3d 遷移金属は、多くが (3d)n(4s)2 という中途半端に 3d 軌道が埋まったまま 4s 軌道を占有した電子配置を持ちます。しかしこれは、3d 遷移金属において 3d 軌道のエネルギーの方が高いことを意味するわけではありません。原子の電子配置は、軌道エネルギーのみで決定されるわけではなく、電子間反発を考慮に入れた系全体のエネルギーによって決まるのです。本記事では、原子の電子配置を決定する構成原理について、よくある誤解を中心にお話しします。
はじめにー電子配置に関するよくある誤解ー
学部レベルの教科書では、「原子軌道を電子が占める順序は 1s, 2s, 2p, 3s, 3p, 4s, 3d, 4p,…である 」といった記述があります(このカギカッコ内の記述はシュライバー無機化学 (上) 第6版 p. 19 より抜粋)。この記述を真に受けて、「電子はエネルギーが低い軌道から順に入るので、4s 軌道は 3d 軌道よりもエネルギー的に低いんだ!」と誤解している人は多いようです。
上の誤解は、実は二つの誤解を含んでいます。一つ目は、電子は必ずしもエネルギーが低い軌道から占めるわけではないことです。2つ目は、遷移金属においては、ns 軌道のエネルギーは (n-1)d 軌道よりも高いことです。これらについて、踏み込んでお話ししたいと思います。
3d 軌道と 4s 軌道のエネルギー
論より証拠。まずは、分光学的に決定された軌道のエネルギーを下に示します。
軌道エネルギーと原子番号 Z のグラフ. 3d 軌道のエネルギー (黄色) は K → Ca → Sc と進むにつれて急激に下がります. なお縦軸の neff は有効量子数 neff として表されており、neff は軌道エネルギーの絶対値 |ε| に反比例します (つまりneff が小さいほど, 軌道のエネルギーは大きく負). 図は文献 1 より改変して引用.
黄色で示された3d軌道のエネルギーとグレーで示された 4s 軌道のエネルギーに注目します。確かに K や Ca において、3d 軌道のエネルギーは 4s 軌道のエネルギーよりも高くなっています。したがって、K や Ca において 3d 軌道が占有される前に 4s 軌道が占有される理由は、「K や Ca においては 3d 軌道のエネルギーが4s軌道よりも高いから」といって、間違いではないでしょう。
しかし、図に示されているように 3d 軌道のエネルギーは K から Ca へ進むにつれて著しく安定化しており、その安定化の程度は 4s 軌道の安定化よりも大きいです。その結果、Sc に移ったときには 3d 軌道のエネルギーは 4s 軌道よりも低くなっていることがわかります4。さらに 4d 軌道のエネルギーと 5s 軌道のエネルギーについても同様の傾向がみられます。すなわち第5周期の s ブロック元素であるルビジウムとストロンチウムにおいては、4d 軌道のエネルギーが 5s 軌道よりも高いです。しかし、4d 軌道のエネルギーは原子番号が大きくなるにつれて著しく安定化し、イットリウムに差し掛かったときに、5s 軌道よりも 4d 軌道のエネルギーは低くなります。遷移金属においては (n-1) d 軌道のエネルギーは ns 軌道よりも低いのです。
電子配置は軌道エネルギーだけで決まるわけではない
上の事実を受けて、次のような疑問を抱く学生もいるかもしれません。すなわち「もし遷移金属において (n-1) d 軌道のエネルギーが ns 軌道よりも低いのだとしたら、なぜ Sc の基底状態の電子配置は (3d)3 にはならずに (3d)1(4s)2 なのか?」という疑問です。
この疑問を言い換えると 「3d金属では 3d 軌道の方が4s軌道よりも安定なのだから、もはや4s軌道に電子を置く義理はないのでは?」とも言えます。この疑問に対する端的な答えは、
電子配置は、各軌道のエネルギーだけで決まるのではなく、電子間反発などの相互作用考慮した、系全体のエネルギ―によって決まる
とまとめられます。言い換えるならば、多電子原子のエネルギーは、原子が占有している軌道の一電子エネルギーの単純な和で表せるわけではなく、系全体の安定性を議論するには電子間の相互作用を考えねばならないのです。
そこでもともと 3d 軌道に 1 つ電子が収容されているとして、次の電子が3d軌道に収容された場合と4s軌道に収容された場合で、1つ目の電子と2つ目の電子の反発がどう違うかを考えてみます。
電子間反発を模式的に表した図. 3d 軌道は 4s 軌道よりも比較的コンパクトなので, 3d 電子同士の反発は 3d-4s 間の反発よりも大きいと考えれらます.
3d 軌道は 4s 軌道よりも主量子数が小さいので、4s 軌道よりもコンパクトであると考えられます。したがって、3d 軌道に収容された電子同士の平均的な距離は、3d 電子と 4d 電子の間の平均的な距離よりも小さく、3d 電子間では静電気的な反発が大きいと考えれます。その結果、例え 3d 軌道よりも 4s 軌道の方が軌道のエネルギーは高かったとしても、4s 軌道に電子を置いておく方ことで電子間反発を減らすことができ、系全体として安定になれる可能性があるのです。もし 4s 軌道に電子が2つあるならば、4s-4s間反発は3d-4s間反発よりも小さいと考えられるので、4s 軌道に電子を置くことは系の電子間反発を軽減するにあたってよい作戦なのです。
このような電子反発の効果が、3d金属元素において4s軌道が占有されている理由です。3d元素において4s軌道が占有されている理由と、KとCaにおいて4s軌道が占有されている理由は根本的に違うことにも念押ししておきましょう。先にお話ししたようにKとCaでは、確かに4s軌道のエネルギーの方が3d軌道よりも低いのでした。
その他の電子配置にまつわるあれこれ
以上は中性の真空下での原子の電子配置に関するお話でした。次に、中性でない場合や化学結合を作っている金属の電子配置に関する疑問にも話を移します。
遷移金属陽イオンではなぜs電子が取り除かれるのか
遷移金属の多くは、中性では (n-1)dm-2 ns2 (nは周期、mは族) の電子配置を持ちますが、イオン化すると (n-1)dm-x (x は酸化数) の電子配置を取ります。例えば第10族3d金属であるNiの中性真空下での電子配置は (3d)8(4s)2 で、二価の陽イオンの真空下で電子配置は、(3d)8 となります。このように3d金属イオンにおいて3d電子ではなく4s軌道が取り除かれる理由は、本質的に遷移金属においては 3d 軌道のエネルギーは 4s 軌道よりも低いからと考えてよいでしょう。ただし、実際にはイオン化に伴って軌道のエネルギーが変化することも考慮しなければならず、遷移金属イオンの電子配置の話はかなり複雑です。
例えば 第5族の3d金属である V は、中性真空下の基底状態の電子配置は (3d)3(4s)2 です。しかし、電子を1つ取り除いた陽イオン V+の真空下の基底状態の電子配置は、(3d)4です。これを見ると、中性のV原子から4s電子を1つ取り除いただけで、4s軌道に残されたもう一つの電子が3d軌道へ落ちてきたような印象を受けます。
真空下での中性の V と一価の V+ の電子配置の比較. 中性の V では 4s 軌道に電子が 2 つ収容されています. そこから電子を 1 つ取り除くと, 残された 4s 電子は 3d 軌道に “落ちて” きて, (3d)4 の電子配置を取ります. (文献1)
このような遷移金属のカチオンにおける電子配置を理解するには、イオン化によって、3d軌道と4s軌道のエネルギーがどのように変化するかを考える必要があります。4s軌道は貫入しているので、内側の3d電子もいくらか遮蔽していると考えてもよいでしょう。もしそのような4s電子が取り除かれたなら、イオン化に伴う有効核電荷の上昇の効果は、4s軌道よりも3d軌道の方が大きいと考えられます。なぜなら3d軌道は4s軌道よりも内側にあり、クーロン力は距離に反比例するからです。このようなイオン化に伴う3d軌道の安定化が大きいならば、もはや4s軌道に電子を置いて電子間反発を軽減させるよりも、全ての価電子を3d軌道に収容することで系全体は安定になると考えられます。遷移金属における 3d 軌道と 4s 軌道のエネルギーと、それらの軌道間での電子反発の兼ね合いはかなり繊細なのです。
0価錯体ではなぜs軌道に電子が収容されないか
酸化数ゼロの金属の錯体の d電子数をカウントするときには、s軌道に電子が入っているとは考えず、全ての価電子がd軌道に収容されているとします。例えば Cr(CO)6 の Cr の電子数を数えるとき 3d6 として、3d44s2とはしません。なぜでしょうか。
実は、今まで話してきた電子配置の話は、真空下での電子配置なのです。実際に化学結合を作るときには、また話が違います。4s 軌道は 3d 軌道よりもエネルギーが高く、核からも遠いです。もし Cr の周りに配位子が存在すると、4s電子は配位子の電子からの反発を大きく受けます。したがって、もはや4s軌道に電子を置く利点はなくなり、化学結合を作っている3d金属では価電子は3d軌道に収容されるのです。
おわりに
実は私は大学院生の無機化学の講義のTAを2年ほど経験したのですが、「3d軌道は4s軌道よりもエネルギー的に高い」という誤解は、無機化学を専門とする大学院生にもよく見られます(50%程度でしょうか)。私自身も、初めて構成原理について習ったときに、遷移金属周りの電子配置について大変混乱したことを覚えています。電子配置は、化学の基礎ではあるものの大変ややこしいテーマであることは確かでしょう。この記事が、化学の初学者の助けになると幸いです。
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参考文献·脚注
- 遷移金属の電子配置に関する詳細な文献: Schwarz, W. H. E. “The Full Story of the Electronic Configurations of the Transition Metals” J. Chem. Educ. 2010, 87, 444. DOI: 10.1021/ed8001286
- Wang, S.-G.; Schwarz, W. H. E. “Icon of Chemistry: The Periodic System of Chemical Elements in the New Century” Angew. Chem. Int. Ed. 2009, 48. 3404. DOI: 10.1002/anie.200800827
- 比較的詳細に “なぜ 4s 軌道が 3d 軌道よりも先に占有されるか” を説明した文献: Melrose, M. P. Scerrl, E. R. “Why the 4s Orbital Is Occupied before the 3d” J. Chem. Educ. 1996, 73, 498. DOI: 10.1021/ed073p498
- そのように原子番号増加に対する安定化の程度が3d軌道と4s軌道で違うのは、かなり複雑に多数の効果(例えば内殻電子による遮蔽効率の差や遠心力の角運動量依存性など)が関与しています。
- 注意しなければならないのは、本来”軌道のエネルギー”という考え方は、多電子系での独立粒子近似のもとで生まれた近似的なアイデアであることです。そもそも、3d軌道とか4s軌道というのは水素型原子のシュレディンガー方程式の解の一つです。他電子系のシュレディンガー方程式は解けないので、水素型原子の解を借りてきて、それらの軌道に電子が一つずつ収容されていく、と考えているのです。そして「もし原子が電子を1つ失って、さらに他の電子の状況が変わらないならば、そのときのイオン化エネルギーが失われた電子の ”軌道のエネルギー” と考えてよいだろう」という近似 (Koopmans の定理) のもとで、軌道のエネルギーは決定されています。しかし、実際にはイオン化に伴って残された電子の状態も変化しているはずで、多電子原子の中の一つの電子のエネルギーを単離することは難しいのです。この記事を通して 「3d軌道が4s電子よりもエネルギー的に低い」と書いていたのは、「3d電子の方が4s電子よりもイオン化エネルギーが高い」という意味になります。