第345回のスポットライトリサーチは、北海道大学大学院理学研究院 理論化学研究室(前田・高橋研究室) 博士研究員・松岡 和 (まつおか わたる) 博士にお願いしました。
名古屋大学伊丹研究室では、多様な構造の芳香族化合物の合成が行われています。多環芳香族炭化水素 (Polycyclic Aromatic Hydrocarbon, PAH)の効率的変換手法の開発にも力を入れており、最近では縮環π拡張反応 (Annulative π-extention reaction: APEX反応)の開発を報告しています。今回の報告では、これまで不可能であったAPEX反応を新たに開発しています。それにより、多様なナノグラフェン構造への直接的なアクセスが可能になりました。
Nature Communications誌 原著論文・プレスリリースに公開されています。
“Diversity-oriented synthesis of nanographenes enabled bydearomative annulative π-extension”
Wataru Matsuoka, Hideto Ito, David Sarlah, Kenichiro Itami Nature Communications 2021, 12, 3940. doi: 10.1038/s41467-021-24261-y
共同研究者である伊藤 英人 准教授、および研究室を主宰されている伊丹 健一郎 教授から、松岡博士についての人物評を以下の通り頂いています。
松岡和君は私が大学教員として初めて4年生から博士号取得まで見送った学生で、4年生のときからずば抜けて賢く、人当たりもよく、またとても意欲の高い学生でした。そんな彼とはいつも夜まで、時には朝一緒に朝風呂に行き、また頻繁にラーメンを食べに行くくらい、まるで親友や弟のような存在であり、また良き共同研究者でもありました。日々研究のことを議論できたのは私にとってもとても身になるものでした。彼の研究熱意とその行動力は凄まじく、実験量も研究室歴代1位で多い時で年に2000個近くの実験をこなしていたツワモノです。また松岡くんに関して忘れられないエピソードがあります。4年生の時に、ピレンのM, L領域でのC-Hアリール化、APEX反応のテーマを渡したのですが、非常にチャレンジングであり膨大な実験数にも関わらず4年生と修士1年生の間はほとんど結果が出ませんでした。その間、彼はピレンのことを想いすぎて、自分がピレンになり官能基化を受ける夢を見たそうです(笑)。分子への愛が伝わりますね。また、この論文のきっかけにものなったメチルトリアゾリジノン(MTAD)による脱芳香族化を経たAPEX反応ですが、博士1年生くらいの時に、抄録会でDavid Sarlah先生の論文が紹介されたのをきっかけとして彼がアイデアを閃き、研究に着手したものです。彼のすごいところは、単純にアイデアだけに留めずにそれを実行できる頭脳と行動力をもっていることです。そのままDavid Sarlah先生のもとに単身留学し、色々学んで共同研究という形で今回の論文の成果に至りました。論文の著者でわかるかと想いますが、実験は全て彼一人でこなしたものであり、彼でなければ到達できなかった化学であることは間違いないです。現在、計算化学に身を置いている松岡くんですが、合成も計算もできるという、他の研究者にはない強力な武器を身につけて今後もアカデミアでも大いに活躍してくれると期待しています。
伊藤 英人
APEX反応は分子ナノカーボンのプログラム合成に向けて10年近く私たちの研究室で進めてきたものですが、今回のM-APEX反応は松岡君自身による研究提案からスタートしたものでした。
私の友人でもあるDavid SarlahらによるTADを使った脱芳香族化反応を上手に使えば、多環芳香族炭化水素のM-APEXが原理的に実現するはずというアイデアが彼から披露されたのは2017年6月のことでした。
その時の衝撃と感動は今でもはっきりと覚えています。そのときの研究会では、「松岡、なんて賢いんだ!すげー!」と大きな声で叫んでしまいました。しかし、素晴らしいアイディアでもそれを実現する反応条件を探し当てることは容易ではありません。実際、松岡君は年間1000近くの実験を繰り返しましたが、中々M-APEXは実現しませんでした。ただ、彼の提案にあまりにも感動したため、M-APEXはまだ実現していませんでしたが、その年の忘年会で彼にItami Award (Proposal of the Year)を授与しました。私は毎年、忘年会で研究室の1年を振り返るプレゼンをしつつ、色々な活動で頑張った学生にItami Awardを渡していましたが、松岡君のプロポーザルをどうしても表彰したくて、2017年からProposal of the Yearを新設してしまったほどでした。
結局、彼の論文が世に出るまでそこから3年を要しましたが、この松岡作品は歴史に残る金字塔だと思っています。心から彼を祝福したいです。
松岡君はこれまで見てきた中で最も「破格」な学生でした。誰よりも頭が切れ、誰よりも実験し、誰よりもはちゃめちゃで(エピソードを文字にはできず…)、あらゆる面で突出した存在でした。間違いなく今後の化学界をリードする存在です。これからの松岡君の活躍がとにかく楽しみです。伊丹健一郎
何を隠そう筆者も関係者なのですが(笑)、それは置いておいて、末恐ろしいスーパーマン松岡和博士のインタビューをぜひご覧ください!
Q1. 今回プレスリリースとなったのはどんな研究ですか?簡単にご説明ください。
多環芳香族炭化水素(PAH)からナノグラフェンを合成する縮環π拡張反応(APEX反応)を開発しました。
グラフェンをナノメートルサイズに切り出したナノグラフェンは、特徴的な磁気特性・光学特性を有し、有機電子材料などへの応用が期待される魅力的な化合物です。一口にナノグラフェンといってもその構造は多種多様であり、それら一つ一つが異なる物性を示します。したがって、それぞれのナノグラフェンを効率的かつ選択的につくりわける合成法が求められています。伊丹研究室では、多環芳香族炭化水素(PAH)の狙った位置に新たな芳香環を構築し、ナノグラフェンへと誘導する縮環π拡張反応(APEX反応)の開発研究を行なっています。APEX反応は、市販のPAHから短工程でナノグラフェンを合成できるため、効率的なナノグラフェンの合成法であるといえますが、π拡張可能な位置がPAHテンプレートの反応性の高い部位(K領域とbay領域)に限られるという制限がありました。
本研究では、脱芳香族的APEX反応という新たな反応を開発し、反応性の低いM領域での形式的なAPEX反応を達成しました。また、開発した反応と既存のAPEX反応を組み合わせることで、1つのPAHテンプレートから多様なナノグラフェンを精密合成する、ナノグラフェンの「多様性指向型合成」を実現しました。
Q2. 本研究テーマについて、自分なりに工夫したところ、思い入れがあるところを教えてください。
工夫した点は、不活性なM領域のみを選択的に反応させるための反応設計です。前述のK領域やbay領域は、オレフィンやジエンとしての性質を有しており、その性質を足掛かりに位置選択的なAPEX反応が達成されていました。一方で、M領域(アセン状骨格の末端)は芳香環としての性質が強いため、PAH中に数多く存在する反応点からM領域だけを選択的に反応させることが困難でした。そこで、PAHの芳香環を一時的に壊してしまい、反応の足掛かりを作ることを着想しました。π拡張反応を行う前に、PAHにMTADと呼ばれる活性化剤を作用させ、芳香環の一部であったM領域をオレフィンへと変換します(脱芳香族化)。ここで得られたMTAD付加体に対してπ拡張反応を行い、MTADの除去により再び芳香環へと戻すことで、形式的にM領域だけがπ拡張された生成物が得られます。研究を終えた今になって振り返ると単純な仕掛けにも思えますが、この形になるまでかなり試行錯誤しました。「不活性領域でのAPEX反応の開発」は、学部生で研究室に配属された時からずっと取り組んでいた研究テーマだったこともあり、D1になって初めて望みの生成物が得られた時の感動は忘れられません。
Q3. 研究テーマの難しかったところはどこですか?またそれをどのように乗り越えましたか?
MTADを用いた脱芳香族化段階に苦労しました。MTADは、芳香環を壊してしまうほど反応性が高いので、調製の際も反応に使用する際も細心の注意が必要です。さらに、前述の鍵中間体であるMTAD付加体は、室温で分解してしまい、もとのPAHとMTADに戻ってしまいます。これらの点から、この研究をはじめた当初は、望みの反応が進行しない原因が脱芳香族化段階にあるのかπ拡張段階や再芳香族化段階にあるのかさえもわからず、諦めかけていました。そんな時に運良く、MTADケミストリーのパイオニアであるイリノイ大学David Sarlah先生の講演会が名古屋大学で開かれるという情報を耳にしました。すぐに伊丹先生にお願いに行き、Sarlah研に留学させていただけることになりました。Sarlah研で3ヶ月間、MTADケミストリーのノウハウを徹底的に学び、帰国後にM-APEX反応を開発することができました。この講演会や留学がなければ、本研究は絶対に完成しなかったので、本当に運がよかったと感じています。
Q4. 将来は化学とどう関わっていきたいですか?
現在は、少しの間実験化学から離れ、北海道大学 前田理教授の主催する研究室で理論開発研究を行なっています。近年のコンピュータ関連技術の発展は目覚ましく、これからの時代は、有機化学分野においても理論化学や情報化学の果たす役割がますます大きくなっていくと考えています。そのような新たな局面で、実験化学と理論化学の両方の立場から、融合研究を牽引する存在になりたいと考えています。
Q5. 最後に、読者の皆さんにメッセージをお願いします。
最後まで読んでいただき、ありがとうございます。ケムステは学部生のころから拝見しており、自分のことを記事にしていただけるなんて夢のようです。現在、コロナ禍で思うように研究が進まず焦ることもありますが、研究を楽しむ気持ちを忘れずに乗り越えましょう!対面で飲み会学会ができるようになったらお声かけいただけますと幸いです。
最後になりましたが、本研究に限らず毎日遅くまで議論させていただいた伊藤英人准教授、留学を快く受け入れていただいたDavid Sarlah准教授、熱い情熱で研究を成功に導いていただいた伊丹健一郎教授にこの場を借りて感謝申し上げます。
研究者の略歴
[名前]
松岡和
[研究テーマ]
反応開発研究を効率化する量子化学計算手法の開発
[略歴]
2018年4月〜2021年3月 日本学術振興会特別研究員(DC1)
2021年3月 名古屋大学大学院理学研究科物質理学専攻 博士後期過程修了 (伊丹健一郎 教授)
2021年4月〜現在 北海道大学大学院理学研究院 理論化学研究室(前田・高橋研究室) 博士研究員