Tshozoです。
サイトの改編に対しアレな感じの反応が巻き起こったAngewandte Chemie International Edition(Angew. Chem. Int. Ed.)。。改編自体はスマホ対応の流れによるものでしょうけど、まだPCに齧りついて文献を読む癖のある筆者には非常につらいものがあります。というか老眼ry
・・・ともかく同誌のエッセイには面白いモノが多く、ちょっと古いのですがあのWhitesides教授が寄稿されていた文章を今回ご紹介します。
“Curiosity and Science”
G. M. Whitesides, Angew. Chem. Int. Ed. 2018, 57, 4126. doi:10.1002/anie.201800684
G.Whitesides教授と言えばあらかたの著名科学賞を受賞し尽していて、あと残っているのはノーベル賞くらいというスーパーな教授。またChem-Stationで過去に紹介された”Writing a Paper”は筆者を含む多くの関係者の指針となる本質的かつ効率的な研究指針を含むという、教育者としても大きな存在感を示す御方です。特に同氏のTEDでの講演は筆者にとって特別な内容を含んでいたのですが、皆様どういう印象をお持ちでしょうか。
何度も見返してます
さてそのWhitesides教授が今回Angew. Chem. Int. Ed.紙に出したエッセイは「好奇心」に関するもの。好奇心の使い方、ということが主題ですが、いち科学者としてどう研究開発に向き合えばいいのかということを示唆する内容だと思います。お付き合いください。
【要旨】
だらだらと全文訳すのは流石に宜しくないですので、前回同様6段オチでまとめてみることにしました。相当に意訳しておりますゆえ、ご意見宜しくお願いいたします。また便宜上「Curiosity=好奇心」と文字をあてましたが、話を進めていくうちに少し違和感を覚えました。実際のところは「探究心」という単語のほうが妥当かもしれませんね。
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①「好奇心とは何か」に対して回答するのは極めて難しい。要は「見りゃわかるんだが短いフレーズで定義しようとすると難しいねん」というタイプのものだからである。ある時はひらめきのようでもあるし、ある時は何年も続く場合もあり、様々な側面を持つのだが、とにかく「願望」に近い性質のものであることは間違いなかろう。
②一方「科学とは何か」という問いには比較的容易に答えられる。基本的には発見・発明に起因した知的活動で、分析的・総合的であり、少なくとも明確な目標と辿り着くべき場所があるということ。これに対し好奇心は違う。あぶなっかしく、何処に辿り着くのかすら明らかでない。目的が明確でない場合すらある。しかし、だからと言って科学に貢献していないか? これに対しては確定的に明らかで”No”と言い切れる、少なくとも私にとっては。
③科学における「好奇心」は本人の観察眼の様態であり、問題提起のスキルでもあることから技能的な性格をもつ。ソクラテスとの対話のように、自然に対する問いかけ、つまり対象へ「何故?」を繰り返すことそのものだが、適切な答が見つからないことだってある。それ故に科学者でない人とも共有し得ると同時に、その視点がその人独特のものである点で特別なものとも言える。
④こうした好奇心は「ご立派な報告書」のイントロに記載する話ではないのだが、少なくとも私(Whitesides教授)にとっては経験的に大きな意味を持った(エッセイ内枠内参照)。ここから得た教訓としては、「好奇心が研究テーマに結び付くのはかなり偶然性に左右されるため、とにかく何度も何度も好奇心に基づいて問い続けなければならない、そして場合によっては友人や門外漢の好奇心すらも自らのものとすべき」、ということである。好奇心はその過程で絶え間ない発見と喜びとを与えてくれる大事なものなのだ。
⑤ちなみにこの好奇心というやつは人に教えられてなんとかなるものだろうか。科学的なスキルはともかく、好奇心を筆者の経験では「五分五分」といったところだが、なんとかするために、筆者からは後輩たちへ下記のようなことは提案できる。
「まず自らの周囲のことがらを認識し、反証的考察を行い、孤立を愛し、空想に励み、諸々のことを観察し問い続けることだ」
こうしたことを意識することで、好奇心に基づく研究活動が可能になるであろう。ただ「堅苦しい教育の中で好奇心が生き残ったのはまさに奇跡だ」というアインシュタインの言葉にあるように、好奇心は「生き残らせるようにしなくてはならない」という点を忘れてはならない。
⑥そして、我々科学界の徒はこの好奇心というやつにもっと重点を置くべきか? 私の答えはNoでもあり、Yesでもある。「好奇心が掻き立てられたから金をくれ」ではグラントは通らないし、Peer Reviewシステムは一般に官僚的なものだから好奇心に基づく新奇な概念などは間違った概念と混同され一緒に却下されてしまうだろう。しかしそれではあまりにも味気ない。それを避けるため、適切な技術バックグラウンドに基づいた提案をベースに好奇心を組み合わせ、真に新しい概念に橋渡しを行うことが実際的かつ適当なステップと考えられる。もし今後、科学が事務的になり、こうした好奇心が失われてしまうようなことがあったなら、それはもう「ろくでなしの業界」となってしまうことに疑いの余地はなかろう。
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・・・ということになるかと思います。ただ実際のところ、筆者の印象としてはエッセイ冒頭の
「小さい頃、自宅のガレージでタイヤが溶けるかどうかを確認するためガソリンをぶっかけて着火したら火事になった」
「だが、親父とお袋は僕を全く責めなかった」
ということが根っこの趣旨なのじゃないかと思うのですけど、こりゃ筆者の勝手な想像としておきましょう。
好奇心から生まれたWhitesides教授の学問的成果一覧
一番最後のものがご本人にとって一番重要なものである模様
【以下本件に関するつぶやき】
エッセイ中でWhitesides教授も認めていますが、好奇心は本質的に個人性、非理論性、妄想性を伴うため、客観性・現実性・理論性を要求する科学に対して全く逆の位置にあるように見えます。一般には後者に集中することの方が得をする(≒めしをくえる)ケースが多いのですが、特に研究開発やサイエンス分野では好奇心の最大化を同時に進めねばならないというところにむずかしさがあるような気がします。とは言え好奇心ばっかりに任せていては成り立たないですから、Whitesides教授が言うように客観性と個人性、妄想と現実、論理と非論理を互いを排除せずに両輪として考えてやっていけるのがいいんだと思います。ある意味であたりまえの結論かもしれませんが・・・
ただ新しいフロンティアを開拓するためには、一見組織だった活動に目を背けることのでき、かつ質の高い問いを生む「好奇心」無しではやってけないということがWhitesides教授が一番言いたかったことなのでしょう。特に個人的な妄想に浸り孤独を愛する、という点は以前採り上げた湯川秀樹教授の物理講義での言葉(「・・・私は孤立型というのが大変好きでして、孤立してるがゆえに、また大いにどこかと結び付いて大きく生かすことが出来るという性格を持っているんです」)とも共通する点で、トレンドを気にせず「我一人荒野を征く」方がフロンティアを拓く確率は高いような気がするのですがそこんとこどうでしょうか。僭越を承知で申し上げますがハメルーンの笛吹きの後についていくのは子供だけ、というのは(本体の寓話の趣旨とは違うでしょうが)そういうふうにフラフラとトレンドのみを追いかけているのは実は精神的に熟成していない証左なのかもしれません。
じっさい好奇心を排除して客観性、現実性、理論性、流行性だけ追及していくとだいたい現状の延長線上のものとなり、そればっかやってると最終的には「ひとでなし」の業界になってしまうことはもう100年以上も前に古人が見抜いています。少なくともPhase-Change出来るようなものは出てこない。それがWhitesides教授がこのエッセイの最後で述べた小説「1984」の成れの果てであるわけで。特に補助金や企画費用の申請で某国や某企業で必ず聞かれるのが「他でやってるか」「欧米でやってるか」という鬼質問。それにより独自性を見てるならいいのですが、出来る限りアタリくじを引きたいと考えている予算権限者は全く逆のこと、権威・権力・権限を考えます。基本的に優秀な官僚タイプの方は追い込まれん限りバクチをはらないもんですが、本エッセイはこうした傾向を掻い潜って好奇心をどうやって使っていけばいいのかの一助となるのではないでしょうか。
ともかく。
このWhitesides教授の「好奇心」の提言と定義をどう捉えるかはその人がどういう人かに依るのでしょうが、好奇心について結論的に教授が記述している、最後あたりの段落にある「Noでもあり、Yesでもある」というセンテンス。答えをはぐらかしてるような、それでいて真実を語っているような、面白い応え方だと思いますが、昔読んだ「臨済録」という中国禅の坊さんに関する書物にあった短い公案とよく似た印象を受けます。覚えている限りで記載すると、
「ある斎事に呼ばれた臨済、文官二人と共に建物に入る際に門の柱を叩いて曰く
『これはいったい凡夫か聖者か』
文官二人とも答えられず、臨済続けて曰く
『たとえなんと答えようとも、これはただの棒杭でしかない』
臨済直ちに去る」
というもの。この公案に対する応え方は筆者にもおそらく死ぬまで(もしかしたら死んでも)わからんのでしょうけど、好奇心とはきっとこういう答えの出ないようなものを追い続ける姿勢とも言えるのではないでしょうか。上記の教授の結論的なセンテンスはその姿勢自体を示唆しているような気がしています。
それでは今回はこんなところで。