第513回のスポットライトリサーチは、神戸大学大学院工学研究科(反応有機化学研究室)・井上 拳悟 さんにお願いしました。
芳香環にハロゲン原子が結合した化合物は、クロスカップリング反応などに多用されています。そのため、芳香環の望みの位置にハロゲン原子を導入する方法の開発は、より多様な化合物を合成する上で重要です。今回ご紹介するのは、ピリジン上のブロモ基を転位させる新触媒を開発し、その機構を実験的および計算化学的に明らかにしたという成果です。本成果はACS Catalysis 誌 原著論文とプレスリリースに公開されており、表紙にも選定されています。インタビュー中にもありますが、表紙の画像は井上さん自身が作成されたとのことです。
“Lithium Aryltrifluoroborate as a Catalyst for Halogen Transfer”
Inoue, K.; Hirano, K.; Fujioka, S.; Uchiyama, M.; Mori, A.; Okano, K. ACS Catalysis, 2023, 13, 3788–3793. DOI: 10.1021/acscatal.2c06082
研究を指導された岡野健太郎 准教授から、井上さんについて以下のコメントを頂いています。それでは今回もインタビューをお楽しみください!
この論文は、好奇心旺盛な井上君でなければまとめられなかったと思います。振り返れば約2年前、従来とは異なる位置選択性の発現を狙って、ルイス酸共存下でピリジン誘導体のハロゲンダンスを検討してもらっていました。ルイス酸とピリジン窒素を配位させるために、ルイス酸を化学量論量加えていましたが、当然のことながらルイス酸と塩基として用いたLDAが反応したためか原料回収でした。検討を開始してから1週間程度経ったころ、なぜか(彼の中では勝算があったのかも)ルイス酸として三フッ化ホウ素ジエチルエーテル錯体を“触媒量”加えたときだけ、ハロゲンダンスが異常に速くなる結果を報告してくれました。ここからこの研究が始まりました。
触媒量の三フッ化ホウ素ジエチルエーテル錯体がなぜハロゲンダンスを促進させるのか?考えられる可能性を一つずつ検証する作業は困難でしたが、共同研究者の平野さんや内山先生のご協力を得ながら、この問いに対する答えを導きました。ともすると、「現象としては面白いから、何が起きているか分からなくてもとりあえず論文として報告しよう」となりがちですが、細部までこだわって研究を詰めきった井上君には賛辞を送ります。真実が明らかでない時でも、その状況を楽しみながら研究できるところが彼の強みかと思います。ますますの成長を期待しています。
Q1. 今回プレスリリースとなったのはどんな研究ですか?簡単にご説明ください。
ハロゲンダンスとよばれる,芳香環上にもともと導入されているブロモ基を転位させる触媒を新たに開発しました。有機合成化学において,ブロモ基は幅広い官能基に変換できるため非常に有用です。したがって,ブロモ基を望みの位置に移動できれば,従来法では供給が難しい芳香族化合物を簡便に合成できます。
今回,触媒量のルイス酸をあらかじめ加えた状態で,強塩基を加えると,ピリジン環上のブロモ基の移動が劇的に加速することを見出しました。すなわち,医農薬の重要な骨格として利用されるピリジンに対し,ルイス酸として触媒量(10 mol%)の三フッ化ホウ素ジエチルエーテル錯体BF3・OEt2を加えた状態で,LDAを作用させると,ブロモ基の移動が大きく促進されました。実験的アプローチに加え,東京大学大学院薬学系研究科の平野圭一先生(現 金沢大学教授)と内山真伸先生に計算化学的サポートをいただき,本反応における真の触媒が,ピリジンの窒素原子ではなく炭素原子がホウ素に結合したアート型三フッ化ホウ素(トリフルオロボラート)であると明らかにしました。一般的に,トリフルオロボラートは,2010年にノーベル化学賞を受賞した鈴木–宮浦クロスカップリング反応や,近年研究が盛んなフォトレドックス反応において、化学量論量の試薬として利用されますが,今回,トリフルオロボラートの触媒としての可能性を新たに切り拓くことができました。
Q2. 本研究テーマについて、自分なりに工夫したところ、思い入れがあるところを教えてください。
触媒の構造を決定した点です。当初,三フッ化ホウ素(酸)とピリジン窒素原子(塩基)が結合したN-BF3錯体が反応の活性種と思い込んでいました。しかし,先生方とディスカッションする中で,三フッ化ホウ素と炭素原子が結合したC-BF3錯体の可能性をご指摘いただきました。興味深いことに,低温NMRを測定したところ−100 ℃から20 ℃の温度領域でN-BF3錯体が検出されなかったため,C-BF3錯体が真の触媒と考え,その触媒活性を確かめました。合成された例がなく,酸素や水分に不安定と思われるC-BF3錯体の合成には非常に苦労しましたが,最終的にC-BF3錯体のH+付加体を触媒前駆体として単離する工夫によって,安定性に優れ,取り扱いが容易なピリジニウム塩を触媒前駆体としてグラムスケールで合成できました。思い入れがあるのは,試行錯誤の末に合成した触媒前駆体が,触媒活性を示した瞬間です。パワーポイントで自作したカバーアートが雑誌の表紙に選ばれた点も,ひそかに思い入れがあります。
Q3. 研究テーマの難しかったところはどこですか?またそれをどのように乗り越えましたか?
触媒の活性評価が難しかったです。C-BF3錯体前駆体の合成に成功した後,触媒活性が日によって変化することに気づきました。ある日は触媒活性が高く,別の日は全く触媒活性がないという非常に苦しい期間でした。しばらく原因が不明でしたが,触媒前駆体の合成方法によって活性が大きく変化するとわかりました。最終的にフッ化水素酸を用いる合成法を確立でき,得られたC-BF3錯体が安定して高い触媒活性を示すことを証明できました。考えられる可能性を一つずつ確かめていく仮説と検証のプロセスの精度がいかに重要かを実感しました。
Q4. 将来は化学とどう関わっていきたいですか?
製薬企業でプロセスケミストとして従事することが決まっています。分野の垣根を越えた新しい知識の吸収を続けながら,有機化学の専門性を尖らせ,新たな課題に取り組むつもりです。アイデアの引き出しが多く,1つの結果から多くの情報を得ることができる人物をめざしています。
Q5. 最後に、読者の皆さんにメッセージをお願いします。
常識を打ち破る独創的な研究は,常識を知るところから始まると思います。ぜひ,新しい知識の吸収を毎日続けてほしいと思います。専門知識の引き出しが多いほど,予期せぬ結果を正しく評価でき,常識を打破できる数少ないチャンスをつかみやすくなると思います!
研究者の略歴
名前:井上 拳悟(いのうえ けんご)
所属:神戸大学工学研究科応用化学専攻 反応有機化学研究室(指導教員 岡野健太郎准教授)
略歴:
2020年3月 神戸大学工学部応用化学科 卒業
2021年9月 神戸大学大学院工学研究科応用化学専攻 博士課程前期課程 修了
2022年4月~ 日本学術振興会特別研究員 (DC1)
2022年12月~2023年3月 カリフォルニア工科大学 訪問研究員 (Prof. Brian Stoltz)
2024年3月 神戸大学大学院工学研究科応用化学専攻 博士課程後期課程 修了予定
関連リンク
- Inoue, K.; Feng, Y.; Mori, A.; Okano, K. “Snapshot” Trapping of Multiple Transient Azolyllithiums in Batch. Chem. Eur. J. 2021, 27, 10267–10273. DOI: 10.1002/chem.202101256
- Inoue, K.; Okano, K. Trapping of Transient Organolithium Compounds. Asian J. Org. Chem. 2020, 9, 1548–1561. DOI: 10.1002/ajoc.202000339
- ハロゲン移動させーテル!N-ヘテロアレーンのC–Hエーテル化