2022 年 2 月に始まったロシアのウクライナ侵攻は世界経済に大きな影を落とし、本邦でも小麦をはじめとする輸入品の物価高が切迫した問題となって続いています。ケミストにとっては、パラジウムなどの貴金属や貴ガスなど実験に欠かせない物質の不足も気になるところです。さらに、有機合成や創薬に欠かせない試薬、とりわけビルディングブロックと呼ばれる「化合物の部品」も供給に大きなダメージを受けています。
Enamine Ltd はウクライナの首都キーフに本社を構える、一大ビルディングブロックメーカーです。SciFinder®などでサプライヤーを検索すると頻繁に出てくるので耳にされたことがあると思います。Enamine 社はそのニッチかつユニークな構造のビルディングブロックと幅広いケミカルスペースにより、創薬において定番のサプライヤーにまで成長しました。およそ 700 名のケミストを擁し、ストック化合物数は現在300,000種以上に上ります。これは全世界のサプライヤーのストック数のおよそ 50 %を締めているとのことです。
Enamine 社の紹介
エナミン社は、創薬初期のハイスループット・スクリーニングの登場とともに、1991年に設立されました。その原動力となったのは、新規化合物に対するニーズの急速な高まりでした。この15年間で、Enamineは、製薬会社、バイオテクノロジー企業、創薬センター、学術機関、その他の研究機関が実施する幅広い研究プログラムをサポートするスクリーニング化合物、ビルディングブロック、フラグメントのグローバルプロバイダーに成長しました。
(Enamine社 HP “About us” をDeepL翻訳により引用)
Enamine Ltd の自社紹介動画
そんな Enamine 社ですが、やはりロシアの侵攻によって、本社機能はストップを余儀なくされました。Enamine 社の製品の輸入販売を取り扱っているナミキ商事さんの情報によると、2022年8月現在、キーフの本社ラボは状況を見ながらも稼働中で、その他アメリカやラトビアのラボを積極的に稼働させることにより、日本へのビルディングブロック・スクリーニング化合物の供給も再開しているようです (ナミキ商事さんHP:【Enamine】5/27更新 Enamine社(ウクライナ)の新規ご注文について)。
Enamine 社スタッフからの Viewpoint
さてここからは、Enamine 社のスタッフから ACS Medicinal Chemistry Letters に寄せられた、ウクライナ危機を受けての Viewpoint 論文を紹介したいと思います (https://doi.org/10.1021/acsmedchemlett.2c00211: オープンアクセス)。
Ukrainian companies occupy an important niche in the global drug discovery process; however, before the Russian invasion, the role of Ukraine was not obvious. The biggest Ukrainian fine chemical supplier, Enamine Ltd, had to stop operation for more than a month, which significantly affected various early-stage drug discovery projects. The role of Enamine in drug discovery and the company’s past and future in the context of the Russian invasion are described in this Viewpoint.
ウクライナ企業は、世界の創薬プロセスにおいて重要なニッチを占めている。しかし、ロシアの侵攻以前は、ウクライナの役割は明らかではなかった。ウクライナ最大のファインケミカルサプライヤーであるエナミン社は、1ヶ月以上操業を停止せざるを得ず、様々な初期段階の創薬プロジェクトに大きな影響を与えた。本ビューポイントでは、創薬におけるエナミンの役割と、ロシア侵攻に伴う同社の過去と未来について解説する。
論文中では、Enamine 社の特殊なビルディングブロックの紹介もなされています。例えば、sp3性 (Fsp3) を向上したベンゼン環のイソスターであるビシクロ[1.1.1]ペンタンを足場に、より水溶性の向上したベンゼンイソスターとして2-オキサビシクロ[2.1.1]ヘキサンを開発しています (下図 A)。また、創薬において汎用される3-ジフルオロシクロブタン環の類縁体として2-ジフルオロシクロブタン構造を有するビルディングブロック群を開発し、新規ケミカルスペースの開拓にも成功しています (下図 B)。
Enamine 社の独自ビルディングブロックの例
上図を見てもわかるように Enamine 社のビルディングブロックは他に替え難い魅力を持っていますが、操業を余儀なく停止させられたことにより創薬業界には大打撃が与えられました。
When Enamine had to stop operating, a “vacuum” formed in the global drug discovery process that indicated the uniqueness of the Ukrainian company’s business model and the importance of the niche Enamine had occupied.
エナミン社が事業を停止せざるを得なくなったとき、世界の創薬プロセスに「空白」ができた。それは、ウクライナの会社のビジネスモデルの独自性とエナミン社が占めていたニッチの重要性を示すものであった。
幸い、現地社員と支店の方々の不断の努力により、供給経路の回復が図られています。キーフ本社からの空輸は今でも難しく安定供給の見通しは立っていませんが、アメリカ (ニュージャージー) やラトビアのラボにキーフのビルディングブロック倉庫の「フルコピー」を整備する計画だとのことです。またスクリーニング用化合物についてもポーランドとの国境付近 (ウクライナ西部) にあるサイトに移動され、供給再開の準備を進めているとのことです。ケミストのラトビア支店への移動や、キーフ本社での業務再開も進められています。
Viewpoint 論文は、次の一節で締められています。
Enamine is a true example of how the global pharmaceutical and biotech community has been impacted by the Russian attack on Ukraine. As a research community, we should do what we can to preserve the “Ukrainian factor” and support Ukrainian–colleagues worldwide in the face of this senseless aggression.
エナミンは、世界の製薬・バイオテクノロジー業界がロシアのウクライナ攻撃によってどのような影響を受けたかを示す真の一例です。研究コミュニティとして、私たちは「ウクライナ・ファクター」を維持するためにできることを行い、この無意味な侵略に直面している世界中のウクライナ人同僚を支援する必要があるのです。
さまざまな業界に影を落とすウクライナ侵攻。一刻も早い平和の実現を願ってやみません。