外への化学物質に対する曝露への対策も厳格化されます。
皮膚・眼刺激性、皮膚腐食性または皮膚から吸収され健康障害を引き起こしうる化学物質と当該物質を含 有する製剤を製造し、または取り扱う業務に労働者を従事させる場合には、その物質の有害性に応じて、 労働者に障害等防止用保護具を使用させなければなりません。
これは健康障害を起こすことが明らかな物質の製造に携わる場合はもちろん、健康被害について不明な点がある物質の製造者も対象となります。つまり、未知の化合物を合成するラボではほぼ全ての人が対象になると考えられます。具体的には、作業時における以下のものの着用が2023年4月1日より義務 (努力義務) とされます。
・保護眼鏡
・不浸透性の保護衣
・保護手袋
・履物等
ガラス器具が滑るという理由で手袋をしていなかったり、通気性の良い穴の空いたサンダル (ク○ックス) などを普段使用している場合は改善が必要です。確実に曝露を防止できるような製品を着用するよう努めなければなりません。また普通の近視用メガネを保護メガネ替わりとしている方多いかと思いますが、こちらもメガネの上から掛けられるゴーグルを使用するなど、より厳格な対策が求められるようになります。
リスクアセスメントの内容周知
リスクアセスメントの結果と、その結果に基づき事業者が講ずる労働者の健康障害を防止するための措置の内容等は、関係労働者に周知するとともに、記録を作成し、次のリスクアセスメント実施までの期間 (ただし、最低3年間) 保存しなければなりません。
改正・労働安全衛生法施行令では、以上のような規定が2023年4月1日より施行されました。関係労働者への周知は、次の図2のような方法で分かりやすく行う必要があります。
図2 リスクアセスメント結果の周知 |
おわりに
以上、雑多になりますが、2023年4月1日から施行された化学物質の管理のあり方について、リスクアセスメントの点から早急に対策すべき点を列挙いたしました。ラボを主宰する PI の先生方、現場で学生指導にあたる先生方、そして実際に実験を行う学生・研究員の皆様すべてが、自身や周囲の安全のために細かなリスクアセスメントを実施し、積極的にリスクの低減措置を講じることが求められます。
2023年4月1日より部分的に施行された改正法令等の詳細については、コチラの厚生労働省の資料を熟読ください。
化学物質の曝露リスク低減に関連する記事
– ケムステの「試してみた」シリーズより
・マスクをいくつか試してみた
・実験手袋をいろいろ試してみたーつかいすてから高級手袋までー
・実験メガネを15種類試してみた
・実験白衣を10種類試してみた
関連書籍
月刊化学 2023年4月号でも、法令改正について特集が組まれています。
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