第438回のスポットライトリサーチは、九州大学大学院 工学府応用科学専攻(楊井研究室)修士2年の松本尚士さんにお願いしました。
松本さんが所属する楊井研究室は、かつては九州大学君塚研究室に所属しており、これまでもスピン励起状態間のエネルギー移動を用いた様々な研究に積極的に取り組んでいらっしゃいました。楊井研究室は今年の4月から独立され、新体制として新たな一歩を踏み出されたばかりです。本記事ではそんな楊井研究室の記念すべき第一報をご紹介いただきます。その研究内容は、NMRやMRI の検出感度向上に必要な高偏極状態(原子が有する核スピンの向きを揃えた状態)を、初めて室温の水分子で実現したというものです。本成果は J. Am. Chem. Soc.誌に掲載されるとともに、プレスリリースとして発表されております。
“Proton Hyperpolarization Relay from Nanocrystals to Liquid Water”
Naoto Matsumoto, Koki Nishimura, Nobuo Kimizuka, Yusuke Nishiyama, Kenichiro Tateishi, Tomohiro Uesaka, and Nobuhiro Yanai
J. Am. Chem. Soc. 2022, 144, 39, 18023–18029
DOI: https://doi.org/10.1021/jacs.2c07518
研究室を主宰されている楊井 伸浩 准教授から、松本さんについて以下のコメントを頂いています。
松本君は4年生の配属時に今回の研究テーマをスタートさせました。これは「いかに固体から液体へと核偏極を移行するか」という核偏極分野の難題であり、文献を調査する限り原理的には起きてもおかしくないと思われましたが、誰も成功したことがありませんでした。相当な実験量に加え、新しいメカニズムを開拓するために難解なスピン物理を理解する必要があり、更にはいつ成功するか皆目見当がつかない中でも挑み続ける精神力も求められるという壮絶なテーマです。このテーマを開始するときに松本君が配属されてこのテーマを選んでくれたことは幸運そのものでした。
松本君はコロナ禍の中で研究室生活をスタートさせましたが、研究室に来れるようになると猛烈に実験を行い、考え得る限りの作戦を試し続けました。そこまでやるか、凄いなぁ、と松本君のエネルギーと持続力、発想力に感心しきりでした。今回の研究内容だけをみると単純な系で上手くいったように見えると思いますが、その裏には考え得る限りの手をただひたすらに試してきた松本君の失敗の山があります。もし本当に目的とする核偏極移行が起きた時に検出しうるように装置とサンプルの状況を整え、ピクリとも動かない水のNMR信号を観測し続ける日々を過ごし、その中で諦めなかった松本君は遂に信号増強を捕らえました。本当に信号増強したのか松本君自身も信じられず、何度も再現を取っていたのが印象的です。
水のNMR信号強度の増強が確認できてからも長い道のりでした。信号増強が観測されたのは良かったものの、その結果を説明するためのメカニズムが良く分からず途方にくれました。幸いにもNMRの専門家の理研・JEOLの西山博士に強力なサポートを頂き、松本君自身がモデルを組んでシミュレーションを行うことで、メカニズムの解明に至りました。材料合成からスピンダイナミクスの理解まで、松本君でないとこのテーマは結実しなかったと思います。
ただあまりに大変でしたので松本君も私も多少疲れてしまい、今は気分転換に別のテーマに取り組んでいます。松本君は核偏極以外の光化学もエンジョイしてそろそろ充電出来てきたようですので、更なる偏極向上にも再び取り組んでいくようです。将来、世界中のNMR装置の横に置かれて当たり前のように使われる高感度化システム、その実現の鍵を握るのは松本君だと思っています。
それでは今回もインタビューをお楽しみください!
Q1. 今回プレスリリースとなったのはどんな研究ですか?簡単にご説明ください。
室温で NMR や MRI を高感度化できる triplet-DNP によって初めて液体の水の NMR 信号の増感に成功しました。
triplet-DNP は、偏極源と呼ばれる分子を光励起し、項間交差により生成する三重項電子スピンの副準位間の占有数の差 (偏極) を核スピンへと移行することで超核偏極状態を作り出し、 NMR や MRI を高感度化する技術です。光励起三重項電子スピンの偏極は温度に依存しないため、 triplet-DNP は室温で NMR を高感度化することができます (下図) 。
一方で、これまで triplet-DNP で超核偏極が可能なのは有機結晶やガラスといった固体状態の分子に限られていました。生命科学分野への応用を志向した際に、水分子をはじめとした溶液分子の超核偏極は必要不可欠ですが、そのためには超核偏極した固体を溶解して取り出す必要があるため、実現は装置にも試料にも限界がありました。
本研究では、有機結晶をナノサイズ化することでナノ結晶の超核偏極を液体の水へ移行することに成功し、 triplet-DNP によって初めて液体の水の NMR 信号を増感することに成功しました (下図) 。また、いくつかの対照実験やシミュレーションから増感した水の NMR 信号がナノ結晶由来であることを同定しました。
本研究の成果によって固体から水への核偏極移行が可能であることが実証され、 triplet-DNP を用いた NMR によるリアルタイムでの薬剤のスクリーニングやタンパク質の動的な構造解析への展開が期待されます。
Q2. 本研究テーマについて、自分なりに工夫したところ、思い入れがあるところを教えてください。
有機結晶をナノサイズ化して表面積を大きくすることで効率よく水へ偏極移行するというシンプルな戦略ですが、ナノ結晶のサイズを制御するところで工夫が必要だったように思います。再沈殿法によってナノ結晶を作製する際、ある程度極端にサイズを変化させたかったためアイスバスで温度を下げる、良溶媒と貧溶媒の体積比を変えるといったあまり報告がないような方法を取るに至りました。その結果、 1 回の再沈殿で得られるナノ結晶の収量が少なくなり、 triplet-DNP 測定に必要な数 mg のナノ結晶を回収するために 1 日中再沈殿と遠心分離を繰り返すことになってしまいましたが、実際にサイズによる水の増感倍率の変化がみられたときはその苦労がとても報われた気持ちになりました。
Q3. 研究テーマの難しかったところはどこですか?またそれをどのように乗り越えましたか?
研究室に配属されて本研究を始める際に楊井先生から「ジャングルでお宝を見つけるようなものだから」というような話をされていたのですが、 triplet-DNP による水の NMR 信号の増感を観測 (= お宝を見つける) することはもちろん、それを論文として形にできるレベルまで仕上げる (= お宝を手に入れる) ことが大変でした。より高い水の増感倍率を狙ったり、偏極移行の原理解明を目指したりしましたがなかなか思ったような結果が得られず、そこにお宝があるのはわかっているんだけどなぁというもどかしい思いをずっとしていました。
それでも何とか論文投稿まで漕ぎつけることができたのには、この研究を形にできれば当該分野にとって重要な一歩になるはずだという確信があり、何とか最初に実現させたいという思いがあったからだと今となっては思います。
Q4. 将来は化学とどう関わっていきたいですか?
本研究を通して、これまで難しいだろうと考えられてきた課題に対しても実現するための「何か」を見つけることができれば達成することができるということを実感しました。これからも、一見困難だと思われるような課題に対しても解決するための「何か」を貪欲に探し続け、実現していくような研究に取り組んでいけたらいいなと思います。
Q5. 最後に、読者の皆さんにメッセージをお願いします。
いつも楽しみに読ませていただいているスポットライトリサーチに取り上げていただきありがとうございます。本研究の成果はとにかく手を動かし続けた結果だと思っています。知識や技術を駆使してスマートに研究を展開する方がもちろんかっこいいですが、泥臭く実験を繰り返すことでしかわからない発見があるのも化学の面白さだと思います。目先の結果に一喜一憂することなく、データを積み重ねていくことが、実は一番の近道だったりするのではないかと思います。
最後になりますが、本研究を遂行するにあたり熱心にご指導いただきました楊井伸浩准教授、君塚信夫教授、共同研究者である理研仁科加速器センターの上坂友洋博士、立石健一郎博士、理研・JEOL の西山裕介博士にこの場を借りて感謝申し上げます。
関連リンク
- 研究室HP:楊井研究室
- 研究室twitter:楊井研究室@九州大学
- プレスリリース:新しい核偏極リレー法により「水の高核偏極化」に成功~薬物スクリーニングや細胞内のタンパク質解析への道~
- 楊井 伸浩 Nobuhiro Yanai
- 多孔性材料の動的核偏極化【生体分子の高感度MRI観測への一歩】
- 高効率な可視-紫外フォトン・アップコンバージョン材料の開発 ~太陽光や室内LED光から紫外光の発生~
研究者の略歴
名前:松本 尚士
所属:九州大学大学院工学府 応用化学専攻 楊井研究室
専門:光化学、光機能性材料
略歴:
2021年3月 九州大学工学部 物質科学工学科 卒業
2021年4月 九州大学大学院工学府 応用化学専攻 修士課程入学