Tshozoです。
決して流されまいと思って読んでいなかった吾峠呼世晴さん作「鬼滅の刃」。しかし今年初頭、仕事でトラブルが重なっていた際、寄った本屋で気分が落ち込んでいたのもあったのか、つい試し読みの1巻を手に取って読んでしまいました。結果、すぐ引き込まれてその場で23巻全て買ってしまい、家には帰りたくないのでそのまま車内で読んでいくうち号泣してしまったというのが今回の要旨です。
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柱が全員出てきたあたりとか黒死牟の語りとか縁壱のエピソードとか不死川兄弟(弟のほう)とかもう全てが心に応えてダメでした。進撃の巨人でも1巻の冒頭のあのシーンとか特定の巻で泣いた経験はありましたが、読んでる間ほぼずっと泣いてたのは人生で読んだ漫画で初めて。齢六十に迫ろうかという爺様が深夜に店の駐車場で寒さに歯を震わせながら少年漫画を読んでオウオウ号泣している様はドリフターズのコントに出てきそうな感じで笑えてきます。警察が見たら間違いなく職務質問コースでした。
おわり。
というと記事にも何にもならないので少しだけ産業界の隅っこに居る人間として駄文を書きます。居酒屋で飲んだくれている中年が話してそうな雰囲気になるよう工夫していますのでご注意ください。
センスのない・センスを見極められない人の一例としての小話
小さい頃自分が何をやりたい、何になりたいというのはあったかと思います皆様にも。しかし実際にはその道で食っていくのに「センス」というのは極めて大事。ケムステで紹介される方々は当然ながら化学者として圧倒的なセンスを持ち、街道を突っ走ってらっしゃるわけであります。
この『センス』とは何か。
筆者のある分野のお師匠さんも「センスが無いとたぶん『実感できない』と思うよ」と言われていました。その方は化学とは無縁ですが50年に1人出るかどうかの天才ですのでまず間違いないと思います。これは音楽、華道、茶道や能などにも通じるものがあり、「わからない」ではなく「実感できない」という点が味噌だったのだ、と今更ながらに思います。
その際、わかりやすい例として挙げて頂いたのが「お前はバク転出来るか? その方法を科学的に説明できるか?」でした。まだ自分も理解が浅いのですが要は「基礎部分の感覚がつかめて自分のものにできる適性があるかどうか」という話。もちろんあらゆる科学者はお師匠さんのコピーではなくその上を目指すものですが、そのためには早くその巨人と肩を並べるに至るか、或いはさっさと肩に登って鴻よろしく上に飛び上がることのできる感覚とモノにする実力が要ることになります。化学ですとバク転よろしく難なく逆合成を感性として思いつくとか、ルートをジャンプ出来る合成術をサラっと考えるとか、目の前にあらわれた現象を難なくとらまえるとか、多少力業であっても最後まで成果物を創り上げるとか、そういうことだと思います。
ではセンスが無い、または見極められない人間はどうなるのか。
筆者の場合でみましょう。子供の頃の理想像はウルトラマンでした。あまりにも惚れ込んでウルトラマンはおろか怪獣の全長、体重、武器など全部覚えていたくらいで小さい頃はスペシウム光線やストリウム光線がこの腕から確かに出ていました。しかし小学生高学年あたりで薄々無理だと気付いた後に考えたのは理系研究者、大学教授でした。ゼットンを倒したペンシルミサイル、スペシウム光線も八つ裂き光輪もスパイラルビームも効かないゼットンをたった1発で仕留めた超科学、あれを作った科学者に憧れたというのが実際です。
しかも最初に目指したのは数学者。ただ数学者はF1マシンみたいな方が行かれる分野で、ある意味優しい世界。漫画で言うならHellsingの10巻で「アンデルセンでさえ倒せなかったこの私に お前みたいな顔色の悪い糞ガキが50年や500年思い煩ったところで 勝てるわけがねぇだろう!」という敗北主義者の骨身に応えるアーカードのセリフそのまんま、私の一番好きなセリフです。筆者のような三輪車が行っても太刀打ち出来ん。たとえば複素数を扱うのに重要な留数定理の考え方やゼータ関数を瞬時に把握することすら未だに実感できない筆者には無理だ、と直感的にわかる。
こういうのを「当たり前」と思えるような感覚、それが数学的センスの一例というものでしょう
筆者には欠片もありませんでしたが有難いことに楽しむことは出来ています
次に高校生の頃考えたのは電気系研究者・技術者。世は半導体・超伝導フィーバー。バーディーン、クーパー、シュリーファーによる超伝導の難解な理論や中二病を掻き立てるわけのわからない数式。新聞やNewtonなどが書き立てるトランジスタ発展史やそれに関わった科学者英雄譚。超合金とか超合体とか「超」が付くものに魅力を感じる精神的未熟さに釣られて大学へ行きましたが当然こちらも魔窟。
電気磁気学、電気回路理論、冒頭から全く意味の分からない実験実習、情報理論、ベクトル解析、初歩の初歩の量子力学、初等数学の嵐に叩き潰され超伝導はおろかラグランジアン、ヤコビアンでヒィヒィ涙を流し、対してそうした課題を難なくこなしCGと併せたシミュレーションとかを自作して夏休みとかを楽しんでいる同窓生がゴロゴロいる。筆者が勉強以外のことに感けていたのもありますがとてもついていけず、だいぶ早い段階で色々諦め遊び中心の大学生活を送ってしまったのを告白いたします。
それもあって大学3年で留年しかけ、未だに単位を落として先生に哀願しに校舎への坂道を駆け上がる夢を見ます。・・・お気づきと思いますがこの時点でだいぶ人生を浪費していますね。第一、大学に入ってから量子力学を理解しだそうとする時点でだいぶお察し。センスのある方はもうその前、ずっと前からやってますって。
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この後何とか滑り込んだ研究室もつまらなくて(今考えると勿体無い話ですが当時はわからなかった)遊び倒し、もう何というか惨憺たる有様で記憶がはっきりしてないくらい本当に恥ずかしい。本当に恥ずかしかったので関係者とは一切連絡を断ち実質行方不明扱い。当時の私を正座させて夕方の16時から22時まで6時間説教しても足らないくらい。
加えて命からがら逃げ出して滑り込んだ先でじっとしてりゃいいものを、よせばいいのに中途半端なやる気を出したのがまた痛い。仕事能力、実力、人間性が圧倒的に不足している上に人見知り、人嫌いときたもんだ。人の言うことが理解できないし興味のない事は覚える気が無いし付き合いは悪いし色々な事が同年代の人間と比べ著しく劣っていて業務を回せるわけがない。この結果生き方の時間軸が干支一つ分くらい遅れ、それをある程度克服し辛うじて人様同等までこしらえるのに15年以上かかりました。今は時代が追いついた、くらい前向きに考えていますが一面的には時間の浪費です。
その結果表向きにやったことは全部うまくいかずに近年は他人様の養分になりつつ生きている、という有様。第一、組織人に向いてないということが初期で認識できていない時点でもうどうにもならん。砂漠に桜は生えませんし、豊かな土壌にはサボテンは生えにくい。そもそもが組織人らしく「Sir, Yes, Sir!」「言われりゃ白でも黒にする」「目標の2倍、3倍は当たり前」の精神が必要です(でした)が、そういうのを内心小馬鹿にしていた。作家の新庄耕さんが書かれた「狭小邸宅」という不動産を扱った小説での一節、
「自意識が強く、観念的で、理想や言い訳ばかり並べ立てる。それでいて肝心の目の前にある現実をなめる。一見それらしい顔をしておいて、腹の中では拝金主犠だ何だといって不動産屋を見下している。家ひとつまともに売れないくせに、不動産屋のことをわかったような気になってそれらしい顔をする。客の顔色を窺い、媚びへつらって客に安い優しさを見せることが仕事だと思ってる」
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この主人公の上司である切れ者課長のセリフまんま、「不動産」を別の言葉に置き換えた精神だったと今更ながら思います。必要なセンス、必要な土壌を見極める能力すら私にはなく、土壌を変える勇気もなく、上っ面に終始し技術者としても中途半端なまま、つまり圧倒的にセンスが無い分野に突撃してもがきながら色々と終わりを迎えようとしているわけです。
何が言いたいんだ
結論として挑戦したどの分野においても筆者には何もなかったのです。いや、そう言うと両親に申し訳ない。土壌を見極められる実力が無かったというべき。もし筆者が鬼滅の刃の中で居たとしたら多分最後の方で主人公たちの盾になる人身御供の隊員で、そもそも鬼殺隊に入れるかどうかも怪しい。言い方は悪いですが、筆者が大学時代に非常に尊敬していた同窓生の言葉を借りれば「人生の負け犬」。英語だとUnderdogって言うらしいです。爺様、皆様方すまねぇ、頑張ってつないでくれたバトンが俺みたいな雑魚にわたってしまったよという気持ちをずっと腹に入れて生きていたのもありまして、ですな。
そこで読んだのが鬼滅の刃ですよ。作中で一番悲しくなったのは縁壱のエピソードでしたが、感情移入していたのは黒死牟の語りの部分でしたし、何より自分が鬼殺隊に入れるレベルにすら居ないということを改めて思い知ってしまったのだというグチャグチャな感情によるものでした。ただオンオン泣いたのは素晴らしく面白かったのもありますが、柱になれなかった人たちの結末をも描いてくれていた作者である吾峠呼世晴さんのやさしさに触れたからに他なりません。
ということでドイツの偉大な文豪シラーの名言、
“Wer etwas grosses leisten will, muss tief eindringen, scharf unterscheiden, vielseitig verbinden, und standhaft beharren.”
「大志を成す者、徹するに深く、弁ずるに鋭く、猟るに広く、持するに剛するを要す」
に基づき採点してみますと筆者には深く徹する能力は確実に無く、弁じてもアウッオウッとしか発言できず、若干広く調べる能力はあると思いますが、剛する根性が無いので贔屓目に見て20点! 100点の方々を何人か知ってますが真に器が違うとしか申し上げようがありません。
ともかく、こうした敗北主義者の戯言を鼻で笑えるくらいセンスと適性を早めに見極め、柱となり、お館様となり、更に次世代となる方々が様々な世界で出ているのを見ていると昔と逆に幸せな気持ちになるのも偽らざる気持ち。まぁそういうふうに産まれてきている(Es treibt die Menschen, die dafuer geboren sind, zur Betatigung.)方々が多いのですが、私らのような人間のあこがれであり続けていらっしゃるというのは他人事ながら嬉しく、本当に有難いことなのです。
結局、未完となってしまったベルセルクで言うとコルカスくらいが筆者にはちょうどいい。ガッツやグリフィスを指を咥えて眺める側なんですな。ただ、現実でグリフィスとかのように華々しく活躍されている方々の応援記事や科学の関連記事をなんのご縁か書き続けて早や10年くらいになりますが、文章を書くことが比較的長期間継続出来ていること自体が筆者に合っているのかもしれんと思いつつ、これだけは継続はしていきたいとは思う次第です。
ここまでの雑感
・・・書いていて気付いたのですが今回は一時期Biomedicircus殿で話題になった「無題」を筆者版に焼き直したような内容となりました。正直魂を震わせる点では「無題」の方が圧倒的であり、筆者のはただの敗北主義者の駄文であることは認めざるを得ません。
ただあっちにはあんまり救いがない。こちとら今からですら何とかなると思っている底抜けの楽観とすぐ泣く悲観が混じった人間ですし、学生時代はおろか現在に至っても人様に誇れるような成果を全く出せてない点で「無題」を執筆された方と比較するのも烏滸がましいですが、小学生から抱いている小さな夢はまだ残っているレベルなので、その救いを叶える余地はあると思いたいところです。
またお気づきの通り、ここまで「化学」という言葉が一切出てきません。実際には親父が化学に関わる会社に勤めていてイベントで工場に行ったり知合いの近くの方々にある大学の先生がいらっしゃったり様々な参考書が幼少のころから身近に転がっていたりしたというのに興味を持たず、大分経った後にとある方々にお世話になってからようやく面白さに気付いたのですが、それが人生の7割くらい過ぎた辺り、という・・・身近な全てのものが自分にとって本当は必要なものだった、と何かの寓話みたいな感じに思えてなりません。
しかし、度重なるチャンスにもかかわらずセンスを見つけられず、何ものも達成できず、何者にもなれず、何物も残せなさそうな人間に至ってしまったらどうしたらいいのか。答えはただ一つ、「精一杯やってから来世にやり直すとしましょう」。・・・ということを改めて思った次第です。転生とか地獄に落ちるとか●興宗教とかはNo Thank youなのですが、鬼滅の刃でも後日談が描かれてたくらいなのでそのくらいまぁいいじゃないですか。鬼殺隊を抜けたメンバにも人生は続いていたでしょうし、柱にならなくても来世を支えることに貢献していた人はたくさんいたに違いありません。
実際、筆者の知っている方々の中にも、ある製品の主要部の世界的な特許を出しながら組織に残れなかった方や、世界の名立たる企業がこぞって使用したくなる発明を創りながら最後まで平社員クラスだった方とか、世界初の開発に成功しながら組織から追い出されたりした方とか、最近でも世界初の製品の骨格を創り支えながらも不遇なまま終わろうとしている方など組織人として恵まれなかった方々を何人か知っています。役目、役割、適性があるとは言え、真の意味で技術者として生きている方はだいたい背後が隙だらけですから…。
こう書いていると鬼殺隊に入るとか柱になるとか成功とか立身出世とかの意味がよくわからなくなってくるのですが、人生自体、そういう単純なベクトルだけで計るもんでは絶対にないというのも実感しており、特に大学時代に尊敬していた同期の言葉「人生の負け犬云々」は今では一種の呪いだったと思っています。当時はあることにこだわるあまり、この言葉を過度に意識し視点を極端に狭めていたのでしょう。まだこの言葉に縛られていると私が知ることの出来た上記の技術者の方々は負け犬になってしまう。本当に立派な彼らに対し、そんな呼び方は絶対に許されない、というのも考えを180度変えた理由でした。
そうしたこともあり、ケムステで紹介される科学者はもちろんですが、最近ハリネズミノミの背中のスキマに付くダニというのが実在しているということを知って以来昆虫学者の方々にも注目していて、例えば現地で奮闘することでサバクトビバッタの、誰も見つけていなかった大量発生のキモになり得る習性を発見した「バッタを倒しにアフリカへ」の作者前野ウルド浩太郎さん、ダニが好きすぎる高校生の大島雅晴君、アリをはじめとした虫の観察に人生を捧げている島田拓さん、以前少しご紹介した昆虫学者小松貴さん。このほか帯広畜産大学と鹿児島大学などの研究者の方々など、、、こうした世界的にも貴重な人たちを見ると過去の自分の考えが如何に浅はかでお脳が足りないものであったかを改めて認識するとともにこっちまで幸せになるのは、年を取ってようやく至れた場所であると思います。
終わりに
昔から「その何もない死体を引っ担いで行き来しているのは誰だ、何だ」という禅坊主の問答が気になっていました。今回その言葉を思い出し本当に俺はどうすりゃよかったのかなぁと無い知恵絞って半年くらい考えてみたわけですよ。そうすると、色々な嫌なことや面倒なこと、努力しなくちゃいかんことから逃げて、美味しいところだけ戴こうとしていた事しか思い出せませんでして。これに根性が無いのを加味すると自分の本質がコソ泥とか盗賊っぽいという結論に至りました。そうなると他人様の成果や情報をうまく手に入れてこっそり自分のものにするのが得意とか万引きが上手とかそういうのが固有のセンスになりそう。それはそれで便利かもしれんな。
しかし泥棒が人生を引っ担いで行き来しているとしたらお釈迦様でも目からビームで成敗してくるでしょうし、異世界ファンタジーとかでも転生後数秒で打首になりそう。これでは救いがないので前向きに幼少期の純真な時代を見直したところ、ウルトラマンのような御伽話やファンタジーに熱中する癖があった(今も)のに加えて虚言癖があり、少々の記憶力は備えていたほか学校の授業で実演していた狂言(ファンタジー)の台詞回しとかは結構皆様に好評、爆笑されて感心されていたのを思い出したくらいが黄金期だったのを思い出しました。
要はありもしないことを作り上げるような職業には向いていたんでは、つまり冒頭で書いた「ウルトラマンになりたかった」というのは自分の本質だったんではないかという結論に至りました。もちろんシン・ウルトラマンを創り上げた庵野氏・樋口監督のようなセンスと狂気と情熱が無い限りその道も魔窟でしょうし誰もに出口がある道ではないのはわかりますが、筆者だけでなく皆様が最初に惚れ込んで続けられるもの、本当に目指したかったものはその人の本質が帰する場所であり、それに必要なものは既に自分の周りに在り、人の讒言や余計な干渉、自分の嫉妬等に目もくれずにそれをセンスとして磨きつつ進むべき道であったのかもしれません。ただ問答の応えとしては論理的には一応本質かもしれませんが坊様としては失格ですのでバチで30回くらい殴られる気がします。
以上のようなことを考えたあたりでシン・ウルトラマンを観に行き、昔のビデオや書籍を読み返し、初代ウルトラマンの笑みも広隆寺の弥勒菩薩像の笑みからきているらしきことをデザイナー成田亨さんが発言されていたのを知りました。そこでようやく「ああ私ゃお釈迦様の写しに憧れていたのか」と妙に得心が入った、というのが今回の一番の成果だったのは、鬼滅の刃をはじめとしたファンタジーに未だに憧れている筆者の一つの着地点ということにさせてください。
ということで「三つ子の魂百まで」というオチがついたので今回はこんなところで。