bergです。今回からは2回に分けて、量子化学の黎明期に有機化学の分子軌道論との橋渡しとしての役割を果たしたヒュッケル法(Hückel法)について詳しく見ていきます。
ヒュッケル法とは量子化学の初期に提案されたもっとも単純な分子軌道法のひとつで、発見者であるドイツの物理化学者、エーリヒ・ヒュッケル(Erich Armand Arthur Joseph Hückel)教授にちなんで名づけられたエポニムです。多彩な研究を精力的に行ったことでも知られ、ヒュッケル法、関連するヒュッケル則(Hückel則)にとどまらず、電解質溶液中のイオンの相互作用について統計力学を駆使して記述したデバイ-ヒュッケルの式(Debye–Hückel equation)にもその名を残しています。
ヒュッケル法(、および、それを応用してヘテロ原子を含む分子の議論を可能とした拡張ヒュッケル法)では必ずしも実態に即した結果が得られるわけではありませんが、分子軌道計算用のプログラムを使用せずに簡単な手計算のみで示唆に富んだ結果が得られることから今日でも大学の量子化学・物理化学でなじみ深い題材とされています。後年ウッドワード(Robert Barns Woodward)教授や福井謙一教授によって開発され、「化学反応に関する我々人類の理解を深めてゆくうえでの一里塚」としてノーベル化学賞に輝くこととなったフロンティア軌道論にも大きく寄与しています[1]。
量子化学の黎明
現代物理学の根幹として量子化学の基礎ともなっている量子力学は、オーストリアの物理学者、エルヴィン・シュレディンガー教授が1926年に導出したシュレディンガー方程式(Schrödinger equation)に端を発しています。
シュレディンガー方程式では系の状態(量子状態)が時間とともに逐次変化していく(シュレディンガー描像)ものとみなし、その解は波動関数を与えます。ただし量子化学においては、その対象となる原子や分子について電子を束縛するエネルギー場とみなし、電子そのものの運動ではなく空間ごとの存在確率(電子密度)に注目した方が便利な場合があります。そこで、シュレディンガー方程式を時間と空間について変数分離し、以下の時間に依存しないシュレディンガー方程式として取り扱うことが一般的です。
ここではハミルトニアン演算子、Ψは空間座標を変数とする波動関数、Eはエネルギー固有値を表します。すなわちこれは固有値方程式であり、波動関数は原子/分子軌道の定常状態、エネルギー固有値はその軌道準位のエネルギー値を表します。それぞれの固有状態は直交します。
量子力学の分野において、以上のシュレディンガー方程式はまさに原点にして頂点とも呼ぶべき極めて重要な式です。しかし、そんな完璧なシュレディンガー方程式にも、量子化学に応用する上で致命的な問題点を抱えていました。
…それは、解析的に解くことができない点です。シュレディンガー方程式は電子が1つしかない水素原子については厳密解を求めることができ、それゆえにs軌道からf軌道まで様々な軌道の形状が調べられています。しかしながら、原子核と電子の数が3つ(三体問題)以上の多体問題においては正確に解くことは不可能です。
解法がない以上、様々な仮定や近似を重ねてなるべく実態の分子に近い計算結果を出すことが求められます。量子化学はこうして様々な近似を導入することで発展してきました。
ヒュッケル法と実例
(注:以下、わかりやすくするため導出を省いている部分があります)
ヒュッケルは二重結合と単結合が交互に繰り返し現れるような構造を持ったπ共役系の有機分子について、次のような仮定をして近似計算を試みました。
①分子軌道を構成原子の原子軌道の重ね合わせと仮定(分子軌道近似)
②(エネルギー値の近い)p軌道以外の寄与を無視(π電子近似) ③分子軌道を原子軌道の線形結合として記述(LCAO近似 ; Linear Combination of Atomic Orbital) |
さて、さきほどの時間依存しないシュレディンガー方程式の両辺に左側から波動関数Ψの複素共役関数であるΨ*をかけると、
これを全範囲で積分すると、
よって、エネルギー固有値Eは以下のように書き下されます。
以下ではこの式を前提として議論していきます。
・エチレン(CH2=CH2)
π結合をもつもっとも単純な有機分子として、まずエチレンを例に考えていきましょう(共役系とはいわない気がしますが)。
エチレンは群論でいうところのD2h対称な分子であるため炭素原子に区別はないのですが、便宜的に1番、2番と連番しました。それぞれの炭素原子の原子軌道(p軌道)の波動関数をφ1、φ2とすると、分子軌道はその線形結合として近似するため
となります。これをさきほどのエネルギー固有値の式に代入して、
これをそのまま展開すると煩雑となるため、以下の文字を導入します。
・クーロン積分:α
・共鳴積分:β
・重なり積分
共鳴積分については、ほかの化合物の事例でも結合の有無によって値が規定されていると考えていただいて差し支えありません。
これらを用いて簡潔に展開すると、
軌道のエネルギーを最小とするc1、c2を求めるためにE=N/Dとおいて偏微分すると、
であるから、
同様に、
この非自明解は、
の行列式(永年方程式)を解くことで与えられます。
よって、エネルギー固有値の解は以下の2つとなります。
規格化条件の制約から、波動関数は
と表すことができます。
この結果の解釈としては、以下の図のように考えることができます。
同位相の原子軌道を重ねたHOMOと逆位相のLUMOがあり、そのエネルギーギャップが2βです。
エチレンをはじめアルケンは求電子試薬の攻撃を受けて付加反応を起こしやすいことで知られていますが、求電子試薬はエチレンのHOMOの電子密度が高くなる方向、すなわちπ平面に対して鉛直方向から接近し、反応します。なお、各原子上の電子密度は原子軌道にかかる係数の2乗に比例します。LUMOでは炭素原子の中間に節面があり、位相が逆転します。
また、π結合次数は隣接する原子の原子軌道にかかる係数の積に電子数をかけたものとして表現できるので、
となります。実際にはσ結合もあるため結合次数は2です。
全電子エネルギーEtotalも単純に求められ、2(α+β)となります。
なお、途中の解き方として、
と定義すると、任意のn次の永年方程式はxのn次方程式となるので簡単になります。この性質を用いて、以下ではもっと複雑な有機分子に着目していきましょう。
・アリル共役系
3炭素からなるアリル共役系(アリルアニオン、アリルラジカル、アリルカチオン)の場合、永年方程式は3次になります。
サラスの公式を用いて解くと
となります。さきほどと同様に規格化条件を用いると
として波動関数が求まります。
・シクロプロペニル共役系
一方、環の閉じたシクロプロパン骨格を有するシクロプロペニル共役系(シクロプロペニルアニオン、シクロプロペニルラジカル、シクロプロペニルカチオン)ではどうなるでしょうか。
永年方程式は以下のようになります。
これを解くと、
が得られます。
ここで重解が得られたことから、シクロプロペニル共役系の場合には縮退した2つの軌道があります。規格化条件のみではこれらの解が一意に定まらず、Ψ2とΨ3が直交することを利用してΨ2においてc3=0とする必要があります。これより、
が求められます。
まったく異なる形状の軌道が同じエネルギーというのもなんとも不思議ですよね。
この全電子エネルギーをアリルと比較すると、アニオンでは不安定化している一方でカチオン・ラジカルでは安定化されていることがわかります。
特にシクロプロペン誘導体から調製されるシクロプロペニルカチオンは極めて安定で、最小の芳香族化学種としても知られています。(→過去記事)
このように三員環構造の方が安定になるケースは水素原子のみで構成されたH3+(プロトン化水素分子)でもみられ、三中心二電子結合をもつ星間物質として比較的豊富に存在します。
・ブタジエン
さて、最小のポリエンともいえるブタジエンではどうなるでしょうか。
永年方程式は
ですので、これを地道に次数下げして解くと
となります。これより波動関数は
と求まります。
ブタジエンではπ共役のため、結合次数が構造式のような単結合や二重結合とはなりません。エチレンと同様に計算すると、π結合次数は
となり、π電子が非局在化していることがうかがえます。一方でπ電子密度は
ですべて同一です。
ブタジエンの結果をエチレンと比較すると、いくつか興味深い考察が得られます。
まず、ブタジエンがエチレン2分子よりも安定であることです。全電子エネルギーの差し引きにより、ブタジエンの方が
だけ安定化されていることがわかります。これが共鳴エネルギー(非局在化エネルギー)です。
また、HOMO-LUMOギャップエチレンの2βからブタジエンでは1.236βに減少していることも見逃せません。この傾向はさらにポリエンの鎖長(共役系)が長くなっても続き、UV-Visの吸収波長は長波長側へレッドシフトします(導出は割愛します)。
・シクロブタジエン
さて、ブタジエンの両端を環化させたシクロブタジエンは最小の反芳香族分子として知られています。
永年方程式は
となり、この解は
となります。重解に対しては直交条件を用いることで波動関数は
と求められます。
E=αの軌道が縮退しているため、基底状態が三重項となります。
ここで全電子エネルギーに注目すると、エチレン二分子の値よりも
も不安定化する結果となっています。そのため、シクロブタジエンは安定に存在できない反芳香族性を有する分子であり、依然としていくつかの誘導体が単離されるのみにとどまっています。
さて、シクロプロペニルカチオンやシクロブタジエンなどの環状共役系分子(平面・単環の場合)においては、ヒュッケル法を用いて求めたn員環のエネルギー固有値の解がE=αに中心を持つ半径2βの円(フロスト円)に内接する正n角形を用いて表されることが知られています。
Frost円を用いると、環状共役系が安定化される(芳香族性をもつ)のは、nを整数としてそのπ電子数が(4n+2)を満たすときであることが示されています。これをヒュッケル則と呼びます。逆に、π電子数が4n個のときは不安定化されて反芳香族性を持ちます。
非常に簡明なヒュッケル則ですが、欠点が皆無というわけではありません。たとえばシクロオクタテトラエン(π電子数8)は反芳香族性を持ちそうですが、不安定化を回避するために非平面の構造をとり、共役しない構造をとっています(非芳香族)。このように配座などの要因も絡むためにヒュッケル則は中員環・大員環のアヌレンにおいては必ずしも当てはまりません。
また、物理的にねじれた大員環ではp軌道の位相が逆転するため、行列式の最も右上と左下の項が-1となります。これを解くとヒュッケル則とは逆に、π電子数が4n個の時に安定化します。これをメビウス芳香族性と呼びます。(→過去記事)
・ベンゼン(C6H6)
芳香族分子の代表格、ベンゼン。π電子数は6で、先のヒュッケル則を満たします。永年方程式は6次となりますが、対称性が高いためきれいに展開できます。
これを解いて
また、
さすがにこれ以上複雑な分子について永年方程式を手計算で解いていくのはかなり無理がありそうですね。そこで、次回は特殊な計算科学ソフトウェアを使わずにMicrosoft Excel®のソルバー機能を用いて簡単に解を求める方法をご紹介します。得られた結果からナフタレン(C10H8)の反応性(なぜ低温ではα位上での置換が優先する?)や、フラーレン(C60)の電子構造にもせまっていきますのでお楽しみに!
関連書籍
[amazonjs asin=”4873613108″ locale=”JP” title=”現代化学の基礎”] [amazonjs asin=”4807906399″ locale=”JP” title=”量子化学―演習による基本の理解”] [amazonjs asin=”B000JA1UK0″ locale=”JP” title=”ヒュッケル分子軌道法―演習 (1973年)”]参考文献
[1] 稲垣 都士, 池田 博隆, 化学と教育, 2019, 67(1), p.28-31,https://doi.org/10.20665/kakyoshi.67.1_28
…フロンティア軌道論についての総説