第452回のスポットライトリサーチは、中央大学 理工学部応用化学科 理論化学研究室(森研究室)の黒木 菜保子(くろき なほこ)助教にお願いしました。
森研究室は、量子化学や分子シミュレーション、AIを駆使して分子の物性と分子間相互作用の予測設計に取り組んでいます。具体的には、分子の物性を高精度かつ簡便に予測にする「モデル内殻ポテンシャル(MCP)法」、大規模系の熱力学物性の第一原理予測を拓く「有効フラグメントポテンシャル分子動力学(EFP-MD)法」、一分子物性と凝集系物性をリンクする「電子状態インフォマティクス」について技術開発を行っています。
本プレスリリースは、⽣体溶液中の電⼦状態ゆらぎをナノ秒オーダーの第⼀原理分⼦シミュレーションで追跡した研究です。背景として細胞内にわずかに存在する有機分⼦は、分⼦間相互作⽤を通じ、タンパク質に様々な影響を与えます。例えば、深海⿂内から発⾒されたトリメチルアミン N-オキシド(TMAO)は、タンパク質の⽣理機能を保持する役割を担っています。この浸透圧調節に関するメカニズムが明らかになれば、次世代医療に基礎科学の観点から貢献できると期待されます。しかし、溶液内の分⼦間相互作⽤変化を追跡するには、⽣体環境濃度を再現した⼤規模なシミュレーションが必要で計算コストが極めて高く実行不可能でした。そこで本研究グループでは、巨⼤凝縮系中の分⼦間相互作⽤ネットワークをコンパクトかつ精密にモデリングできる独⾃の⼿法「有効フラグメントポテンシャル(effective fragment potential, EFP)法」を⽤いることで、深海⿂体内の TMAO 濃度を再現した⾼速かつ精密なナノ秒オーダーの第⼀原理分⼦シミュレーション(EFP-MD)に成功しました。
この研究成果は、「Scientific Reports」誌に掲載され、プレスリリースにも成果の概要が公開されています。
Electronic fluctuation difference between trimethylamine N-oxide and tert-butyl alcohol in water
Nahoko Kuroki, Yukina Uchino, Tamon Funakura, and Hirotoshi Mori
Sci. Rep 12, 19417 (2022)
研究室を主宰している森 寛敏 教授より黒木助教についてコメントを頂戴いたしました!
一般に生体分子は、溶液中で周囲の分子と相互作用し、揺らいだ電子状態をもつことで、その機能を発現しています。しかし、分子間相互作用ネットワークとその揺らぎの強弱の要因を、時系列変化を含め、物理的起源に遡って直接追跡することは不可能であり、生体分子の機能を分子レベルで追求することは困難でした。
そこで我々のグループでは、黒木さんを中心として、分子間相互作用の時系列変化を、精密量子化学計算のゴールドスタンダードである CCSD(T) に匹敵する精度でコンパクトに近似表現する方法を開発して来ました(有効フラグメントポテンシャル-分子動力学法;EFP-MD)。今回、EFP-MD 法を、構造がよく似ていながら、タンパク質の安定化に対して真逆の機能を持つ trimethylamine-N oxide(TMAO) と tert-butyl alcohol(TBA)の溶液化学に適用することで、TMAO の CH3– 基が親水的に振る舞っていることが明確になったという経緯です。
この成果は、TMAO に限らず、あらゆる機能溶液の化学を分子レベルで解明したいという、黒木さんおよび彼女の指導学生達の情熱が具現化したものであり、賞賛に値するものだと思います。
Q1. 今回プレスリリースとなったのはどんな研究ですか?簡単にご説明ください。
細胞内の有機小分子は、その量は僅かでありながらも、タンパク質の機能制御に重要な役割を果たすことが知られています。しかし、従来、生体濃度を再現しつつ溶液内の分子間相互作用・電子状態ゆらぎの経時変化を、その起源に遡りつつ分子レベルで評価する手法はなく、それら有機小分子の機能を分子レベルで完全に解明することはできていません。
この研究では、EFP-MD を用いて、互いに類似構造を持つが生化学的な機能の異なる TMAO と TBA の水和動力学を比較しました。EFP-MD では相互作用前の孤立分子の波動関数を用いて、相互作用した巨大系中の相互作用エネルギーをコンパクトに第一原理表現することで、任意の凝集系の分子間相互作用と動力学を、高精度量子化学の精度で追跡可能です。
対象系にナノ秒オーダーの EFP-MD 計算を適用した結果、TMAO と TBA が水溶液中の水素結合ネットワークに及ぼす影響は全く異なること、すなわち「TBA の CH3– 基は一般的な分子中での挙動と同様に水を嫌う疎水性を示すのに対し、TMAO 中の CH3– 基は水中で強く分極した NO 基の存在により水を有意にトラップできる」ことが分かりました。これは、TMAO/TBA のわずかな化学構造の違いが水素結合ネットワークを大きく変化させ、タンパク質を安定化・不安定化する機能が実現されている可能性を示すものです。TMAO は生体に必須な生化学物質であると同時に、動脈硬化など様々な疾病に関わることも知られています。TMAO の親水性とその起源を解明した本研究成果は、溶液物理化学の基礎的知見に加え、人工シャペロンの開発などの次世代生命・医薬化学に繋がる重要な寄与を与えるものとして期待されます。
Q2. 本研究テーマについて、自分なりに工夫したところ、思い入れがあるところを教えてください。
この研究は、私がお茶の水女子大学在学時に、後輩の内野さんと一緒に始めたものです。その後、中央大学にスタッフとして異動後、一期生として配属された船倉さんが、分子間相互作用の時系列解析プログラムを作成してくれて、今回のストーリーラインの基礎が完成しました。毎日遅くまで、長時間ダイナミクスを追うための MD を流しながら、どんな解析をしたら面白いことができそうか、二人と一緒に考えたことをよく記憶しています。このテーマは、私にとって初めての指導学生との論文であり、多くのディスカッションを経てまとまったものです!
Q3. 研究テーマの難しかったところはどこですか?またそれをどのように乗り越えましたか?
実は、いざ研究をまとめようとなった時に、コロナ禍となり、大学が閉鎖となりました。本当は溶液化学を専門にしておられる研究者とのタイアップを目論んでいたのですが、思うように話が進まず、悶々とした日々を過ごしました。しかし、理論的側面だけでもこのストーリーは「溶液化学」として価値があるものと信じ、できるだけ一般誌に通したい!という思いを胸に抱くようになりました。今回の論文発表にあたり、たくさんのエンカレッジコメントをいただきました。研究を始めてから4年半、無事に Scientific Report に受理されホッとしています。今回は叶いませんでしたが、現在、更なる研究推進を予定しており、実験タイアップをして頂ける仲間を募集しています!
Q4. 将来は化学とどう関わっていきたいですか?
私はこれまで、EFP-MD 法を中心とした分子動力学計算を用いて、機能性混合溶液・イオン液体・超臨界流体など、溶液化学のテーマに広く携わってきました。溶液内で生じている特異な分子間相互作用や機能発現には、特に興味を持っています。また、近年では AI 技術の連携による更なる研究加速のトライも行っています。自分の軸は大切にしつつ、新しい技術や流行、アイディアをどんどん取り入れていければと思っています。多角的にアプローチすることを大切に、今後も邁進したいです。
Q5. 最後に、読者の皆さんにメッセージをお願いします。
私たちは、肉眼で見ることができない分子とそれらの相互作用に由来した機能を活用することで、豊かな生活を送ることができています。計算化学により、まだ見ぬミクロな分子の世界を解き明かし、間接的にでも人類の未来社会に貢献できればいいなと思っています。
最後に、この研究を一緒に進めてくれた内野さん、船倉くん、研究環境を整えて下さった森先生、たくさんのアイディアをくれたお茶大・中大の森研メンバーに、この場をお借りして感謝申し上げます。
研究者の略歴
黒木 菜保子(くろき なほこ)
中央大学・理工学部応用化学科・理論化学研究室(森研究室)助教
2016-2020 JST ACT-I 「情報と未来」 領域 研究者 (後藤 真孝 総括)
2018 日本学術振興会特別研究員 DC2
2020- 現職
2020- JST ACT-X 「AI 活用で挑む学問の革新と創成」 領域 研究者 (國吉 康夫 総括)
研究テーマ 「第一原理分子シミュレーションと機械学習による機能性溶液の設計」