海外留学記もついに第30回目。今回は、イリノイ大学アーバナ•シャンペーン校(UIUC)のDavid Sarlah研に留学されている奥村美樹子さんにお願いしました。
奥村さんは留学前の日本の研究室で私(Orthogonene)の先輩にあたり、このたびインタビューさせていただきました。
Q1. 現在、どんな研究をしていますか?
UIUCのDavid Sarlah研究室にて、初期メンバーのひとりとして4年ほど前から、ベンゼンやナフタレン等の脱芳香族化および官能基修飾化を同時に実現する合成戦略の開発を目指して研究をしています。
ある程度反応性のあるフェノール類やインドール類に比べ、ベンゼンやナフタレン等の芳香族化合物を用いた脱芳香族反応は、これまでにBirch還元や金属触媒による水素化など比較的単純な反応にしか用いられてきませんでした。一方で天然化合物や医薬品等機能性分子の多くは、炭素置換基やヘテロ原子置換基を様々な位置に有する炭素原子六員環構造(特にシクロヘキサン)を有していることから、ベンゼンのような安価な原料から効率的に合成することができれば、よりスマートな合成戦略が立てられると考えたわけです。そこでSarlah研では、arene(芳香族化合物)およびarenophile(“親arene体”、Diels-Alder反応におけるdienophile)による脱芳香族的[4+2]光付加環化反応に着目し、系中生成する非共役アルケンへの修飾反応へと持ち込むことで、脱芳香族的修飾化反応の開発を試みてきました[1,2]。
このようなアプローチをもとに、私はこれまでにarenophileとしてN–methyl-1,2,4-triazoline-3,5-dione (MTAD)を用いてジイミドによる脱芳香族的還元反応[3]、およびパラジウム触媒による脱芳香族的1,4–シン付加アミノ修飾化反応[4]の開発に携わってきました。これらの脱芳香族的修飾反応により得られた化合物は、導入された置換基を利用して様々な多置換シクロヘキサジエン、シクロヘキセン、およびシクロヘキサン誘導体へと合成変換することができます。なおSarlah研全体としては反応開発だけでなく、これらの新規反応の全合成への適用も活発に行っています[1]。
Q2. なぜ日本ではなく、海外で研究を行う(続ける)選択をしたのですか?
正直なところ、修士課程に入った時点では、そのような考えは全くありませんでした。心境が変わった一番大きなきっかけとしては、博士課程進学について考え始めたころ、次の3年間はこれまでとは全く異なる研究•経験をしたいと漠然と思ったことです。また、その当時所属していた小林研究室には海外からの留学生およびポスドクの方が多数在籍しており、毎日多くの刺激をもらっていたことも留学を後押しした要因のひとつです。留学先としてアメリカを選んだ理由は、大学および研究室の選択肢が圧倒的に幅広いこと、またほとんどの大学の化学系学科では、TAあるいはRAとしてお給料が毎月もらえることです(DC1およびDC2とほぼ同額!)。その代わりに出願時に求められるTOEFL Speakingの点数は比較的高めですが、国内にて非常に限られた海外留学奨学金等を得る機会に恵まれなかったとしても、留学生活が十分に送れるわけです。現実的に、金銭面で安定していることは、充実した留学生活を送る上でとても重要です(留学ビザを取得する上でも財源確保は必須要素です)。
研究室選びに関しては、せっかく新しい環境に身を置くチャンスなので、私が入学したと同時に新設されたDavid Sarlah助教授の研究室に入ることにしました。このように、実績や歴史の全くない新設研究室の初期メンバーとなり、研究室立ち上げから研究が軌道に乗るまでの過程に立ち会えるのは、アメリカのシステムならではだと思います。テニュア制を考えるとかなりおおきな賭けであり、お互いに結果を残さないと先が無いという状況なので大変ではありますが、その分得られる経験はとても大きいです。
Q3. 研究留学経験を通じて、良かったこと・悪かったことをそれぞれ教えてください。
良かったことは、日本にて小林研究室という大組織、およびアメリカにてSarlah研という新設研究室の一員として研究を行うことで、自分に合った研究スタイルを探求できたことです。小林研では経験豊富な先輩方に囲まれて、恵まれた環境で研究することができましたが、Sarlah研では過去4年間常に最上級生の立場として(一部ポスドクを除いて)プロジェクト最前線に置かれていたので、必然的に自分から周りを巻き込んで行動するという能力が身についたと思います。特にDaveのテニュア取得に際し、求められる研究レベルやスピードは正直半端ないです(教授自身は学生以上のプレッシャーと戦っています)。ただ、そのような中でもある程度楽観的かつ平常心で実験を楽しめるようになったと思います。
またUIUC化学科では、ほぼ毎週のように世界中から著名な有機化学者を講演に招待しており、その際学生がお昼ご飯を共にすることで、普段はホームページ上あるいは壇上でしか見かけないような先生方と直接話をする機会があることも良かったことの一つです。またアカデミアだけでなく、製薬系など企業から招待した方々とも食事をする機会がたくさんあり、学生の間はあまり身近でない話もたくさん聞くことができました。
改善が必要と思えたことは、日本人留学生同士のネットワークです。特に中国のように数多くの留学生が存在するコミュニティは、情報網が幅広く発達しています。化学系において、大学や研究室の情報、大学院出願および就職先に関する相談•アドバイスを、大学の枠を超えて日本人同士で直接繋がることのできるリソースがもっとあるといいなと思いました。
Q4. 現地の人々や、所属研究室の雰囲気はどうですか?
UIUCはシカゴから車で2〜3時間、トウモロコシ畑の間の平坦な道をひたすら突っ走ったところにある非常に小さな大学町です。人口全体としては、学生や研究者など意外と国際色豊かな町です(日本人は残念ながらかなり少数です)。夏は気温が30度以上の暑い日が多く、冬は氷点下以下の凍える日が続き、基本的には自宅«大学(«飲み)という単純な毎日ですが、研究室を一歩出ると田舎町特有のゆったりとした時間の流れを感じます(研究室は常に嵐・・・!・・・そんな事はないです)。
Sarlah研に関しては、設立当初2年くらいは苦しい日が続きましたが、論文を数本発表できる段階に到達してからはラボの一体感が増し、さらに研究に熱が入っている感じです。教授含め7人で始まった研究室が今では20人強(学部生、交換留学生等を含めると30人以上!)に拡大し、日々新たな脱芳香族的修飾反応および天然物全合成経路の開発を目指して尽力しています。 こっちの学生はとてもフレンドリーですが、日本と比べると年齢や経験値に関係なく皆かなりストレートに発言します(特にSarlah研は激しい方だと思います・・・)。とにかく有機化学が大好きすぎる人たちばかりです。。。
ボスであるDaveはスロベニア出身で、大柄で迫力満点と思いきや、意外とお茶目です。。。ですが一旦有機化学のディスカッションが始まるとスイッチON、学生以上にとにかくアツい人です。大学院の時に東北大学を訪問して以来日本が大好きになり、特に日本の文房具が気に入っています。私がジェットストリームのボールペンを紹介すると早速気に入り、オンラインで注文して学生全員に配るほどです。また常に日本人留学生、ポスドク大歓迎です!
Q5. 渡航前に念入りに準備したこと、現地で困ったことを教えてください。
渡航前にしたことは、アパートの契約です。アメリカ到着後、荷物を抱えてアパートを探すのは避けたかったので、1年目は研究室から徒歩2分の大学経営アパートを契約してから渡航しました(家賃は高めです)。2年目以降は格安の中古車を入手し、現地の状況も把握できたことから、家賃やクオリティーを重視して同級生とルームシェアをしています。
食べ物で一番困るかと思いきや、UIUCはど田舎ながらアジア系留学生の数がとても多いせいか、アジア系スーパーが非常に充実しています。値段はもちろん日本よりも高いですが、「○○が無い!」と困ったことはあまりありません。
困ったことは、留学初期の英語でのコミュニケーションです。私自身、中学生の時にアメリカ留学経験があったので多少は自信がありましたが、大人同士の会話についていけるようになるには時間がかかりました。特にアメリカでは世界中から留学生が集まることから、色々な訛りの英語を聞き分けることに苦戦しました。ただ、わからない割に必死に食らいつくと、大体の人は優しく対応してくれるので、慣れるのを待つのみです。
Q6. 海外経験を、将来どのように活かしていきたいですか?
短期でも海外留学に挑戦したいと思える学生が増えるように、留学をサポートする活動に参加したいと考えています。今までは自分のことで精一杯で何もできていませんでしたが、UIUCおよびSarlah研で得た貴重な経験をもとに、どこかで役に立てたらと思います。
Q7. 最後に、日本の読者の方々にメッセージをお願いします。
日本国内でも研究環境が十分以上に整っている中、果たして海外に長期留学する意味はどれほどあるのかということを考えた事は何度もあります。科学者として、世界共通言語である“英語力”を磨く以外の利益はなんなのでしょうか。大学院留学を通して私なりに得た答えは、これまで慣れ親しんだ環境とは全く異なる場所や言葉にて、研究手法だけでなく生き方自体大きく違う他の学生や研究者たちと切磋琢磨することで、新しい世界が開けるだけでなく、自分の強みに対して大きな自信をつけることができることだと思います。個人的なことで言えば、コツコツと小さいことから地道に積み上げることで大きな成果を目指すこと。日本では一般的なことだと思いますが、アメリカでは案外大きな強みとなりました。私の好きな英語で“Get out of comfort zone”という言葉がありますが、一歩外に踏み出すことで違う世界を知り、かつ己の理解も深めることで新たな居場所を見つけること、またその経験をもとにさらなるOut of comfort zoneを探求することで、自然と科学者としてだけでなく、人として成長できるはずです。最初の一歩目には勇気が入りますが、様々な経験を経て得られるものはかけがえのないものだと思います。また日本から遠く離れて将来への不安がないわけではありませんが、留学により得られた貴重な経験は、今後どこかで確実に活かせると信じています。
この場を借りて、これまでいろいろな形でお世話になった方々、またこのような機会をくださったChem Stationのスタッフの皆様に感謝いたします。
これから短期でも海外留学に挑戦したいと思う方の後押しができたなら幸いです。
【関連論文・参考資料】
- Mikiko Okumura, David Sarlah, Synlett, 2018, 29, 845–855.
- ベンゼン環を壊す“アレノフィル”
- Mikiko Okumura, Stephanie M. Nakamata Huynh, Jola Pospech, David Sarlah, Angew. Chem. Int. Ed., 2016, 55, 15910–15914.
- Mikiko Okumura, Alexander S. Shved, David Sarlah, J. Am. Chem. Soc., 2017, 139, 17787–17790.
【研究者のご略歴】
名前:奥村 美樹子
略歴:2012年3月 東京大学理学部化学科 卒業
2014年3月 東京大学大学院理学系研究科化学専攻 修士課程修了 (有機合成化学研究室、小林修教授)
2014年8月-現在 イリノイ大学アーバナ•シャンペーン校(UIUC)化学科博士課程在籍(David Sarlah研究室)
研究テーマ(現在):脱芳香族的[4+2]光付加環化反応に基づく新規脱芳香族的修飾反応法の開発
海外留学歴:8年