Tshozoです。初夢は「この車ハイオクですか?ハイオクですか?」と連呼しながら古い国産車を運転する、という不思議なものでした。
前回のつづき、・・・の前に。
HeidelbergのCarl Bosch Museum前 Google Mapより引用
“Hochdruck Cafe(高圧カフェ)”?は10年前にはなかったはず
少し離れた高台からネッカー川名物のAlte Bruecke Hidelbergが綺麗に見えます
現在コロナ禍でCarl Bosch Museumも一時閉鎖となっていますが、その中でも同博物館はKlaus Tschira(独IT大手 SAP創業者)財団 創立25周年を祝ってBoschにゆかりのある品を25個紹介するWebイベントを行っています。一般にこうした品の所有権は企業や個人、他の博物館・資料館にあるため常設展示できない貴重なものが多く筆者にはどれも垂涎の的でしたが、特に天文学者でアインシュタインの共同研究者だったErwin Finlay Freundlichと協力し自宅(現在のVilla Bosch・非公開)の一角に口径300mmのカールツァイス製反射望遠鏡と天文台を設けていたことは非常に興味深いものでした(リンク)。この写真の建物側に写っている2人はBoschとFreundlichだそうで、さすがに望遠鏡までは製造できないにせよ天文学の超一流のプロを呼び寄せて自分ん家に300口径の反射望遠鏡を置くあたり本気度が並ではありません。
画質をかなり落として同博物館HPより引用(リンク)
よく見ると望遠鏡の横にBoschとFreundlichがいる
ついでに言うとBoschは冶金学と化学、化学工学はもちろん昆虫・鉱石採集を中心とした博物学、地質学、天文学を趣味としており、当時物理学の最先端であった相対論についても知見があったという話を以前同博物館のスタッフの方から聞きました。また1921年の例の事故以前には壮年期にめったなことで体調を崩すことはない頑健さで趣味の山歩きもガンガン行っていたようで、もう怖いもんナシ。生きてると1人くらいは見ますよね、いくら働いても酒飲んでも暴れても走っても倒れない何でもできる有能な無敵艦隊みたいな方。筆者がBoschと張り合えるとしたら辛うじて互角にできるのは珠算くらいなもんでしょうか。
終生天体観測は続けていたらしい 筆者がずいぶん前に現地で撮影
水素の大量合成と高純度化というデスロード
脱線しましたが本題。ようやく触媒と高圧リアクタを退治したBoschですが、実はこの2つは四天王の1、2番目くらいでした。まだ、現代であっても極めて手ごわいであろう、水素の大量合成・精製と高純度化が立ちはだかったのです。今回はその大量合成・精製のところ。
まず、アンモニアの主原料である水素の位置付けについてエネルギー経済的な観点から。この地球上で水素ガスを作ろうと思うと、①水に電力を与えるか、②地球の過去の遺産である石炭・石油・天然ガスを分解するか、③水を無理矢理熱分解するかくらいしかありません。③は不経済なので前の二つに絞ります。
水素を作るルートイメージ 以前の記事より再掲
まず①から。BASFは当時染料用にCl2を合成出来る電気分解プラントを持っていて、その副生水素をアンモニア試作用に使えたものの、安定で綺麗な電力は今も昔も作るのにかなり金がかかる。また当時は水電解用電極・隔膜技術が未発達で変換効率も低く、150トン/月レベルのアンモニアを満たす水素なぞ作れない。ということで電気分解は消えます。となると②化石燃料を使うしかない。石油は当時まだ大量に見つかっていない。天然ガスは当時はまだ冷却・貯蔵技術が無い。となるとドイツ国内で豊富にあり、比較的簡単に採れる石炭(正確には褐炭:Braunkohle)を使うしかないわけです。ということは下記の反応を滞りなく起こさなければならない。
石炭からの水素合成の反応式 こちらから引用
とにかくH2とCO2まで持っていければ勝ちで、
H2+COはいわゆる”Syngas”と言われ極めて工業的に重要な位置にある
つまり石炭をガス化して悪者となる不純物を除き高純度水素を作ってそれをある程度高圧にしてリアクターに吹き込むという中国雑技団的なことを、バッチ処理ではなく連続処理で行わなければならない。こんな恐ろしい可燃性の高圧ガスがやらかすと大事故になるので制御しなくてはならず、細かくコントロールするには中の状態がわからなければならない。となるとそれを定量値として示す計器類がいる。そんなものはこれまでに存在しないのでイチから作らなくてはいけない。
一つずつ挙げるとキリが無いので結論だけ申し上げますと、合計で1630個の記録装置付き流量計・圧力計・温度計、60個の記録装置付き分析器、2170箇所の温度指示計のこのプラントと共に作り上げたそうです。おそらくほとんどが自社設計。今までのプロセスはほとんどがバッチでお釜の中だけ見ればよかったのが全部フロー形式になるのでそれに合った専用の流量計とかもいる。こうした計器類はプラント費用の10%近くを占めたそうで、計器類の専属エンジニアが常時40人以上いたことを考えると金に糸目をつけずに人と物に投資していたことがうかがえます。ついでに書くとバルブとかシールとかも全部作らねばならない。当時はゴムはまだ未発達だったのでOリングはない。となると自動的にメタルシールとなるのですが腐食とかが進まないようなものを選ばないとダメなので素材選びから(以下略)
ただ、「このレベルの計器と部品とその数量をなんで触媒の見通しが立ってからたった3年半で作れるんだ?」・・・開発の端くれにいる人間ですがまず思うのはコレで、設計方針が合っていたとしても使用できるようになるまで半年かかる以上の難易度のものばかり。今のように通信技術も発達していないしCADとかがあるわけでもなく手書き製図から部品起こしが必要でおそらく何千枚レベルで設計図を早く書き上げて部品化することが必要になる。たとえうまく設計出来て並行で作ったとしても加工、組立、性能チェック、それらのプロフェッショナルが必要になる。もちろん信頼性の高い製品にするには高いレベルの金属原料と加工技術も必要になるわけでBASF単体の力ではどうしようもないケースもある。イメージですがたぶんアンモニアプラント立ち上げ部隊は多分整然とクロッキーが並んだところで昼夜問わず部品類などを作っていったのだと思いますがやっぱりそれでも3年半でやってるのはおかしい。というか以前書いた通りプロジェクト開始直後はBosch本人と工場リーダと作業員の3人しか居なかったのですよ?
最初の生産(1914年)から次に仕掛けたOppau工場の風景
上の写真は高圧ポンプ、下の写真は石炭ガス化連続炉
1918年でコレなのがもう驚愕すぎる [文献1]から引用
思うに、石炭の供給にしろこうした建築物にしろ、根幹にあるのはビスマルクによる「Blut und Eisen」に基づいた富国強兵・軍備増強政策でしょう。このプロイセン公国の拡大期に大砲やら銃弾やら鉄道やら兵器やらの高性能製鉄の技術をつくっていくうえで石炭は不可欠でしたし、できていった鉄道網は原料を絶やさず供給し、またそれに伴う大規模な鉄筋の建築物や部品類も大量に作れるようになっていました。こうした鉄鋼製造・関連技術の基礎になった会社と言えばKrupp社(現 Thyssenkrupp)で、BASFとは高圧リアクターの原料を供給する・形状を作るなどで密接に協力していたのですがこうした土台技術を構築してきた点でも化学工業を支えたということは歴史的経緯もふまえて重要な事実だと思います。
話を戻して。こうしたプラントを作っていく一方で石炭から大量に水素を作るプロセスを完成させなければならないのですが、それもテキトーな水素ではなく、精製したものをリアクタへ供給する必要がある。というのもMittasch達が作った鉄ーアルミーカリウム合金は一酸化炭素に容易に被毒され活性を失ってしまううえ、この合金、当時は作るのが難しく結構なお値段がかかり、一度仕掛けると高圧装置内のものなので簡単に交換できるものではない。つまり、一酸化炭素(と二酸化炭素)を原料の水素から取り除く必要がある。ここが水素供給最大の問題となりました。つまりは下図の→の高圧反応器の手前のところで徹底的に水素の純度を上げなければならない。
ここでBosch達は二段階のプロセスを考えます。まず、それなりの純度の水素を合成・精製出来るプロセスをつくる。そしてそれを高純度化するプロセスを開発する、というものです。そこで最初はLindeの深冷分離プラントを試しますがどうもうまくいかない。技術的に未成熟というのもあったのですが、深冷分離で純度を上げようとすると-200℃くらいまで下げなくてかつ大量の低温ガスを保温できなくてはいけないレベルであるのに対し、当時はまだカマリン・オネスによる複数断熱構造がやっと実験室レベルまでできた程度で、だいいちそこまで温度を下げるための昇圧エネルギーが膨大になってコストに合わない。
(左図)Lindeそのものではないが深冷分離プロセスの一例 ジュール=トムソン効果を利用した工業的によく使われるプロセス[文献2]
(右図)並行して検討した赤熱鉄による熱分解法プロセス 黒いところが多孔状の鉄でこれを赤熱させて水と反応させるもの[文献3]
蛇足ですが、Boschは相当苦しくてちょっと血迷ったのか、Anton Messerschmidt(戦闘機を作ったメッサーシュミットではない)という技術者が当時考え出した赤熱鉄に水蒸気を当てて水素を取り出すという、上記で言う③に相当するプロセスに手を出しています(上右図)。具体的に言うと赤熱した多孔質の純鉄に蒸気と水素ガスを繰り返し通して鉄⇔酸化鉄で水から酸素を分離させる、というものですが上記に書いた通り不経済極まりない(ちょっと考えればわかりますが、酸化鉄再生のために出てくる水素の少なくとも数倍以上の水素ガスが必要になる)。水素コストを度外視すればかなり高純度の水素が供給できるため、結構いける可能性はあったのですが熱力学的に不利なわけで、こういうものにも目が向いていたことから相当苦しい状況だったと推測されます。ただこうした問題にもひるまなかったのはBoschもBrunck両人ともにそのキャリアで数々の難題を解決してきたせいか、「技術の課題は技術で解決することができる」という確たる信念を引き継いでいたためではないでしょうか。
で、結局一段階目の水素合成・精製を解決したのはMittaschの同僚で、かのNernstの研究室からBASFに入社したDr. Willhelm Wildという社員でした。彼は水性ガスと水蒸気を酸化鉄触媒(一説には酸化亜鉛と混ぜたものとあります)に比較的低温で当てることで、高効率に水素と二酸化炭素に変換できることを見出しました。邪魔なCOの大部分を水を還元させる材料として用い、しかもその結果水素を効率的に取り出せるというエネルギー的にも重要な意義を持つこの反応(H2O+CO→H2+CO2)は現代でも重要な基本反応であり、当然その後のアンモニア合成のスケールアップに大きな突破口となります(四天王3番目)。Wildはその後あまり表舞台には出てきませんが、肥料や水素生成に関する特許にはチラホラ名前が残っていて戦後まで生きていたようです(下記BASFホームページ参照)ので化学者としては長く活躍していたのでしょう。なお例によって書籍「大気の錬金術」を見直すとこのWildは詳細には描かれていませんでした。おそらくページの都合かなにかで省いたのでしょうが、こうした重要な人物の記述を省いているのはちょっといただけないですね。
Dr. Wilhelm Wild(BASF ホームページより引用 こちら)
今回Webを調べていて初めて顔を知りました
カイゼル髭のせいでNernstに似てると言われればそう思わなくもない
ということで四天王の3番目だけでも結構なボリュームになってしまいました・・・今回はこんなところで。