Tshozoです。だいぶ間が空いてしまいましたが訳すべき文章量が多すぎて泣きそうになっていたためです。
前回はBoschがBASFに入ってからどういうキャリアを歩んでいたかと何の開発を経験したかを書きましたが、今回は前半の大きな山場、(1)触媒探索について見ていきます。(2)産業界との連携(3)高圧リアクターの実現(4)水性ガスの難関突破、は次回以降に。これも含めて関連人物のサイドストーリーもはさんで全体で20回くらいになりそうなのですがもうやるしかありません。
【Haberとの出会いと研究開発の開始】
最初に申し上げておきますが、実はBoschとHaberは親しい友人関係ではありませんでした。筆者が高校生の時は「Haber-Bosch法なんだからお互いが協力して作ったに違いない、そこにはきっと強い友情があったはずだ」とか妄想していましたが大間違い。Boschが内向的だったのもあるのでしょうけども、本書(“Im Banne der Chemie; Carl Bosch Leben und Werk”)に基づくとHaberからのBASFへの共同研究申し入れ以降、BASFで後述する触媒探索に成功した直後と特許の折衝を含む数回しか面を合わせた記述がなく、あとは晩年のある出来事を除くと「研究上の付き合い」のみだったようです。
このためBASFがHaberから技術を買ってプロジェクトを開始して以降はほぼ100%、Boschがその剛腕で仕切って進めたと思って頂ければよいかと。もちろん史上初めて高温高圧でアンモニアを合成したHaberの偉大なる点は言うに及びませんし化学熱力学の正しい理解とその応用が可能である事を示した面、後にカイザーウィルヘルム研究所を率いることになる統率力を誇った実務面、多数の優秀な科学者を育てた教育面ということを考えるとドイツの化学界における貢献は巨大だったのですけど。
ということで二人が一緒に映ってる写真が無いか、Webはもちろん図書館とかも周って知人も頼って色々探したのですけれども全く見つかりませんでして、その代りに見つかったのは下のHaberとEinsteinが一緒に映ってるものくらいでした。特に人生の壮年期においてBoschが誰かと一緒に映ってる写真で公になっているものがほとんど無いんで、基本的に人嫌いだったんだろうなという気がします。
[文献1]より引用 同じユダヤ人ということもあって仲は良かった
EinsteinはHaberの後妻さんの趣味が悪いということに苦言を呈することもあったとか
別にビジネスライクな付き合いだけに留まっていることをどうこう言うつもりはないのですがこういうところは文化としてあまり感傷的にならないのかもしれません。朝永振一郎教授の有名なエッセイ「暗い日の感想」にも偉大なる物理学者ウェルナー・ハイゼンベルグの感傷的でない、一見ドライなようにもみえてしまう面を見た時の驚きが書かれていましたが、こりゃ文化や民族で違うもんですから仕方ないですよね。ということで本件以降、Haberはあんまり出てきませんのであしからず。
【当時のBASFの様子】
さて前回少し触れたとおりBASFトップのBrunckから無制限小切手をもらったレベルのバックアップを約束されたBoschですが、生半可に一人でやってちゃ埒が明かないので研究活動の場と優秀なスタッフを必要とするわけです。会長直下のプロジェクトなんですからそりゃ関係者こぞって参加・・・しませんでした実は。
このころBASFは新興化学メーカとしてかなりの位置にいて、Bayer, Hoechst, Agfaといった国内競合に加えて勢力を伸ばしてきていた英国メーカとの競争が激しくなっていたにせよ、染料以外にもフタル酸、硫酸などの無機酸をもとにした基礎化学品で儲けており、リスクが高い研究活動には社員もあまり乗ってこない状況でした。それを示す例として名著”大気の錬金術”のエピソードにもありましたようにBoschがまだフタル酸合成プラントで現場合成に汗だくでトライにあたっていた時のこと、当時の上司であるEugen Sapperの知り合いに言われたのが
“Mein lieber Mann, wenn du denkst, mit solchen Maetzchen koenntest du bei der Badischen etwas werden, dann taeuschst du dich ganz gewaltig!”
([意訳]キミィ、そんなガキっぽいことやってBASFの一員になろうって考えてるならそりゃ大間違いだぞ!)
このようにこの時点(~1903年前後)でBASFの社内文化を示す”Badische”という言葉は工場現場でガチャガチャやるような泥臭いことから離れていたことになり、いい意味で階層化してシステマチックに、悪い意味で言えば官僚化しつつあったわけです。博士号をとって化学企業で花形の研究者になると言えば当時のドイツではおそらく相当なエリートだったわけで、バクチのような開発に足を突っ込んでキャリアをフイにしようという物好きは少なくなっていたのかもしれません。そもそもいくらBrunckが指示したとはいえ当時30歳半ばの若造だったBoschがリーダを張る、という点に気に入らない人もいたでしょう。
ということで1909年の夏に華々しいプロジェクトスタートを迎えたと思いきや、Boschは工場横の掘っ立て小屋で大小一つずつの旋盤とボール盤(ドリル穴つくる加工機)と少々の工具、職長・旋盤工・若い組立員のスタッフ3人だけを従えて人類史に誇る大仕事を始めることになります。
34歳前後のBoschの貴重な写真[文献2]
ナントカ組の若頭とか言われても信じれる迫力
しかし人数が少ないからと立ち止まっているわけにはいきません。自身は合成プラント、特にリアクター周辺設計に着手し、その一方で最大の懸案であったと思われた触媒の探索リーダとしてMittaschを、大型部品類の設計に金属の扱いに長けたLappeを、実験高速化にSternを、計測器の高性能化Gmelinを、その他Fahrenhorst、Keller、Wildといった優秀な若者ドクターたちを次々に引きずり込み、現場には昔からの顔なじみの親方Julius Kranzを充ててガンガン指示を出していきます(少し話が前後しますが既にこのころから色々な職場から反感を買っていました)。
引きずり込まれたMittasch[文献3]
酸化物経由の窒素固定プロジェクトで一緒にBoschと働いていたため面識はあった
このあと極めて重要な触媒を次々と見出すことになる
その経緯でHaberとRossignolが作った装置では触媒交換に相当な手間がかかることがわかっていたため、上記のDr. Georg Stern、当時25歳の若手に装置をつくらせ、触媒サンプルをポコっと容易に交換できるようにして探索サイクルを大幅に上げていきました。こういうことはこの研究開発を通じてずーっと行われ、Boschが活動の全体像を把握して、そのボトルネックが何であるかを如何に理解していたかを如実に示すものでしょう。
当時Sternが作った小型リアクタ[一番右側・文献4]
Haberの作っていたものに比べると非常にシンプル
残念ながらStern本人の写真は見つかりませんでした
上記の装置の断面 ものすごくシンプルにできている
ノーベル賞の講演記録[文献5]より引用
なお研究場発足当時のBoschの口癖は「こりゃ何十億マルクに化けるだぞ!(Es geht um Milliardenwerte!)」で、ソフトバンクの孫会長が創業当時の従業員数人に向かって「ウチは世界一の会社になるんだ!」と言って憚らなかったという点となんかよく似ている気がします。
(1)触媒探索の詳細
オスミウムとウランでの追試に成功したBoschたちは上のように実験効率を上げた小型リアクターを作るのと並行でいきなり大型リアクター(長さ100cm、直径70cm)をつくって大枚はたいてAuer社(現Osram社)から買った[文献4]金属オスミウムを詰め込んでぶん回そうとするのですが、思わぬ問題が発生します。
“Die Versuche fanden sehr Schnell ein ganz unerwartetes Ende…. einige Stunden in Betrieb hatten, erfolgte eine Explosion, erfreulicherweise ohne weitere schaedliche Wirkungen, da wir als vorsichtige Leute alles in einem eigens zu diesem Zweck gebauten Betonunterstand untergebracht hatten.
要旨:「最初の実験で(ガスを加熱・昇圧して)数時間経ったらリアクターが爆発しちまった」「危ないからその後コンクリートの避難所作った」
“Die Erfahrung war aber in anderer Weise sehr betrueblich. Es zeigte sich , dass das Rohr in der kurzen Zeit sich voellig in seiner Struktur ver aendert hatte. Es war hart and sproede geworden wie Gusseisen, war von einer Unzahr von Laengsrissen durchzogen, kurz, eshatte seine Zugfestigkeit voellig verloren un war deshalb in der Laengrichtung aufgeplatzt.”
要旨:「もう一つ困ったことが起きて、リアクタ内側の鉄が変質して鋳鉄みたいにかたく、脆くなってしまっただ」
これがBoschたちが開発初期に直面した大問題の1つでした。この解決は次回以降の(3)に譲るとしまして、中に入れていた大量の金属Osが酸化してダメになり、お財布にもダメージを食うのですが、こんな高価で毒性も高いものを毎回ダメにしてしまってはどうにもたまらん。ということで安価な材料使ってなんとかせい、という指令がMittaschに下ります。その際の方針としては以前描いたように”Sieh mal hier das Eisen, was darin steckt!“(「まず鉄から始めろ、何かあるに違いないから!」)という大雑把なもの。しかし司令官たるものこういうレベルでいいのかもしれません、軍隊でいうと将軍が戦場で細かい指示を出しまくってたらそれこそどこかの知事のように害悪ファーストみたいになってしまうでしょうから。
それにBoschはこのひとつ前の酸化物経由での窒素固定手法開発で発揮されたシステマチックに材料を調べ上げるMittaschの能力を高く評価しており、方針を決める以外の全権を委任していたに等しい状況でした(その他の課題も山積みでしたから個別トライに細かく入る余裕は無かったでしょうけど)。また実はMittaschも根拠は無いけれども鉄周辺に何かあると見ており、Boschと意思が一致していたというのも大きなポイントであったと思われます。
ちなみにこの時点でBoschは「HaberもNernstも鉄(Eisen)は試したものの両者とも成果は得られずじまい」と把握していたのですが敢えて鉄を、しかも他元素との混合粉末での活性を調べることから始めさせました。当初はちょっと加熱するだけで容易に赤熱してしまい、平衡が分解側へ進んでせっかく入れたアンモニアがパーになるというところからのスタートでした。しばらくパッとした成果が出てこず、模索の日々が続きます。上記のStern製反応管を何十本も並べてコンビナ気味に進めていったのもこのころです。
転機になったのは1909年の秋にBoschが見つけた、ドイツの製薬・化学会社Schering(のちのシェリング-プラウの片割れ)が出していた1個の特許。植物類から採れる竜脳(Borneol)から樟脳(Kampfer)を合成するのにニッケルに加えてアルカリ金属系塩を入れてやると脱水素化が効率的に進む、というものでした。有機合成の分野の特許であるのに加え水素化どころか脱水素化を促進する作用を促すこの物質に何故Boschが注目したのかまったく理解できませんが、とにかくのちにこのことを振り返ったBoschのコメントによると
“Das Patent duertfe vielleicht ein Licht auf die verschiedene Wirkung der NH3-Katalysatoren werfen.”
「この特許が、アンモニアの様々な触媒作用を明らかにするための1つの光明となった」
というのですから天賦の才というのはやっぱり理解しがたいものがあります。手当たり次第やってたうちのひとつが当たっただけじゃ、という気もしますがきっとBoschの頭の中で何かがつながったのでしょう。こういう「ハタから見ていてなんでかわからん」というのを本当の創発というのでしょうね。
そのScheringからの関連特許[文献6] 本文が読めないのでフロントページのみですが・・・
たしかに請求項第1項にアルカリ金属に関する記載がある
Isoborneol→BorneolのものでKampferを合成するものではないが類似のもの
いっぽうMittaschは最初Crocus Martisという酸化鉄系ベンガラ染料の一種にターゲットを絞ってボチボチの結果を出していたものの、Boschが求めるようなレベルにはなかなか達しません。そんな探索からわずか半年たったある日のことついに候補となりうる材料を見つけ出します。それが、スウェーデン産の磁鉄鉱(基本組成はやはり酸化鉄)でした。ただ、この発見のあともおなじ酸化鉄のはずなのにサンプルを変えると全く性能が出なくなる。こりゃどういうことかをMittaschは考えぬき、結局材料の品質≒純度が問題ではないのかという仮説に至ります。
そこでベルリンに本社のあった同じく化学会社のC.A.F. Kaulbaum(もともとアルコール飲料を作っていたサッポロとかのようなメーカなのに、なぜ鉱石類を扱うようになったかは不明)にお願いをして、当時同社でしかつくれなかった高純度の鉄を作ってもらいます。価格はこの時点ではなんと銀よりも高いという凄まじさ。しかしこの純鉄をベースに触媒作用を見ていったところ、ようやく添加物の効果が紐解けるようになったのです。つまりアルミナ、マグネシウムは鉄の触媒作用を非常に強めるが、Scheringの特許に書いてあったアルカリ金属やアルカリ土類金属の効果はボチボチ。いっぽう銅やマンガンはまったく変化が無い。こうしたことが半年間苦しんで、ようやっとわかるようになったのです。その結果開発が始まった次年の1910年1月には、遂にはウラン、オスミウムを追い抜かすことに成功しました。さすがにHaberもこれにはたまげてすぐその1月中にBASFの作業場を訪れ、最大級の賛辞を送っています。最終的にはよく知られる鉄(触媒)、アルミナ(担持体/鉄のシンタリング防止)、酸化カリウム(電子供与体)の黄金レシピに至ったわけですが、実験のかなり初期で見つけたこの混合触媒の触媒活性はその後の20000通りにも及ぶ検討を以てしても追い越されることはなかったのが非常に興味深い点です。
またこの探索の中で周期表の上から三段目の元素類(Na-Arのところ)の一部、つまりP、S、Clの元素が触媒活性を著しく落とすことが判明しました。現在では被毒と呼ばれる現象であり、これを高効率かつ高精密に取り除ける脱硫装置の開発へとつながるわけですね。こうしたノウハウは他のプロセスや製品のための触媒を見出すのに非常に有効となり、BASFの底力の1つとなっていきます。
ハイデルベルグのBosch Museum(リンク)に飾ってあった
Mittaschらによる触媒サンプルモデル まだ彼らについて
ほとんど何も理解していない時期に行って無邪気に撮影してきました
このあたりの裏話としては、Haberは実験に使うオスミウムとウランなどの希少金属類を前述のAuer社から買っており、また同社の顧問も務めていてズブズブの関係にあったことがわかっています。んで、カールスルーエに来たBrunckとBoschに対し「ウランとオスミウム、Auerから買っといた方がいいよ」と勧めていて[文献4]なかなかの策士であることがうかがえます。もちろん上記の鉄触媒の発見によりもう購入する必要はなくなったうえ、Haberも「学術的な知見から素晴らしい効果だ、実は純鉄はOstwaldが以前かなりの高純度での実験をしていたのに見抜けなかったんだよ」と述べるなど驚きを隠せなかったような手紙が残っています[同書]が、もしかしたら希少金属でひともうけできなかったことがわかって少しほぞを噛んでいたかもしれませんね。
・・・ということで今回はこんなところで。この項目だけでも十分ノーベル賞級だと思うのですが、次回以降はいよいよもっと大きい課題であった(2)(3)(4)の解決ステップの詳細をみます。
→ “その6“へ
【参考文献】
- “Leben und Werk eines umstrittenen WissenschaftlersFritz Haber und der „Krieg der Chemiker“”, Bretislav Friedrich, Max Planck Gesellschaft, 2011, リンク
- “Chemistry Background Books”, Ludwig Fritz Haber, 1967, Penguin Books Ltd
- “Ansprache zur Walter-Hieber-Gastprofessur 1989 (Prof. Seebach) am 23.05.1989”, Wolfgang A. Herrmann, リンク
- “Nitrogen Capture: The Growth of an International Industry (1900–1940)”, Anthony S. Travis, Springer, リンク
- “The development of the chemical high pressure method during the establishment of the new ammonia industry”, 1932, Carl Bosch, Nobel Prize Lecture, リンク
- “Fortschritte der Teerfarbenfabrikation und verwandter Industriezweige; An der Hand der systematisch geordneten und mit kritischen Anmerkungen versehenen Deutschen Reichs-Patente”, Springer, リンク