化学構造式は、分子の情報を読者(またはコンピュータ)へと誤解無く伝えることが第一義です。とはいえやはり綺麗な図が欲しい。ベンゼン環一つ取っても、「化学的に間違っていない図」ならば、冒頭のごとくいくらでも描けてしまいます。美的感覚に照らしても、明らかに醜い図が含まれるのがおわかりでしょう。
このように我々化学者は、星の数ほどある構造式を眺めつつ、どれが「良い」「悪い」などと日々語り合っています。とはいえ、正統な基準も無いままこんなことをやっているのも、いささか妙な話かもしれません。
そのために(?)使える化学構造式描画の標準ガイドラインがIUPACから提唱されていることは、案外知られていない事実ではないでしょうか?今回は、その内容をかいつまんでご紹介したいと思います。
“Graphical representation standards for chemical structure diagrams (IUPAC Recommendations 2008)”
Brecher, J. Pure Appl. Chem. 2008, 80, 277-410. doi:10.1351/pac200880020277
構造式描画のガイドライン:3つの基本原則
構造式を描く以前の話として、以下の注意点が述べられています。至極当たり前に思えますが、案外徹底されていないケースも多いように思えます。化学を学び始めた学生さんだけでなく、有機化合物の図を普段から書き慣れていない専門家の方々にもありがちです。
- 読者を知れ:幅広い読者が見る図は、できるだけシンプルに描く。
- あいまいな描画スタイルは避ける。
- 描画スタイルには一貫性を持たせる。
最重要なのは1)読者を知ることとされています。C&EN・Nature・Scienceに描かれる構造式は、専門特化型ジャーナルのそれと同じである必要はないということです。
そのうえで2)曖昧さ回避のためには、文脈(コンテクスト)の活用が重要だと述べられています。シンプルな図にすると情報量が減ってしまいますが、コンテクストの上手い活用によって、意味が一義的に特定しやすくなります。
3)一貫性は殊更に述べるまでもないでしょう。崩すと見にくく醜い図が出来上がるのみです。
構造式描画のガイドライン:基本編
IUPACガイドラインは膨大であり、ここで全て紹介することは不可能です。また幅広い読者を想定しているせいか、アリ・ナシの幅もやや緩めに取ってある印象です。
そこで本記事では初学者が迷わないよう、筆者の独断と偏見を交えつつ、基本的な内容だけを厳しめ基準で紹介することにします。特に理由が無い限り、赤字の指針に従うだけで自然と見やすい図になるように選んであります。凝った作図をやり始めるのは、これらを一通りマスターした後でも遅くありません。
1.フォント選び
紙媒体用にはサンセリフ系フォント(Helvetica, Arial)の8~14ptを使いましょう。他のフォントはオススメできません。根拠は明確で、それが一番見やすいからです。スタイルの不統一はもってのほかです。スライド・ウェブ・ポスター用には、それよりも大きなフォントサイズが必要です。
2.線の太さ
紙媒体用には0.5pt (0.18 mm)よりも太い線を使いましょう。これより細い線は顕著に見にくくなります。スライド・ウェブ・ポスター用にはさらに太めの線が必要です。
3.色
白紙上であれば黒の一択です(黒バックなら白です)。強調したいところは色づけしてOKですが、原則は赤を使いましょう。低コントラスト色(紺色や茶色など)に比べ、強調箇所を目立たせやすいからです(色弱読者に配慮して赤と緑での組み合わせ強調は避けるのが無難です)。強調ルールも統一させておきましょう。
また、慣例に従わないと妙な感じに見えたりもします。酸素=赤、窒素=青、硫黄=黄、塩素=緑などは、分子模型でも使われるカラーリングですので、従っておく方が無難です。
4.図のサイズ
当たり前ですが紙媒体の場合、ページサイズに収まる図として書く必要があります。フレキシブルな図の場合は、図全体が小さくなりすぎないよう、上手い結合配置を考える必要があります。スライド・ウェブ・ポスター用には、より大きめの図が必要ですので、さらに工夫が必要になります。
サイズを小さくしたり重なりをなくすため、略語を適切に使うことも推奨されます。
5.図の向き
化学構造式の意味とは無関係なので、基本的にはどう書いても構わないのですが、やはり30°刻みで回転しておくと、見慣れた落ち着きある図になるように思います。
また、長軸が水平方向に伸びていくように書くのが原則です。
ただしFischer投影式の場合は、向きが立体情報と紐付いているので、正しく書かなければなりません。
次回の【応用編】に続きます。
※図は冒頭論文より引用・改変しました