アメリカでの PhD 課程の1年目には、多くの大学院の場合, 研究だけでなく、講義の受講やTAの義務が課せられます。この記事では カリフォルニア大学バークレー校(UC Berkeley)の化学科の大学院での講義の様子について、日記感覚で具体的にお話しします。
はじめに: PhD 課程の1年目を終えました
以前に kanako さんが、「アメリカの大学院で受ける授業」という記事で大学院での授業の様子をお話しされていました。その記事が投稿されたとき私は日本にいて、「授業、大変なんだなぁ」と記事を拝見していましたが、時間の流れは早いもので、2019年の秋に大学院に入学して、PhD学生としての最初の1年を終えてしまいました。というわけで今回の記事では、1年の振り返り記事として、私の所属するUCバークレーでの授業の様子をお話ししたいと思います。kanako さんはCaltechでの例をお話しされていましたが、大学が変わればスタイルも変わるので、大学間での違いにも注目していただければと思います。ただし記事冒頭に書いた通り個人の日記感覚なので、あくまでも「化学者のつぶやき」だと思ってお楽しみください。なお、UC バークレーの学部での授業の様子については、勝山さんの海外研究記で垣間見ることができるので併せてご参照ください。
UC バークレー化学科のPhD課程のコースワークは緩い?
UC バークレーの Chemistry PhD Program の合成化学専攻 (Synthetic Chemistry)[脚注1] の学生は、2年目終了までにレターグレード (A, B, C …) で成績がつけられる授業を 12単位分受講する必要があります (下図)。UC バークレーはセメスター制 (秋セメスター+春セメスター)なので、2年間で12単位のレターグレードを取得するには単純計算で各セメスターで3単位分のレターグレード式の講義を受講すればよい、ということになります[脚注2]。多くの講義は 3単位に相当するため、各セメスターで1つ講義を受講していればよいというゆったりした(?)スケジュールだと思われます。実際に学科の説明によると、「うちの大学では研究を重視してるから、他の学校と比べるとコースワークは軽めだよー」と言っていました。しかし実際には、「これで軽めなの?」 という疑問を常に抱きながらコースワークをこなしていました。
UC Berkeley の Synthetic Chemistry のPhDプログラムのざっくりしたスケジュール. 1, 2年生の間はTAやコースワークをしつつ, 研究をします. 2年目には, Graduate Research Seminar といって, 大きなホールに集まった聴衆を相手に30分程度の講演を行います. その後, PhD課程における最大の関門であるQualification Exam (通称 Qual) を受けます.
私が今年度に受講した科目は以下の通りです。
秋セメスター
Chem201 Fundamentals of Inorganic Chemistry
Chem250A Introduction to Bonding Theory
Chem295 Special Topic: Computational Quantum Chemistry: Theory and Practice
春セメスター
Chem208 Structure Analysis by X-Ray Diffraction
ではそれぞれどんな感じだったか具体的にお話ししたいと思います。
基礎無機化学シリーズ (Chem201, 250A)
これらは、無機化学を専門とする1年生のほとんど (今年度は20名程度?) が受講する、定番の講義になっています。記事の冒頭で、「UC バークレーはセメスター制 (およそ4ヶ月)」とお話ししましたが、このChem201 とChem250A は、それぞれ 4 週間程度しかない短期の連続講義になっています。具体的には、セメスターを3つモジュールに区切り、第一モジュールにChem201, 第二モジュールにChem250A, 第3モジュールにChem250Bが割り振われています。こうすることで、よりピンポイントで学習したい項目の講義だけを受講することもできるようになっています。
Chem201や250Aはセメスターのうちの1/3の長さしかありません.そのためそれぞれ1単位しかもらえません.
Chem201はいわゆる無機化学の基礎の復習で、原子の軌道の話から、結合理論の歴史と詳細な分子軌道法、そして錯体の反応性について学びます。Chem250Aでは分子の対称性や群論を基礎から学び、群論を利用して簡単な錯体の分子軌道図を定性的に組み立てられることを目標に、無機化学の知識をさらに深めます。Chem250Bは分光法を利用した錯体のキャラクタリゼーションなどについて学ぶことができます。
なおChem201とChem250AはJeffrey Long教授が担当していますが、今年度はChem250Bの講師がいらっしゃらなかったため、私たちの世代はChem250Bを受講できませんでした。
Chem201と250Aの講師であるJeffrey Long 教授. 学部時代に数学も専攻されていたという経歴もり, 群論の授業はきっちり数式をつかって議論します. 画像はこちらから引用.
この基礎無機化学シリーズでの思い出は、授業の進度の速さです。講義は1週間に2回でそれぞれ1時間しかありませんが、毎講義で次の講義までに何章を読んでくるように、と言い渡されるのです。 講義で教科書の全てをカバーできるわけではありませんでしたが、結局、 それぞれのモジュール (4週間)の間にA5ほどのサイズで500ページほどある教科書が一冊ずつ終わってしまいました。ちなみに、Chem201では教科書にDeKockとGrayのChemical Structure and Bondingを、Chem250A では Cotton のChemical Applications of Group Theory を利用しました。どちらも丁寧でわかりやすい教科書だと思います (記事の最後にAmazonのリンクを貼っておきました)。DeKock の教科書は、Stanford 大学出身のポスドクも PhD 学生時代に使用したとおっしゃっていました。
(左) Chem201の板書の一部. 直線上のAH2型分子の分子軌道を組み立てたあと, それが折れ線状分子(H2Oなど)になった場合に分子軌道のエネルギーがどう変化するかを定性的に説明しています. (右)Chem250Aの板書の一部. 指標表と大直行定理を使って,AH3型の分子の対称適合線形結合軌道 (通称SALC)を導いている様子.このあとのページで射影演算子を使ってSALCの形を実際に導いてます.
もう一つの思い出は毎週の課題です。等核原子分子や異核二原子分子、水やアンモニアといった単純な小分子の分子軌道だけでなく、四面体や八面体の金属錯体、直線型二配位錯体[1]、窒素固定で見かける窒素架橋二核錯体[2]や、車輪型二核錯体などなど様々な分子軌道図を書く訓練をしました。
群論を扱うChem 250Aでは、無機化学の教科書の巻末にある指標表を導出したり、そこから配位子の対称性適合線形結合軌道 (SALC) の概形をお絵かきする演習が課されました。これらは、今までブラックボックスのまま理解していた部分を、深く理解するために役立ちました。もちろん図を書くだけだと面白くないので、それらの錯体の性質を分子軌道図から説明する質問も課されており、総じて勉強になりました。ちなみにこれらの知識は Qualification Exam (通称 Qual)で必須の知識になっているようです、この授業を担当してくださったPhD3年生のTAさんによると、その方はQualで自分自身が合成している錯体の点群に関する指標表を導出したのちに分子軌道を書かされた、と苦笑いしていました。
点群C3vの指標表. 多くの化学の教科書は天下り的でブラックボックスのように使っていますが, 実際に導くと仕組みがよくわかります.
Chem295 合成化学者のための計算化学
この授業は特別講義 (Special topic) に指定されていて、毎年開講されるのではなく突発的に開講されものです。特別講義のテーマと講師は年によって違っており、2019 Fall は合成化学者のための計算化学を、バークレーが誇る計算化学者の Martin Head-Gordon 教授が教えてくださりました。計算化学の経験がなく不安はあったものの、計算を学ぶのに早いに越したことはないと思い、思い切って受講してみました。なお、他の受講生は、3年生以上の上級生ばかりで、1年生は私を含めて2人しかいませんでした (その理由は、この講義はレターグレードではなく可/不可で成績がつけられるため, 「2年生までにレターグレードで12単位」の要件にカウントされないからだと思われます)。
Chem295で計算化学を担当したMartin Head-Gordon 教授. 画像はこちらから引用.
この講義の特徴は、テストがない代わりに、自分自身で自身の研究テーマと関わりが深い分子の DFT 計算を自主的に行うことです。そして、セメスターの最後にはそのプロジェクトを 10ページ程度のレポートにまとめて、さらに10分程度のプレゼンをします。
Head-Gordon 教授による授業自体は、Hartree Fock 方程式の解釈の仕方などの量子化学の基礎理論から、よく利用される密度汎関数の特徴といった、実際に DFT 計算をするにあたって有益なお話しをしてくださいました。さらに、Head-Gordon グループが計算を行った実例についてもお話しされていました。
「合成化学者の計算化学」という前提とは裏腹に、講義を理解するのはとっても難しかったです。実際、もともとは20人ほどの受講者がいましたが、1,2ヶ月が経った頃には、ほとんどみなが授業を理解するのは諦めて授業には出席しなくなりました。最後まで講義に出席していたのは私を含めて6人くらいだけでした。私自身も出席して理解しようと努めたものの、半分程度しか理解できませんでした。とはいえ、ほんのわずかに理解できた部分はすごく面白かったです。例えばエネルギー分解分析 (Energy Decomposition Analysis: EDA)を利用すれば、非共有性結合 (ハロゲン結合や水素結合) において、2つのフラグメントの相互作用のどのような寄与 (静電相互作用, 分極作用, 電荷移動作用) が、どのような性質 (分子構造, 分子振動) に影響を与えるのかなどの知見を得ることができることに感動しました。[3,4]
水の二量体のポテンシャル表面を静電気的相互作用 (FRZ)だけで計算したもの (赤線)と, FRZに分極相互作用 (POL)を足したもの (緑) とFRZとPOLに電荷移動相互作用も足したもの (青). 図はこちらの論文から引用.3
肝心の計算プロジェクトについては、水素吸着についてのエネルギー分解分析(EDA)を計画しました。具体的には、M2(dobdc) と呼ばれる MOF の配位不飽和部位における水素吸着を、比較的小さいクラスターモデルを使って計算しようと試みました。しかし、M2(dobdc) は一次元に無限に金属部位が並ぶので、どこで MOFの構造を断片化すれば現実的なモデルになるかという問題があります。簡略化しすぎるとモデルの振る舞いが実際のMOFとかけ離れますが、かといって巨大なモデルを作ると計算コストが莫大になってしまうのです。最終的には、 いい感じに実験結果を再現できるクラスターモデルを作る段階でタイムオーバーとなってしまい、本来目的としていたEDAの結果を揃えることはできませんでした。研究に直接結びつけるまでの結果は得られなかったものの、1年生のこのタイミングで、この授業でDFT計算の実践技術を学んだことは今後の研究にとても活かせそうです。実際にCOVID-19で研究室が閉鎖して以降、 DFTを用いた理論計算で遊びながら、この講義でする予定だったプロジェクトを進めたり、全く新しい研究アイデアを発展させたりできました。
Chem208 X線回折による構造解析
バークレー化学科では比較的新しい教員である、Jon Rittle教授による講義です。この講義の前半では平面群や空間群の性質、回折条件 (reflection condition and systemetic absence condition)、国際結晶表 (International Table for Crystallography) の見方といった X線回折の土台になる知識を学び、後半では実際に Olex2を利用して結晶構造を解く演習を行いました。補足的な講義として、粉末X線回折、電子線回折、XASなどの関連技術についてもさわりだけ学びました。
Chem208の講師を務めたJon Rittle教授 (通称 JR). 画像はこちらから引用.
講義の最後には、自分の単結晶サンプルの回折データを測定して、ACS系のジャーナルに投稿可能なデータを得て (= CheckCif における level A alert を除き、取り除けなかった level B alert には注釈をつける)、得られた結晶構造についてプレゼンすることが最終課題として与えられました。ただし、COVID-19 の影響で、ほとんどの学生が自分自身で測定をすることができず、結局、TAさんや Rittle教授から個別に生データを渡されて、そのデータをもとに発表する、という流れになってしまいました。
この講義での思い出も毎週の課題です。講義の前半は空間群や回折条件に関する基礎知識の問題が課されて、講義の後半には Olex2 を利用した構造解析の問題が出されました。構造解析の課題において、ただ原子を帰属するだけ完結するデータは最初だけで、徐々に難易度が上がって、CF3 基やイソプロピル基の disorder が含まれるもの、溶媒のdisorder が含まれるもの (トルエンやクラウンエーテル)、金属-有機構造体、双晶などなど、実に様々な例に関して演習を行いました。それぞれの課題で CheckCif レポートを提出する必要があり、level A alertやlevel B alertが除けていなかった場合、遠慮なく減点されました。なので、私は毎週のように TA さんの Zoom によるオフィスアワーに出席して、テクニックを学びに行きました。さらに、この講義を受講していたLong 研の1年生の同期 6人で、提出期限の前日の夜に毎週 Zoom で会議をしてお互いに助けあっていました。ちなみに、この講義の課題で出されたのは、Rittle 教授がPhD学生時代に Jonas Peters 研で実際に結晶構造を解析した窒素錯体やその関連錯体の数々でした。[5,6]
とある週の宿題の一部. この宿題はクラウンエーテルの disorder の解析が厄介でした.
毎週の課題だけでなくて、最終課題も思い出深いです。私はMOFの結晶を作って、装置の予約までしていたものの、ちょうど測定予定だった日にキャンパスが閉鎖され、自分自身で測定することはできませんでした。 代わりに Yaghi 研の TA さんから MOF の回折データを渡され、その解析をすることになりました。構造を解いてからわかったことですが、それはこちらのScience 論文の生データの一部であったことがわかりました[7]。 この論文は結晶スポンジ法と似たような手法で、MOF 結晶の内部に有機分子を取り込ませるという内容です。しかしMOF のX線構造解析をしたことがある方なら共感していただけるかもしれませんが、合成後修飾 (post-synthetic modification) をした後の MOF の結晶構造は、 Occupancy が中途半端になっていたり、解析が厄介でした。最終的には報告されているデータとほぼ同じ構造が得られていたものの、輝かしい結果の裏の苦労を知ることができて、良い経験となりました。
この授業で習った教訓は、「報告されている結晶構造は全てモデルである」ということです。つまりX線構造解析は電子密度による回折を観測しているわけで、原子を観測しているわけではないのです。実際に、一度報告された結晶構造が訂正された例などもお話ししていただき、どういった場面でX線構造解析が科学者をミスリードするか、ということを学びました。[8]
まとめ
「コースワークの要件は軽め」という言葉とは裏腹に、私はこの一年はコースワークに多くの労力を費やしていました。留学生には言語のハンデがあるので、読み物をするにも書き物をするにも、プレゼンの練習発表をするにもネイティブの倍以上の労力がかかります。くわえてアメリカでの大学の風土に慣れていないことを考えるならば、”軽めのコースワーク”に苦労して当然だったかもしれません。それでも、労力をかける価値がある宿題を課され、鍛えてもらったように思います。特に、DFT 計算とX線の授業では、研究に使える技術を実践しながら学べて、論文として投稿可能なデータに仕上げる練習をできたことが大変うれしかったです。また無機化学の基礎的な授業では錯体の結合の理論をしっかり学べたので、分子軌道の理論にもとづいて錯体や分子の性質を考える訓練ができました。本記事のタイトルに「大学院生になっても宿題に追われるってどないなんだが?」とkemioさん風に問いかけていますが、それに対する答えは「研究者としての基礎固めに必須の教育だった」ということになるでしょう。
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脚注
- UC バークレーの Chemistry PhD 課程は厳密に分けるとSynthetic Chemistry, Physical Chemistry, Chemical Biology の3分野があります。それぞれの分野によって、やや卒業要件やスケジュールが違っています。
- 「レターグレード式の講義」とわざわざ一言たしているのは、バークレーの化学科では伝統的な講義の他に、毎週開催のセミナーやTA, 研究でも単位を得られるからです。その理由は、ビザの条件である full time student になるためには毎セメスター 12 単位を受講している必要があるからです。ただし12単位分の伝統的な講義を受けるのは大学院生にとって現実的でないので、単位を研究の単位などで調整するわけです。
参考文献
- Laplaza, C. E.; Cummins, C. C. Science 1995, 268, 861. DOI: 10.1126/science.268.5212.861
- Zadrozny, J. M.; Xiao, D. J.; Long, J. R.; Atanasov, M.; Neese, F.; Grandjean, F.; Long, G. J. Inorg. Chem. 2013, 52, 13123. DOI: 10.1021/ic402013n
- Mao Y.; Horn P.R.; Head-Gordon M. Physical Chemistry Chemical Physics 2017, 19, 5944-5958, 10.1039/C6CP08039A
- Loipersberger, M.; Mao, Y.; Head-Gordon, M. Journal of Chemical Theory and Computation 2020, 16, 1073–1089. DOI: 10.1021/acs.jctc.9b01168
- Rittle, J.; Peters, J. C; Angew. Chem. Int. Ed., 2016, 55, 12262. DOI 10.1002/anie.201606366
- Rittle, J.; Peters, J. C.; J. Am. Chem. Soc., 2016, 138, 4243. DOI:10.1021/jacs.6b01230
- S. Lee, E. Kapustin, O. M. Yaghi, Science, 2016, 353, 808. DOI: 10.1126/science.aaf9135
- O’Halloran, K. P.; Zhao, C.; Ando, N. S.; Schultz, A. J.; Koetzle, T. F.; Piccoli, P. M. B.; Hedman, B.; Hodgson, K. O.; Bobyr, E.; Kirk, M. L.; Knottenbelt, S.; Depperman, E. C.; Stein, B.; Anderson, T. M.; Cao, R.; Geletii, Y. V.; Hardcastle, K. I.; Musaev, D. G.; Neiwert, W. A.; Fang, X.; Morokuma, K.; Wu, S.; Kögerler, P.; Hill, C. L. Inorg. Chem. 2012, 51, 7025. DOI: 10.1021/ic2008914.