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化学者のつぶやき

「銅触媒を用いた不斉ヒドロアミノ化反応の開発」-MIT Buchwald研より

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ケムステ海外研究記」の第25回目は、マサチューセッツ工科大学 (MIT)博士課程で研究をされている市川早紀さんにインタビューを行いました。

市川さんが所属するStephen Buchwald研究室は、遷移金属触媒を用いたクロスカップリング反応(特にBuchwald–Hartwig cross-coupling)で著名な成果をあげています。金属配位子の開発も非常に盛んで、「〜phos」系のBuchwald配位子には筆者も日頃からお世話になっております。

さて、それでは早速市川さんにお話を伺いましょう!

Q1. 現在、どんな研究をしていますか?

私は現在、銅触媒を用いた不斉ヒドロアミノ化反応の研究を行っています。

光学活性アミンは、医薬・農薬・機能性材料に広く見られる極めて重要な化合物群です[1]。したがって、効率的で汎用性が高い触媒的不斉アミノ化反応の開発は、今日の有機合成における重要課題の一つに挙げられます。これまでに光学活性アミンの合成法として、不斉求核付加反応や還元的アミノ化反応など多岐にわたる方法が開発されてきました。その中でも特に、銅触媒を用いた不斉ヒドロアミノ化反応[2]は、アルケンに対してアミンを形式的に付加させることで直接的に炭素−窒素結合を形成できることから、省資源的な光学活性アミン合成法として魅力的です。この反応は、活性種である銅ヒドリドのアルケンへのエナンチオ選択的な付加と、それに続く有機銅種と窒素求電子剤との反応で進行すると考えられています(Figure 1)。しかし適用可能なアルケン・窒素求電子剤は未だ限られており、研究の余地を残しています。例えば、α-アルキルアミンと比べて、α-アリールアミンの合成に必要となる窒素求電子剤は反応性が高く、還元的反応条件下で容易に還元されてしまうため、金属ヒドリド触媒反応への適用は困難であることが知られています(Figure 1)。そこで私たちは、反応条件を精査することでこの副反応を抑制し、銅ヒドリド触媒を用いたαキラルアリールアミンの合成を目指しました。

Figure 1. 銅触媒による不斉ヒドロアミノ化反応の機構と競合する副反応

種々の反応条件を検討した結果、tert-ブチルアルコールとトリフェニルホスフィンを加えることで、窒素求電子剤の分解を抑制するとともに触媒活性種の再生を促進し、目的の光学活性アリールアミンをエナンチオ選択的かつ位置選択的に合成することに成功しました[3](Scheme 1)。

Scheme 1. 銅触媒を用いた不斉ヒドロアミノ化反応によるキラルN-アリールアミンの合成

現在も引き続き、触媒的不斉合成が困難な光学活性化合物を合成対象として、銅ヒドリド触媒による不斉ヒドロ官能基化反応の開発に取り組んでいます。

 

Q2. なぜ日本ではなく、海外で研究を行う(続ける)選択をしたのですか?

留学した動機は幾つかありますが、将来取りうるキャリアの可能性を模索したかったことと、「何事も実際に経験してみないとわからない!」と思ったことが大きいです。

大学に入ってからは漠然と、博士課程に進み海外PDをして…と考えていましたが、実際にその過程で何をどう学びたいのか、その後のキャリアパスにどう繋げていきたいのか、問題意識が希薄なままでした。

転機となったのは、学部3年生の時に参加した理学部学生選抜国際派遣プログラムという海外大学院見学を目的とした短期海外研修です。実際に米国の名だたる研究室を訪問して先生方や学生の皆さんと直接お話しするという経験をできたことが大きかったと思います。研究内容はもちろん、日本/米国の大学院における研究室運営の違い(講座制とPI制)、大学院生の研究生活やPh.D.取得への必要要件(Oral examやProposal examなど)、その後の進路についてなど、具体的に詳しく伺ったことで、実際の大学院生活やキャリアの可能性をより鮮明にイメージできるようになりました。その時、自分の拙い英語のせいで深い研究Discussionができず一方的に聞くばかりになり、もっと議論したい、発信したいと感じたことも海外に目を向ける要因になったと思います。

 

研究室選びに関しては、もともと有機金属化学・錯体化学に興味があり、博士課程で何に重点を置いて学ぶか迷っていました。金属錯体そのものの合成や物性評価も魅力的だったのですが、それらの金属錯体の新しい反応性を開拓すること、さらには「その反応性を用いて目指すべき反応/骨格は何か」を見極めることが、有機金属化学を研究する上で必要だと感じました。そのため、博士課程では有機合成・有機化学の側面に重点を置き、有機金属化学を学ぼうと決めました。最終的に、進学先決定に至るまで、一番親切に対応してくださったSteveの研究室に進学しました。

Stephen L. Buchwald教授

Q3. 研究留学経験を通じて、良かったこと・悪かったことをそれぞれ教えてください。 

良かったこと
研究環境が非常に充実していることです。

例えば設備としては、試薬が研究室間で共有されていたり、NMR専門の技官の方がいて特別な測定の際には相談に乗ってくださったり、思いついたときにすぐ実験できる環境が整っているのはとてもありがたいです。そのほかに挙げられることでは、セミナーや講演も活発で、ほぼ毎週招待講演と学生/PDセミナーがあることです。大御所の研究者から研究室を立ち上げたばかりの若手PIに至るまで、Academia/Industry問わず世界中の一流研究者の講演を聞き、直接お話しする機会があるのは非常に刺激的です。また学生/PDセミナーでは、各々が自分の研究背景や強みを共有してくれるのでとても勉強になります。

悪かったこと
物理的な距離もあり、博士取得後、日本の研究コミュニティーからの需要があるのか不安になることです。あくまで一学生の個人的見解ですが、国費/民間財団の奨学金も増え留学推進の兆しのなか、海外大学院博士号取得者の増加が、はたして学術機関や民間企業からの需要と合致しているのか確信が持てません。「学位留学」を選択肢として浸透させる試みには賛成ですが、受け皿なしに送り出すだけでは、ポスドク一万人計画後の博士号取得者過多に伴う諸問題(ポスト不足による余剰博士)を再度違う形で生み出すことになるのかもしれないと、末端の人間ながら危惧しています[4]

また、ボストンは物価が高く、忙しくなって自炊がままならなくなると、あっという間に食費がかさんでしまうことです。安くて美味しくバリエーション豊富な日本のご飯が恋しくなります。

Q4. 現地の人々や、所属研究室の雰囲気はどうですか?

MITの象徴的建物であるBuilding 10, “Great Dome”

MITの化学科は、学生/PD間で互いに助け合うPeer Supportの文化があり、とても過ごしやすいです。学生団体の活動も活発で、主な学科内の交流イベントを運営するCGSC (Chemistry Graduate Student Committee), 学科内の女学生/女性ポスドクを支援するWIC (Women in Chemistry), 学科内の学生のPh.D.生活の質を向上するとともに、メンタルヘルスの観点から支援するChemREFS (Resources for Easing Friction and Stress)の3つがあります。私はこのうちChemREFSに所属しており、研究分野も学年も様々なメンバーと活動しています。MITの化学科はFacultyや事務の方々も、学科内交流やハラスメント、メンタルヘルスの問題[5]に関心があり、学外委員会による学生のQOL調査も行われています。もちろんまだ改善点はあり、短期間での劇的な変化が難しい問題ですが、学科内環境はさらに良い方向に向かっているように思います。

研究室がある建物の1階ロビーにある周期表。Nh(ニホニウム)はまだありません…涙。

Buchwald研は、大所帯かつ構成員の半分以上がポスドクで占められているため人の出入りが多いです。アメリカ国内、ヨーロッパ、アジアと国際色も非常に豊かで、それぞれに今までの研究で培った強みがあり、それらを生かして問題を解決したり、学年や学生/ポスドクの垣根なく対等に議論したりできる環境はとても楽しいです。研究室に入りたての頃は、話しかけると仕事の邪魔ではないか内心ドキドキしていましたが、みな快くDiscussionに付き合ってくれ、今では行き詰まったり悩んだりする前に話して、Discussionを通して考えを深めていくことの方が多いです。

ボスのSteveは、Discussionやmeetingでは強面で怖い時もありますが、学生一人一人と毎月面談し、普段は学生主体でプロジェクトを進めるよう促す反面、本当に行き詰まった時には、一緒に打開策を考えたり、新しいプロジェクトをBrainstormingしてくれたりします。1年に一度ある研究助成金申請のためのBrianstorming meetingでは全員がSteveの前でアイデアを出し合うのですが、Steveはほとんどのアイデアをボツにするので、せめてon the borderlineに残ろうとみな必死で頭を絞ります。ホスフィン配位子に自分の3匹の猫の名前をつけたり、研究室のカラオケパーティーで熱唱したりするお茶目な一面もあり、たまに理不尽な事を言われても何故か憎めない、素敵なボスです。

Steveの誕生日パーティー。Halloween間近なので毎年全員で仮装するのが恒例に。

Q5. 渡航前に念入りに準備したこと、現地で困ったことを教えてください。

実家を出て暮らすのが初めてだったので、住む場所の選択には気を配りました。今までずっと大学院の寮に住んでいますが、私の寮は家具付きでキャンパスにも近いので、とても快適です。渡米前のVISAや大学保険加入の書類手続き、予防接種なども時間的に余裕を持って準備するようにしました。
MIT化学科はPh.D.1年生のうちに授業、TA、研究、Ph.D. Candidateになるための筆記試験(※2018年から廃止)をこなす必要があり、生活環境の変化と大学院生活の両立が不安だったので、学期開始前の7月に渡米してSummer RAとして実験する傍ら、環境にも順応しました。

現地で困ったことは英語です。はじめは語彙/文法力やプレゼン能力が全く足りず、大人数での雑談やDiscussionではひたすら聞き役に回らざるを得ない状況でした。友人と2人でご飯に行ったり、よく聞く単語や言い回しを覚えたり、色々な人のプレゼンスタイルを見て良い点を真似してみたり、試行錯誤しながら今も改善しているところです。

Q6. 海外経験を、将来どのように活かしていきたいですか?

個人的な面では、今まで4年間の海外大学院での研究生活を通じて、改めて研究者として生きる決意ができたことが大きな収穫でした。

もちろん研究成果も大事ですが、私は、Ph.D.の本質は結果の良し悪しではなく過程を楽しむことだと思っています。なぜなら博士課程では、実験技術や専門知識だけではなく、 様々な問題に対して自分で課題設定し試行錯誤して乗り越える問題解決能力、プレゼン技術や論文執筆能力といったコミュニケーション能力、自分が一番効率よくパフォーマンスができる生活スタイルの確立など、非常に多岐に渡る面で内省する必要があるからです。この経験は、研究者としてキャリアを積んでいく上で、とても大事な礎になると思っています。

また、将来どのような形で研究に携わるにせよ、学位留学の一例として、留学準備から実際の生活、その後のキャリアに関して情報を共有するアウトリーチ活動への参加を続けていきたいと思います。米国大学院学生会主催の留学説明会では過去の説明会資料も公開されており、情報収集に役立つと思います。私も先生や先輩方に助言をいただいて助けていただいたので、これから博士号取得を志す方々にとって、多様なキャリアパスを可能にする一助になれたらと願っています。

Q7. 最後に、日本の読者の方々にメッセージをお願いします。

どのような状況でも、様々な物事に対して常にオープンであること、きちんと内省し周囲から学び続けること、そして自分が大事にしたい価値観、研究観を見極め保ち続けることが大切だと思います。

研究室配属、研究テーマの設定、修士/博士進学、卒業後のキャリア、家庭との両立、その後のステップアップや研究費の獲得/大型プロジェクトの運営など、岐路や課題は無数にあります。今回の記事のテーマである学位留学は、その中のほんのひとつの選択に過ぎません。中立かつオープンな姿勢で周囲から学び、様々な意見や情報を集めたのち、自分は何を学びたいのかきちんと考えることで、自ずと大切にしたい価値観、取るべき選択肢も見えてくると思います。

この人と一緒に仕事がしたい!研究のアイデアを話し合いたい!と思っていただけるような研究者を目指して、まずは残りのPh.D.生活を実り多いものにできるよう頑張ります。
最後になりましたが、貴重な機会をくださったChem-Stationの方々に心より御礼申し上げます。

【関連論文・参考資料】

  1. (a) Nugent, T. C. Ed. Chiral Amine Synthesis: Methods, Developments and Applications; Wiley-VCH: Weinheim, Germany, 2010. (b) Lawrence, S. A. Amines: Synthesis, Properties and Applications, Cambridge University Press, Cambridge, 2006.
  2. (a) Pirnot, M. T.; Wang, Y.-M.; Buchwald, S. L. Angew. Chem. Int. Ed. 2016, 55, 48–57. DOI: 10.1002/anie.201507594 (b) Liu, R. Y.; Buchwald, S. L. Org. Synth. 2018, 95, 80–96. DOI: 10.15227/orgsyn.095.0080
  3. Ichikawa, S.; Zhu, S.; Buchwald, S. L. Angew. Chem. Int. Ed. 201857, 8714–8718. DOI: 10.1002/anie.201803026
  4. Cyranoski, D.; Gilbert, N.; Ledford, H.; Nayar, A.; Yahia, M. Nature 2011, 472, 276­–279. DOI: 10.1038/472276a
  5. Woolston, C. Nature 2017, 550, 549­–552. DOI: 10.1038/nj7677-549a

【研究者のご略歴】

名前: 市川 早紀(いちかわ さき)

略歴
2013–2014年       東京大学理学部化学科 中村栄一研究室(理学学士)
2014年–現在        Massachusetts Institute of Technology, Department of Chemistry, Stephen L. Buchwald group

研究テーマ:銅触媒を用いた不斉ヒドロ官能基化反応の開発
海外留学歴:4年

Orthogonene

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有機合成を専門にするシカゴ大学化学科PhD3年生です。
趣味はスポーツ(器械体操・筋トレ・ランニング)と読書です。
ゆくゆくはアメリカで教授になって活躍するため、日々精進中です。

http://donggroup-sites.uchicago.edu/

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