2021年8月6日夜、小田急線の車内で刃物を持った男が乗客10人を刺傷する事件がありました。供述によると「サラダ油で車内に火をつけようとした」と無差別テロの計画を仄めかしていたとのことですが、それを受けネット上では「サラダ油に火は点かない」とのコメントが多く挙がりました。しかし、「化学専攻だったけど知らなかった」との声も散見され、はたして「サラダ油に火は点かない」ことは常識なのか?との話題にまで発展しています。
「サラダ油に火は点かない」は正確ではなく、敢えて言うならば「常温・常圧ではサラダ油は引火または発火しない」というのがより良い説明でしょうか。火が点くという現象には、引火点と発火点という有機化合物の物理的性質が深く関わっています。
サラダ油の引火点
引火点は、日本工業規格 (JIS) によると、「規定条件下で引火源を試料蒸気に近づけたとき,試料蒸気が閃光を発して瞬間的に燃焼し、かつ、その炎が液面上を伝播する試料の最低温度を101.3 kPaの値に気圧補正した温度」と定義されています。よく分かりませんね。
危険物取扱者のテキストなどでは「物質が揮発して発生した蒸気が空気と可燃性の混合物を作る最低の液温」などと書かれます。揮発性の有機物からは、常に蒸気が発生しています。ある温度での蒸気の発生量は物質固有の飽和蒸気圧によって決まります。飽和蒸気圧が大きい=揮発性が高い物質は多くの蒸気を発生し、空気との混合比も大きくなります。物質蒸気と空気の混合比がある割合に達すると、着火源を近づけることによりその混合蒸気に引火します。これが可燃性混合気体であり、その混合気体が発生する最低温度が引火点になります。つまり、飽和蒸気圧が可燃性混合気体を作るよりも小さくなる温度では、物質に火を近づけても引火することはありません。また引火点ちょうどの温度の可燃性蒸気では、着火源を取り除くとすぐに燃焼は収まります。燃焼の継続には、引火点よりも高い温度の燃焼点 (5秒間燃焼が継続する最低温度) に到達する必要があります。
図1 引火のイメージ
サラダ油や天ぷら油など食用油の引火点はおおよそ 250˚C とされており、猛暑日の気温でもサラダ油には引火しません。さて、サラダ油にも色々な種類 (オリーブオイル、ごま油、菜種油、紅花油など) がありますが、代表的な菜種油の主成分はオレイン酸、リノール酸、リノレン酸といった長鎖脂肪酸です。そのうち特に含有量の多いとされるオレイン酸の引火点は195˚Cで、成分が 100% オレイン酸だとしても常温で引火することはありません。物凄くかいつまんで言うと、オレイン酸は揮発しにくいため引火点が高く、それや類似した脂肪酸を主成分とするサラダ油は非常に引火しにくいということになります。
有機溶剤の引火点
一般的に引火しやすい「油」は、低沸点で構造も単純な有機溶剤です。図2 にエーテル (ジエチルエーテル)、エタノール、エチレングリコールの蒸気圧曲線を示します (水は燃焼しないので除外します)。横の点線は大気圧 (101.3 kPa = 1 atm) を表しており、縦の点線との交点がその物質の沸点 (蒸気圧が大気圧に一致する温度) となります。エチレングリコールは 100˚C でもかなり蒸気圧が低い一方で、エーテルは 20˚C で約 60 kPa と高い蒸気圧を示します。エーテルの沸点は 34.6˚C、引火点は –45˚C といずれも非常に低く、消防法上の危険物第4類の中で特に危険性の高い特殊引火物に分類されており、引火のおそれが非常に高い物質の一つです。その他、特殊引火物には二硫化炭素、アセトアルデヒド、n-ペンタン、2-メチル-2-ブテンなどがあります。いずれも引火点は –30˚C以下となっています。
図2 蒸気圧曲線
https://wisc.pb.unizin.org/minimisgenchem/chapter/vapor-pressure-m10q3/ より引用
代表的な有機溶剤の引火点を下表に列記します。有機系研究室で使用する溶剤のほとんどは 25˚C の室内で引火することが分かります。有機系の研究室が火気厳禁なのは、こういった溶剤の蒸気が常に滞留しており、引火の危険性が高いことが一つの要因です。なお、クロロホルムやジクロロメタンなどのハロゲン系溶剤には引火点が無く、実質的に不燃性です。
物質名 | 引火点 (˚C) |
ガソリン (炭素数 4~10 程度の炭化水素の混合物) | 概ね –40˚C 以下 |
n-ペンタン | -49˚C |
n-ヘキサン | –22˚C |
n-ヘプタン | –7˚C |
n-オクタン | 13˚C |
メタノール | 11˚C |
エタノール | 13˚C |
酢酸エチル | –4˚C |
アセトン | –20˚C |
トルエン | 4˚C |
ガソリンは、化学者以外にも簡単に購入可能な物質の中では最も低い引火点を持ちます。京都アニメーション放火事件ではガソリンが撒かれ甚大な被害をもたらしました。同じくガソリンスタンドで購入できる軽油や灯油の引火点はそれぞれ 40~70˚C、40~60˚C程度であり、サラダ油ほどではないですが常温では引火しません。これらの物質の違いは主成分によるものであり、ガソリンは炭素数 4~10 程度の低級炭化水素の混合物であるのに対し、灯油・軽油は炭素数 10~20 程度の炭化水素の混合物で、より引火点の高い物質から構成されています。
発火点
ここまで読んでいただくと、「サラダ油とか天ぷら油で火災が起こるのはなぜ?」と思うかもしれません。その場合、引火点ではなく発火点が重要ファクターとなります。発火点は、「物質が空気中で着火源なしに自然に発火する最低の液温」とされています。引火は火元が必要ですが、発火は温度上昇のみで自然に起こります。菜種油の主成分であるオレイン酸の沸点は360˚C(1)、発火点は 335˚C(2) とされており、加熱を続けていけばやがて沸騰する前に自然発火します。
実際の発火のようすは各自治体の消防庁などによって YouTube にたくさんアップされています。例として下の動画をご覧ください。適切な消火方法についても言及されていますので、ぜひ覚えておいてください。
さらにサラダ油などの怖い点は、加熱をしていなくても酸化熱で徐々に昇温していき、知らぬうちに自然発火してしまうおそれがあることです。油が酸化されやすいということは何となく耳にしたことがあると思います。その酸化に伴い、熱が蓄積し、やがて自然発火に至る事例が多数報告されています。詳しくは 参考サイト をご覧ください。
サラダ油などは故意に火をつけようとしても難しいですが、自然発火には充分気をつけてください。
そして有機系ラボの皆さんは、普段使用している溶媒の引火点や発火点を気にしながら実験してみてはいかがでしょうか。また業務上で有機溶剤を頻繁に使用している方は、ぜひ甲種危険物取扱者のテキストで勉強されることをオススメします。
参考文献
- “PhysProp” data were obtained from Syracuse Research Corporation of Syracuse, New York (US), SciFinderより。
- Huang, Z.: Lu, H.; Jiang, D.; Zeng, K.; Liu, B.; Zhang, J.; Wang, X.: “Combustion behaviors of a compression-ignition engine fuelled with diesel/methanol blends under various fuel delivery advance angles”, Bioresource Technology, 2004, 95, 331–341, DOI: 10.1016/j.biortech.2004.02.018