Tshozoです。前々回、前回の続き。今回からはもう少し端折って化学・経済に集中したor面白いエピソードに絞って時系列に進めていくことにしましょう。今のペースだとRobert Boschのエピソードも含めて数十回分くらいの記事になってしまいそうなので・・・
実科学校(Oberrealschule)進学後の歩み
Oberrealschule卒業後(19歳)、最終的にはBASFに就職するのですが、その間のBoschの動向を簡単にまとめてみます。
①Kotzenau(現ポーランド)の鋳造部品工場で丁稚見習い(1年間・~20歳)
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②Techinischen Hochschule Charottenburg(現ベルリン工科大学)で学生(2年間・~22歳)
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③Leipziger Universitätへ移動(編入?)、Prof. Wislicenus門下で博士課程(3年間・~25歳)
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④親父さんと家族会議、WislicenusからのススメもあってBASFに入社(25歳)
これらの中でBosch本人の人生とキャリアに大きく影響したポイントを書いていきます。
①:もともとBosch本人は既にこの時点で化学業界へのキャリアを選択しようとしていました。しかしここで親父さんから横槍。手に職をつけるため精錬・鋳造含む金属加工業を学ぶように強く迫ったのです。理由は2点。1つ目は当時もアカデミアで現世のメシ(“iridischen Güter”)を食っていくのに苦労する可能性があったこと、2つ目は親父さんが化学業界の厳しさを近隣を見てよく理解していたこと(制度的にも工科大学への進学に短期間の丁稚奉公が義務付けられていたということもあります)。なお見習い先は親父さんの商売上の付き合いがあったところで、現在のポーランド、Lignitzの北にあるKotzenauという町の”Marienhütte”という工場でした。
こちらのページより引用
当時急増していた鉄道関連の鉄鋼材を作ってたもようだが
現在の筆者の勤め先よりずいぶん綺麗で文化的な気がするである
普通なら不貞腐れてしまうでしょうが、この勤務が性に合ったのか結局予定を超過して1年間勤め上げてしまいます。この間に冶金、鋳造、部品設計、はては部品組付けまで鉄製品の取扱いと製造業のシステムを体験したことは大きな意味を持ったと後に強調した発言がありました(1935年の本人の講演)。なお日本語版WikiではSchlossereiを錠前工として訳していましたが、正しくは「組立工」と訳すべきです。
②:一方このシャルロッテンブルグ工科大学ではあんまりよい経験をしなかったようです。当時工科大学では「安全率」を多用した経験主義的な工学の設計手法などしか取り扱わず科学的な授業がほとんど無かったのが原因でした。そのうえ在学中筆者と同様に虫垂炎にかかり、担当医師が手術を行わずちらしたのみに留まったため、相当長いこと苦しんだうえ結局休学までしてしまいます。結局この大学についてはあまりよい感情を持っておらず、後日「こんなところ入りとうなかったんじゃ(“Ich muß es aussprechen, ich halte es für einen Fehler, der gemacht worden ist, daß seinerzeit die Technischen Hochschulen von den Universitäten abgelöst worden sind.”)」とも語っています。とは言えここで培った工学技術は十分その後のキャリアに役立っていることは理解していたようでした。
蛇足ながら当時の友人評は「寡黙でマジメ、冷静沈着で友達思いだが大酒飲み」というもの。ドイツは朝からビールが鉄板なので仕方ないのでしょう。
当時の”Burschenshaft(学生組合)”の友人との写真 再掲
もちろんグラスに入っているのはビール
③:結局その後化学のキャリアを切望して1896年にライプチヒ大学、後に因縁を生むOstwaldが物理化学を強力に推し進めていたその研究所へPh.D.取得のため研究員として移動。担当教授は当時有機化学、特に立体化学をメインに研究していたJohannes Wislicenus。イギリスの染料魔術師William Perkinを育てた名伯楽で、Boschはここで
“Über die Kondensation von Dinatriumacetondicarbonsäurediethylester mit Bromacetophenon”
というテーマで込み入った分子の合成に成功([文献2]・詳細後述)。中間試験も難なく切り抜け総合評価で「最優秀」を受け、1898年に無事Ph.D.を取得することになります。そしてこの③の期間のトピックとしては、(1)希ガス類のスペクトルの再現実験を高速で達成、(2)また母ちゃん大激怒(推定)、の2本です。それぞれ少しラフに見ていきます。
(1):1898年に当時Ostwaldが立ち上げた同大学の物理化学研究所聴講ホールのこけら落としで招待講演を行ったWilliam Ramsayによる「希ガスの発見とスペクトル測定」に関する講義を聞いたBoschは大きな衝撃を受け、自分でも実証しようと思い立ちます。で、わずか3日で水銀真空ポンプ(下図A)を含めた下記のような真空装置を製作し完全にヘリウムのスペクトルを実証することに成功するのです。
文献3,4 より引用
HにはCleveiteと呼ばれる鉱物を濃アルカリで溶かして抽出したHeが入っている
実際には1904年の実験装置だが同レベルの器具を一人で当時作り上げてしまった
カマリン・オネスやカール・フォン・リンデらにより低温技術が実現され希ガスがまとまった量を作れるようになるまではこのRamsayとRayleighによる有名な実験を追試出来たのは限られた研究機関だけだったようなのですが、その数少ない実証者のひとりがBoschだったというのを今回初めて知りました。このころは夜も昼も無く研究所に入り浸って学業を行っており、同僚からも学生からも非常に厚い信頼を得ていたとの記述が見受けられます。
(2):一方、こんなトラブルも。Ramsayの追試を実施した頃のクリスマスにBoschが一旦実家に戻った際、お母ちゃんがBoschのために特別に仕立てた(“”gebaut” worden war”)博士課程試験用の一張羅の燕尾スーツを紛失してしまいます。後にお姉さんがこの事件を語ったところによると実はBoschが上記の水銀真空ポンプを送る小包の緩衝材としてその一張羅を強奪したことが判明しています。Bosch曰く「ずいぶんしっかりした生地だったので使わせてもらった(…”Das feierliche Gewand schien … gerade gut genug, als verpackung für physikalisches Gerät zu dienen”)」らしいですがこれはアレですね。もっとも当時はこの実験以外の他のことは全く関係ないほどこの実験に没頭していて身の回りのことはどうでもいいと考えていたフシがあったようですし、筆者の知っている似たようなクリエイターの方も普段着に一切気を遣わない(そういうことを考えている暇が無い)のでこうした面があるのはまぁ仕方ないんでしょう。
・・・なお②→③のところは編入なのか再入学なのかよくわからないのですが、どのタイミングで大学受験資格(Abitur)を取ったのか、Holdermannの書籍[文献1]には書いていませんでした。19世紀末のドイツの大学進学システムものとなるとしばらく調べてからでないとわからんので今回は放置で()。
④:このままアカデミアで化学の道を熱望していたBoschでしたが、ここでもやはり親父さんからの横槍が。それなりに裕福な家庭であったとはいえ、Bosch家は計6人も子供をかかえていましたので実入りの少ないキャリアはどうにも承服できなかったと見えます。そこで行動派の親父さんはWislicenusも巻き込んで家族会議を実施、アカデミアからの離脱を議論することになります。そして就職先としてBosch本人の口から”BASF— Badische Aniline und Soda Fabrik”の名前が出てきたわけです。
そしてBASFへ
・・・ということでBoschにとってはアカデミアが第1希望、就職は第2希望だったんですね。
ただ、行くならこの会社、と本人は決めていたようです。Wislicenusと研究室の先輩からの推薦も理由でしたが、当時のBASFは化学史に燦然と残るスマッシュヒット商品・高度な合成方法実現を連発しており化学会社の中でも飛ぶ鳥を落とす勢いでした。染料の王者Indigoの大量生産、その原料としてのフタル酸合成、硫酸の工業的接触合成法など染料を中心とした化学基本材料を次々と作り上げその成長を国内外に示し続けていました。もちろんBayer, Hoechstも当時勃興した化学会社として存在感を示していたでしょうが、「世界初」を連発する企業で活躍したいと考えるのは優秀な若い化学者にとっては当然のことだったのでしょう。
BASFで大きな成果を示していたHeirich von Brunck(左)とRudolf Knietsch(右)
Brunckはケクレの直弟子、一方Knietschは学位は持っていなかったが
Boschと同様に優秀なメカニカルエンジニアだった
当時のインディゴの合成ルート[文献5,6]
なお硫酸は一番最初の酸化のところで水銀と一緒に使ったらしい
なおここまでにBoschが経験していた知見とスキルは、
●当時最先端の化学、物理化学、物理、鉱物、生物学、天文学に関する理論
●機械加工、冶金、鋳造、製品組み立て、旋盤などを中心とした金属工学 特に親父さんから受け継いだ配管関係の技術技能と知識
●卓越した金属・ガラスも含めた加工技術と分析技術に関する知識
と、現代でもフツーにやってては身に付かないレベルのものばかり。そしてお気づきと思いますがHaber-Bosch法によるアンモニア合成に足らない基本技術はこの時点でガスエンジニアリング技術と触媒に関するリクツだけだったのです(Ostwaldが既にライプチヒ大学で平衡に関する理論構築はしていたので知見としては持っていたようですが)。
そしてBASFに入社してから付き合いだしたElse Schilbach(後の奥さん)に向かい、自分が育ったケルンでのデートのさなかに街角で突然立ち止まってこう言ったと言います。
“Ich werde das Stickstoffproblem lösen!”
「俺は窒素固定の問題を解決してみせる!」
この出来事から50年後にも奥さんはこの出来事を思い出しては語っていたそうなのですが、実際にこの一言を実現させようとするBosch本人の強い意思から20世紀前半にドイツで起きた壮大な化学史の一幕がはじまったのです。
それでは今回はこんなところで。次回はいよいよBoschが残りのピースをそろえ、アンモニア合成法の工業化に至る物語に入ります。
【おまけ】
上記のライプチヒ大学で提出したBoschのPh.D.論文、提示していた構造に間違いがあったことが約100年後に判明しました[文献2]。その論文を調べたのはライプチヒ大学の化学・生物化学科のであったAthanassios Giannis教授(研究室リンク)です。もともと同教授がカールスルーエ大学(Haberが世界で初めてアンモニアを研究室レベルで合成した時の所属大学がカールスルーエ工科大)に居た時通勤時に目にしていたコレ↓
カールスルーエ工科大学の入り口にある例のアレ
1年くらい前にHaberの名前が通りから消される騒ぎが起きた
・・・がずいぶん気になってたようで、ライプチヒ大学に移った後に「有名化学者のポスドク時代~研究者としての大成まで(意訳)」という書籍の出版を準備していた同僚教授ともう少し歴史的に突っ込んで調べてみたのがきっかけのようです。上記のHaber-Bosch法の開発者、ということで連想的に出てきたみたいですね。
で、同氏のエッセイによるとBoschの合成した最終物の分子構造がどうも間違ってたということです。
同エッセイから引用[文献2]
Boschが示していたのは”2″の構造だが、実際には4が正しかった 5は副産物
反応機構を見てみるとかなり込み入ったところでシクロペンテンを巻いており、構造推定が厳しかったんではないかとも思われます。
いや、別に間違ってたからって誰も責めませんし同教授も「分析手法がごくPrimitiveなものであり、我々が現代使っているような機器が無いからしょうがないね」とコメントしていますが、さすがに当のBoschも100年以上経ってから自分の論文、しかも化学者として駆け出しの頃の再検証をされるたぁ思ってなかったんじゃないでしょうか。有名税というのはこういうことを言うのかも知れませン。なおそのフォローのためか同教授は「Boschが合成した分子は応用が効く中間物質として興味深い」と締めくくって評価していますから結果よければ全てよし、としましょう。
Boschの論文を再評価したライプチヒ大学のメンバー
いちおう主筆のGlannis教授にメールは送ってみたが返事無し・・・
[参考文献]
- “Im Banne der Chemie: Carl Bosch Leben und Werk” Karl Holdermann, 1953, Econ Verlag
- “The Mistake in Carl Bosch’s PhD Thesis: A Contribution to Retro-Chemistry”, Georg Thieme Verlag, Synform 2015/11, , A160–A163 リンク
- “NOBLE GAS DISCHARGES” リンク
- “A brief history of Lord Rutherford’s radium”, The Royal Society journal of the history of science, リンク
- “Indigo und indigoide Farbstoffe” docplayer, リンク
- “The history of indigo”, university of new brunswick, リンク