Tshozoです。「ま た お ま え か」と言われるかもしれませんが前回、前々回のあとがき代わりにもう1トピックだけ。
【ゴナドトロピン ~ある意味本当の「聖なる水」~】
前回の最後あたりにプレグニール(Pregnyl /有効成分正式名:ゴナドトロピン)という薬に少し触れたのですが、閉経後婦人尿のみに含まれるタンパク質(オランダ製)が由来である、と自分で書いてながら心にひっかかり、何故そういうアレがソレできたのか興味が湧いてきたためさらに調査しました。興味の源泉としては2点あり、1点目はどういう経緯で商売モデルが成り立ち得るのかのしくみ、2点目は集めていた関係者の心の根源とその動機にそれぞれ興味があったためです。
なお発端としてはある方がTwitter上で「修道院であつめていたらしい」ということをコメント頂いていたことが突破口となりました。そこでその言葉をキーに調査を続けましたところ、[文献1]にみられるように実際修道院で集めていたらしいという記載がみられ、その材料名経由で欧州の2つの医薬品会社”Organon:オランダ・現メルク傘下”と、”Serono:イタリアの地場製薬会社・現メルクセローノ”がこの製剤化と販売を世界に先駆けていたことが明らかになりました。残念ながらOrganonの方は不明な点が多かったのですが、Seronoの方は収集の詳細が英文経由でも明らかになったため、それを手掛かりに同医薬品がどういう歴史的経緯を辿っていたかを調べました。
メルクセローノ ロゴと2014年時点の担当領域[文献3]
アメリカではEMD Seronoというらしい
Merckブランドで売ってるのはPregnylだがSeronoブランドではOvidrelという名前
医薬品としてはやや古く、第一世代のものになる(成分:ゴナドトロピン LH)
結論を書いてしまうと[文献2よりほぼ全文引用]、
…当時の研究者(1940年前後・詳細後述)は、閉経期の女性の尿にゴナドトロピンという物質が含まれていることを発見し、この物質を利用して不妊治療薬を開発した。 この薬の生産に十分足りるだけの「原料」を確保するため、セロノはイタリアの修道院(修道女)から何百万(?)リットルという尿を何年にも渡って調達し続けた。もちろん、バチカン王国の同意を得た上で。こうしてセロノは、神に貞潔を捧げた修道女の協力のおかげで、女性用不妊治療薬を早い時期に商品化することができたのである。
数値的に何百万リットルというのはちょっと疑問が残り、誤訳かなにかの気がしないでもないです。ですが修道院(オランダ製ではなくバチカン製)で集めたということはどうも正しく実際[文献4, 5, 6]にもそうした記述はみられ、与太話ではなく確実視してよい情報であることがわかりました。しかし修道院から、しかもローマ法王おひざ元のバチカンでそれを収集するということについてはいくら思考の劇しい西洋といえども相当な抵抗があるはず。一体どのような発端だったのか。
この発端について[文献5, 6, 7, 8, 9]をよく読み込んでみると”Pierro Donini”(Seronoの前身 Cesare Serono所属の化学者・詳細不明)が1940年代、WWⅡの直後にゴナドトロピン(正確にはFSHとLHのみだった模様・文献4)というホルモンをヒト尿中から発見したことがきっかけでした。しかしこの時点では用途もなんもわからん材料だったうえ、大量の尿が簡単には集められん、ということで頓挫してしまったようです。
Gonadtropin グループの代表格 FSHの構造
(Follicle-stimulating hormone)(引用:wiki)
正確にはゴナドトロピンは4つの蛋白質 hCG, FSH, LH, eCGを含むらしい
詳細は[文献10]を見て頂いたほうが早い
しかしその10年後、Bruno Lunenfeldというイスラエルからジュネーブに修業に来ていた学生が、「(大意)ホロコーストによって減ってしまったユダヤ民の数を増やしたい」(but what led me to the research was my desire to find a cure for infertility. It was a Zionist thing. I kept thinking to myself that the Jewish people had lost so many people and that the maximum had to be done for internal immigration, in other words – to increase the number of babies born.” )[文献9]という壮大なシオニスト的発想に基づき大学にて上記と同様の研究を再開します。
本件の実質的な主人公”Bruno Lunenfeld”氏(こちらより引用)
不妊治療薬の第一人者でまだご存命・ユダヤ系です
そして研究が色々と発展した時点(1960年前後)でSeronoに共同研究と製剤化の相談を持ち込むのですが、その検討に必要な『閉経期の女性の尿 毎日400人分』というのがやはり尋常ではありませんでした。そのため同社の社長に「ウチは小便工場じゃねぇ、製薬会社だ(意訳)」とやんわりと断られてしまいます[文献9]。
しかしその執念に絆されてか、社長のとりはからいで当時のローマ法王ピウス12世の甥で同社の取締役会の一員であったGiulio Pacelliという貴族(?)との面会が叶いプレゼンを同様に行ったところ、
“My uncle, Pope Pius, has decided to help us and to ask the nuns in the old-age home to collect urine daily for a sacred cause.”
「(大意)日々の聖なる行為のため、老年の修道女の尿を集めるのに協力することを法王様は許可してくださった」
と、最終的に共同研究と尿の収集を許可してくれたのです[文献4,5,9]。
社長が言ったことが一介の役員の決断で覆る、というのもなんとも不思議な印象を受けますが、これにはバチカン(ローマ教会総本山、つまりはローマ法王)が同社の結構な量の株式(25%)を所有しており、同教会の意思決定が大きく影響する企業であったことがかなり大きな要因として挙げられるでしょう。余談ですが「聖なる行為」であるから開発を実施する、というのは企業が利益のみならず社会的責任をも追及するという点を実践していることから、実はかなり将来を先取りした経営判断だったのではないでしょうか。
ともかくそこからでっかいタンクを積んだトラックがSeronoと修道院を毎日毎日往復することになり、Seronoは早くも1961年に「Pergonal」として販売。Lunenfeldが実際にイスラエルで帰還民のひとりにこの薬を投薬したところ、元々絶対に子供が出来ないと診断されていたはずなのに妊娠・出産までこぎつけることに成功しました[文献9]。しかも再現性(他の女性にも有効性が確認された)もとれ、Seronoは一躍不妊治療薬のリーダ企業として躍り出ることになります。
Pergonal (FSH)外観 [文献8]から引用
その一方で1980年前後に競合であったヒト死体の下垂体からの抽出によるゴナドトロピン製剤がクロイツフェルト・ヤコブ病を引き起こした問題を始め、ヒト由来製剤の感染リスクの問題点が徐々に明らかとなっていったのは前回も書いたとおりです。そのため前回書いたエリスロポエチンと同様に、遺伝子組換え細胞を用いた蛋白質製造技術によってFSHの類似蛋白質を合成するルートを各社が競って開発し、その結果Serono社が1995年に遺伝子組み換えチャイニーズハムスター卵細胞によるFSH製剤(製品名:ゴナールエフ Gonal-f)合成に成功したのを皮切りに、様々な非ヒト尿由来ゴナドトロピン製剤が開発されるようになりました。最近では2018年にイスラエルのBio-Technology Generalが実現した遺伝子組み換え技術による妊娠確率を上げたFSH製剤の成功などもあるため、ヒト尿由来の製剤は徐々になくなっていくものと思われます[文献5]。
ということでSeronoが尿からのホルモン材料発見と分離方法、そして製剤化を確立したのはおそらくは歴史的に一番早期のヒト尿由来製剤であり、このおかげでヒト尿から前回・前々回述べたような材料を色々と分離して医薬品に仕立てるという商売モデルが実証されたと言ってよいでしょう。またそれを元に様々な企業が発展するとともにヒト由来に頼らないバイオ医薬品の製造技術が進歩し特長のある製薬企業が巣立っていったことを考えると、筆者の邪な動機はさておきこのゴナドトロピンの発見と医薬品化はバイオ医薬品の非常に重要な出発点であり、Seronoはその路を拓いたモデル企業だったのではないかと思われるのです(実際前回・前々回採り上げたJCRファーマ殿もそうした歴史を歩んでいる)。
そういう意味では一連のヒト尿由来の不妊治療薬は「法王から許された聖なる医薬品」と言ってもいいのではないでしょうか。明鏡止水的な視点でみてみると”Holy Water”とした[文献4]の記事タイトルもそれなりの意義があるのかもしれません。たぶん完全に狙っているとは思いますが聖なる心で見ればそうではないはずです。もちろんヒト尿由来製剤は減少傾向にあり最終的には消滅すると思われるのですが、その発見の経緯や関係者の動機、そして経営判断と産業発展の歴史はきちんと記憶しておく必要があるのではないでしょうか。
しかしまぁ調べ出した時点ではまさかヒト尿由来ホルモンの応用の根源がホロコーストに関係していたなんざ予想もしませんでした。もともと筆者の個人的興味のみで調べていたのですが、色々追求すれば思いもかけないことにぶつかるもんですね。動機の純不純にかかわらずこういうトピックは今後も続けていきたいもんです。
ということで今回はこんなところで。
[参考文献]
- “医薬品原材料としての生物由来物質の現状”, 絵野沢 伸, 国立成育医療センター研究所 リンク
- “エルネスト・ベルタレリ氏 — 順風満帆の億万長者”, swissinfo.ch, リンク
- “Merck Serono Co., Ltd.” , Sept 24, 2013, リンク
- “HOLY WATER: The strange story of a fertility drug made with the Pope’s blessing and gallons of nun urine”, Quartz, 2016, リンク
- “From Menopausal Nuns to Israeli Biotech:”, Biospace, 2018, リンク
- “Management of Infertility: Past, Present and Future(from a personal perspective)”, Bruno Lunenfeld, 2013 リンク
- “Gonadotropin stimulation: past, present and future”, Bruno Lunenfeld, リンク
- “A profile of Bruno Lunenfeld, MD, FRCOG, FACOG (hon)”, American Journal of Obstetrics&Gynecology, SEPTEMBER 2018, リンク
- “The God Father” Haaretz, 2002 リンク
- “性腺ホルモン”, 長崎大学原爆後障害医療研究所 細胞機能解析部門, 平成24年講義資料, リンク