海外留学記第29回目は、Harvard大学のChiristina Woo研に留学されている天児由佳さんにお願いしました。
学生時代はニッケル触媒を使った反応開発をしていらっしゃいましたが卒業後は心機一転分野を変えてケミカルバイオロジーに取り組んでいらっしゃいます。「ポスドク先では国も研究分野も変えてみたい」という方は必見です!
Q1. 現在、どんな研究をしていますか?
Wooグループでは独自に開発したSIM-PAL(small molecule interactome mapping by photoaffinity labeling)を使って低分子医薬品とタンパク質の相互作用を研究しています。
従来の低分子リガンドの標的タンパク質の相互作用解析、特に結合部位など構造的情報を得るためには、X線結晶構造解析、NMRによる解析などが用いられていました。しかし、これらの手法の欠点として、”transient”な低分子リガンド–タンパク質相互作用の解析には不向きであること、複数の標的タンパク質の網羅的同定・解析が困難であることなどが挙げられます。一方、タンデム質量分析はタンパク質解析の強力な手法であり、近年低分子医薬品–タンパク質相互作用の解析にも盛んに用いられるようになりました。Scripps研究所のCravattらによって開発されたactivity-based protein profilingは、低分子医薬品に標的タンパク質と共有結合を形成する反応基を有するタグをつけることで低分子医薬品をタンパク質の結合部位に“固定”し、タンデム質量分析により低分子医薬品による修飾を解析します。反応基には、セリンやシステインなど特定のアミノ酸と選択的に反応する官能基、あるいは不特定のアミノ酸と結合形成が可能なジアジリン、ベンゾフェノンなどがあります。後者はより広範な低分子医薬品–タンパク質相互作用を解析可能ですが、修飾されるアミノ酸を限定できないため、アミノ酸配列解析のためのデータベース検索が複雑になり、解析精度が落ちるという欠点がありました。
SIM-PALでは、低分子医薬品–ペプチド複合体に質量分析にて特徴的なパターンを示す同位体標識を施すことによって、この問題を解決します。すなわち、ジアジリン–アルキンタグを有する低分子医薬品を合成し、一定時間細胞と培養したのち、光照射により低分子医薬品を標的タンパク質に“固定”します。続いて、12Cと13Cを1:3の割合で混合したビオチンプローブとクリック反応を行い、ストレプトアビジン担持ビーズを用いて低分子医薬品—タンパク質複合体を濃縮します。濃縮されたタンパク質はトリプシン処理によりペプチドに分解され、最後に酸処理によりプローブを開裂することで低分子医薬品–ペプチド複合体をビーズから切り離し、タンデム質量分析により解析します。この時、低分子医薬品に修飾されたペプチドはプローブの12Cと13Cに由来する特徴的なパターンを示すため、このパターンを目印にすることで、低分子医薬品に修飾されたペプチド配列を精度高く解析することが可能です。Wooグループでは、得られた質量分析のデータからパターンを有するペプチドを抽出するアルゴリズムの開発も行なっています。また、修飾されたペプチドは他のペプチドに比べて存在量が少ない点も解析を困難にする要因ですが、その点も同位体パターンを用いることで、存在量に依存せず修飾ペプチドを解析することが可能です。
私は、現在、SIM-PALを用いて、臨床で使用されている低分子医薬品のオフターゲットや未同定の標的タンパク質を解析し、詳細な作用機序を解明する研究を行っています。
Q2. なぜ日本ではなく、海外で研究を行う(続ける)選択をしたのですか?
大学院ではニッケル触媒を使った反応開発をしていましたが、卒業後はケミカルバイオロジーをやってみたいと漠然と考えていました。ケミカルバイオロジーに興味を持ったきっかけは、自分で合成した化合物で生命現象を解明できたらすごい!というやや安直な思いだったように思います。また、反応開発をする中で、反応機構の「なぜ?」を証明する方法を考えて実験をする過程が面白かったので、同じことを生命現象でやってみたいと思ったことや、有機化学だけやっていく自信があまりなかったという少しネガティブな理由など・・何だか曖昧な理由で恐縮です。。
新しい分野を勉強するなら、ポスドクをするのが一番良いだろうと思い、昔から海外生活に憧れていたので迷わず海外留学を決めました。ポスドク後の進路をはっきり決めていなかったので就職の不安をあまり考えることもなく、海外に出る方が俄然得るものが大きいと思い、国内でポスドクをすることはほとんど考えませんでした。また、分野を変えるにあたり、若いPIの比較的小さいグループに行けば、PIとの距離も近く、直接教えてもらえる機会も多くて色々学べるのでは、とも考え、そのようなグループを中心に探しました。日本と違い、海外ではassistant professorから独立して研究室を主宰するので、超若手PIの研究室に行けば、研究室立ち上げの過程を間近で見ることができて、マネージメントの勉強になるだろうとも考えました。
Q3. 研究留学経験を通じて、良かったこと・悪かったことをそれぞれ教えてください。
良かったことは、研究分野を変えたことが大きいと思いますが、圧倒的に知識が広がったことです。また、いつも「新しいこと in 英語」のダブルパンチなので、訳が分からない状況に対する免疫が少しついたように思います。そして、月並みですが、いろいろな国の人と知り合って、国籍を超えて英語で会話できるのはとても楽しいです。思ったより国や文化の壁を感じることもなく、人とコミュニケーションを取るのはどこでも同じなんだと感じています。また、アメリカでは博士号を持った人のキャリアが日本に比べて多様で、留学前は「博士号=研究者」と考えていましたが、もう少し柔軟に考えてもいいのかな、と思うようになりました。かといって、ポスドク後に突飛な職業に就く予定は今の所ないのですが・・・。
悪かったことは今のところ特に思い当たりません。強いて言えば、友人の結婚式に出席できないことを少し寂しく思っています。
Q4. 現地の人々や、所属研究室の雰囲気はどうですか?
私たちのグループの研究は、有機合成から生化学実験、プロテオミクス、コンピューターサイエンスなど様々な分野の知識が必要とされ、研究室のメンバーも、多様なバックグラウンド、得意分野を持った人で構成されています。そのため、文献紹介ではphoto redox触媒を用いた反応開発から、データ解析に関する文献、再生医学まで、様々な文献が紹介され、とても興味深いです。研究面でも、有機合成出身の人が細胞実験をやったり、生化学のバックグラウンドを持った人が有機合成をやったりすることもあり、新しい実験をするときはメンバー同士互いに助け合っています。ボスを恐れるのは万国共通のようですが(!)、先輩後輩の上下関係がなく、学部生、院生、ポスドクの壁がないところはアメリカらしいなと感じます。院生の比率が高いせいか、ボスが若いせいか、研究室の雰囲気は若く、よく他愛もない話で盛り上がっています。また、週一回のグループミーティングでは軽食とビールが用意され、ワイワイと賑やかにディスカッションします。アメリカでは普通のようですが、最初はとても驚きました!
ボスのChristinaは2016年にグループを立ち上げたばかりの超若手PIで、とてもパワフルな方です。留学前は、こんなに若くしてハーバードでポジションを取るなんて、きっとサイボーグかAIのような人なのでは・・と思っていましたが、そんなことはありませんでした。仕事はめちゃくちゃ早いですが、オフィス内に鍵を忘れて締め出されていたり、おっちょこちょいな一面もあります。メンバーに気を使ってか、夜遅くまで研究室に残ることはありませんが、論文執筆、グラント申請、講演など膨大な仕事をこなしつつ、時間がある時は自分で実験もするハードワーカーです(私のドラフトで盛大に煙を上げながら得体の知れないものをクエンチしていたことも・・)。院生時代はバリバリの全合成をやっていた方ですが、有機合成出身だということを忘れそうになるくらいバイオロジーの知識が深く、いつも驚嘆させられます。オフィスのドアを常に開けてくれているので、用があるときは気軽に話に行くことができることも良い環境です。やはり立ち上がったばかりでテニュア審査前のPIのグループなので、想像していた通り忙しく、求められる実験量も多いように思いますが、グラント申請や院生のリクルートなどにも積極的に関わらせてもらい、いろいろな面で、若いグループを堪能しています。
少し余談ですが、アメリカの日常では、スーパーの店員がポテトチップスを食べながらレジ打ちをしていたり、駅員に切符売り場を聞いたらグミを食べながら売り場をアゴで指されたり、バスを追いかけて走っていたらバス停手前で停まってくれたり、日本とだいぶ違います。私はこんなゆるい雰囲気がとても好きです。
Q5. 渡航前に念入りに準備したこと、現地で困ったことを教えてください。
準備に関しては、現地で生活のセットアップを手伝うサービスをしているボストン在住の日本人の方にお願いして、渡航前にアパート決め、ベッドなど最低限の家具の購入を済ませ、到着後すぐに生活を立ち上げられるようにしました。アパートは、最終的にBIC(Boston Internet Community)というボストンに関する日本人の交流のためのウェブサイトで見つけたところに決めました。到着翌日に銀行口座の開設や、生活用品の買い出しなどにも連れて行っていただいて、セットアップがほぼ完了し、3日目には研究生活をスタートできました。海外で暮らすのは初めてで、現地に知り合いもいなかったので、サービスをお願いして本当によかったと思っています。
困ったことでは、到着した1ヶ月後にルームメートが引っ越すことになっていたため、電気、ガス、インターネットなどの名義変えの手続きが大変でした。ネットで手続きがうまく行かず、仕方なく電話するも英語があまり聞き取れず、手続きがちゃんとできたのかわからないまま、しばらくは夜帰宅するたびに、電気を止められていたらどうしよう・・と心配しながら電気のスイッチをつける日々でした。幸いライフラインが止まることはありませんでしたが。その他では、ボストンは公共交通機関も便がよく、研究室があるケンブリッジや私が住んでいる地域は治安も良いので、困ることはあまり多くありません。ただ、家賃や物価、特に食事が高いので、外食ばかりにならないように気を使っています。
Q6. 海外経験を、将来どのように活かしていきたいですか?
留学前はアカデミアを志望していましたが、こちらでは研究室で開発した技術でベンチャー企業を立ち上げる研究者も多く、以前より製薬企業やバイテクのベンチャー企業を身近に感じ、少し興味を持つようになりました。どの職についても、留学で得たつながりを大切にしたいです。
また、日本とアメリカの大学院の教育システムや研究システムの違いを強く感じることが多くあり、例えば、大学院生は(大学やプログラムによりますが)2年生から3年生に進級するあたりにqualification examがあり、今後の研究についての20ページを超えるプロポーザル、および発表、口頭試問などが課されます。ハーバードの化学科では、大学院の講義でもプロポーザルを書く授業があり、院生の時からこのようなトレーニングを積むことは、研究者として独立するときに大きな強みになるのではないかと思っています。また、研究室のシステムでも、日本と違い、院生は学部時代と違う大学・研究室を選び、多くの研究室はポスドクを有するため、研究室には多様なバックグラウンドを持った人が集まります。ケミカルバイオロジーのような学際的な分野では、このような多様性が研究に大きく影響すると思うので、この点で日本は劣ってしまうのでは・・と考えることがあります。もし、日本のアカデミアで働く機会があれば、このようなことも考えつつ仕事をしたいと思っています。
Q7. 最後に、日本の読者の方々にメッセージをお願いします。
留学を考え始めた時はわからないことばかりだったので、面識のある方からない方まで、いろいろな方に連絡をとって、助けていただきました。どの方もとても親身になって教えて下さったので、今、もし私と同じように感じている方がいれば、是非、誰かに話しだけでも聞いてみることをおすすめします。そして、留学してみたいけど、海外生活に馴染めるか不安、留学後の就職が不安、など心配している方がいたら、とりあえず後先考えずに飛び出してみてはいかがでしょうか・・!海を渡ってしまえばとりあえずどうにかなる、ということもあると思います(・・と信じています)。
最後になりましたが、この記事を書く機会をいただいたケムステスタッフの方々、学生生活、留学生活を支えて下さっている全ての方々に、心から感謝いたします。
【関連論文・参考資料】
Gao, J.; Mfuh, A.; Amako, Y.; Woo, C. M. “Small molecule interactome mapping by photo-affinity labeling (SIM-PAL) reveals binding site hotspots for the NSAIDs.” J Am Chem Soc, 2018, 140(12), 4259.
Flaxman, H. A.; Woo, C. M. “Mapping the small molecule interactome by mass spectrometry.” Biochemistry, 2018, 57, 186.
【研究者のご略歴】
名前:天児由佳
所属(大学・学部・研究室):Harvard University, Department of Chemistry and Chemical Biology, The Woo lab
研究テーマ:低分子医薬品−タンパク質相互作用の網羅的解析による低分子医薬品の詳細な作用機序解明
海外留学歴:1年5ヶ月