「ケムステ海外研究記」の第19回目は、向井健さんにお願いしました。
向井さんはカリフォルニア大学バークレー校・Richmond Sarpong研に博士研究員として滞在され、難関化合物の全合成研究に取り組んで来られました。実は筆者(副代表)のお隣研究室(井上将行研)出身でもあり、少なからずご縁のある方です。その傑出した人格と実験技術は余人を持って代えがたいようで、井上研スタッフの方々からも破格の信頼を寄せられている一人です。そんな向井さんですが、渡米期間にいろいろなトラブルに巻き込まれてもいたようで、他ではちょっと聞けないエピソードなども今回ご披露頂いています。研究者として理想のサクセスストーリーを無事つかみ取ることが出来るのか?是非ご覧いただければと思います。
Q1. 滞在先では、どんな研究をしていましたか?
留学先であったSarpong研では、【天然物合成+α】を軸に研究を行なっています。ここでの‘+α’は斬新であればなんでも良く、具体的な研究テーマに関してはSarpong先生と一緒に考えていきます。私はというと「生合成に基づいた天然物(Stephacidin類)の全合成研究」を行なっていました(Stephacidin類は、がん細胞に対する強力な細胞毒性を有するため現在も注目を集めている化合物群です)。私にとっての‘+α’は、「生合成仮説に基づいたStephacidin類の合成だけでなく、合成化学者の視点で新たなStephacidin類の生合成仮説を提案できないか?」というものです。
下図で説明すると、1,2,4,5は既に別々の研究グループによって単離報告されている天然物です。また直接的な酸化による1(単量体)→2(単量体)への生合成も提案されています。一方我々は、1(単量体)→3(二量体)→4→5(二量体)→2(単量体)といった二量化と段階的な酸化反応による生合成仮説を今回立案しました。そして私とSarpong先生はこの仮説を基にした合成法を確立できたら、「今後Stephacidin類の生合成に関する研究や構造活性相関研究を見据えた類縁体合成の研究に役立つ!」と考え、研究をスタートさせました。
本研究では私自身、プロジェクトリーダーとして未熟な点も多々ありましたが、Sarpong先生そしてプロジェクトメンバーからの協力と援助があり、留学中に「生合成に基づいたStephacidin類の網羅的な全合成」まで達成することができました。メンバーの中でも特に1の原料であるStephacidin Aのスケールアップ合成のため、インドールのC6位における直接的な官能基化の手法を開発してくれたDr. Santana (現:UNICAMP in Brazil)とFlow Chemistryを使った光反応の導入と11工程からなるStephacidin Aの合成法を確立して下さった廣岡博士(小野薬品工業)にはこの場を借りて心より感謝申し上げます。また本研究の詳細につきましては、最近発表した論文[1]を読んで頂けると幸いです。
Q2. なぜ日本ではなく、海外で研究を行う選択をしたのですか?
正直に言ってしまうと、(新卒としての)日本での就職活動に失敗したためです。そして博士課程修了後も日本での就職を考えましたが年齢的な制約もあり(当時30歳)、民間企業に新卒の研究者として内定を頂けず、研究者として化学に携わることを諦めかけていました。そんな私に、恩師である井上将行先生(東大院薬・教授)から「可能な限りの援助をするから、もっと視野を広げて自分のキャリアプランを考えなさい!」と強く背中を押され、海外留学を決意しました。留学先の選択は大学院時代に5年間ステロイドの全合成研究を行っていたため、自身の強みを生かしつつ、何か新しいことにもチャレンジできる環境を求めて、様々なアプローチで天然物合成をしているSarpong先生の研究室を選びました。
私にとって今回の海外留学の意図は、日本以外でも研究を続けられるだけの研究能力と研究に対する想いがあるかを確認することでした。幸いSarpong先生から認めて貰えるだけの研究成果を出せたことで、日本以外の環境下で研究を続ける自信を持てました。
Q3. 研究留学経験を通じて、良かったこと・悪かったことをそれぞれ教えてください。
良かった点として、様々な分野の専門家と接する機会を持てたことです。例えばSarpong研では博士号取得者が多数在籍し、それぞれ異なる得意分野(例:計算化学、Flow Chemistry、光反応、有機・金属触媒反応、無機化学など)を有しています。そのため様々な角度から自身の研究に関してフィードバックを貰えたことは良かったと思います。また有機系以外の化学者との交流も盛んで、私自身も5回程度研究内容に関してミシガン大学のDavid H. Sherman教授、そしてグループメンバーと直接またはSkypeなどを通して発表や議論する機会に恵まれました。
Sarpong研の研究環境で良かったことは、研究関連のデータファイルをBox (クラウドストレージ)を通して研究室のメンバー間で共有し、活用していたことです。例えば研究の進捗報告会などでは、全員がPCまたはタブレット端末をセミナー室に持参し、Boxからデータファイルをダウンロードして各々のスクリーン上で資料をみながら発表を聞きます。そのため発表者は印刷した発表資料を事前に用意する必要がなく、また研究室としても配布資料を紙ベースで保管する必要がありません。さらにインターネットに繋げば、どんな時にもBoxデータにアクセス可能なため、ちょっとした空き時間(例えば、NMR測定中の待ち時間)にも資料をみながら研究活動を行うことができます。
悪かった点として、Berkeleyは日本(東京)と比べインフラの設備が良くなかったことです。一番驚いたのが停電の発生頻度です。日本で停電と言えば災害時などですが、Berkeley滞在中の2年間で5回以上、突然の停電がありました(自然災害とかではないです)。NMR測定中や実験中、停電により退去命令を知らせる大音量の警報が突然鳴り出すと最初は結構焦ります。さらに停電期間もわからないため、最悪その日からの実験計画が吹き飛びます。ちなみに友人は停電により、エレベーター内に閉じ込められていました。
UC Berkeleyでの研究面で個人的に苦労した点として、今までに習得した装置の操作法などを一から覚え直す必要があったことです。具体例として学生時代私は、JEOL社製のNMR装置を使って測定し、Aliceを使ってNMR解析を行っていました。しかしUC BerkeleyではNMR装置はBruker社製、NMR解析ソフトはMnovaのため、全ての操作法を一から覚え直す必要があり、完全に使いこなすまでに半年間かかりました(ただ一旦慣れてしまうとAliceよりMnovaの方が使い勝手がよく、個人的には好きです。)
Q4. 現地の人々や、所属研究室の雰囲気はどうですか?
Sarpong研はアットホームな感じで、メンバーは親しみやすくフレンドリーです。Sarpong先生自身、ガーナからアメリカに移住し、色々と苦労された経緯もあってか、非米国人に対して理解があります[2]。Sarpong先生の影響もあって、Sarpong研では仲間同士の結束が強く、助け合うことを重視する文化があります。例を挙げるとキリがないのですが、研究面では少しでも良い論文に仕上げるため、作成した下書きを研究室の仲間全員に渡し、全員からフィードバックを受けます。生活面では新しく仲間が加わる際、アパートの手配や生活のセットアップなどに関して研究室メンバーが助けてくれます。個人的に最も助かったのは、Sarpong先生や仲間達が私のアメリカでの就職活動で必要だったCV, Cover Letter, Research Summaryの添削や、面接時(on-site interview)で行うプレゼンテーションの英語指導(発音や言い回し)などをしてもらったことです。
Q5. 渡航前に念入りに準備したこと、現地で困ったことを教えてください。
研究面での万全を期す準備や心構えは当然のこととして、生活面で渡米前に念入りに準備したことは、3点あります。
1点目は、予防接種と歯の治療。
2点目は、私はお酒に強くないので‘ヘパリーゼ’を大量に持参しました。(アメリカ国内には売っていないと思います。)
3点目は、大学のWebサイトやcraigslistなどを徹底的に調べて、留学生活に必要な情報収集を行っていました。ただ留学して分かりましたが、インターネットを通しての情報には限界があり、Skypeやメールなどで現地の日本人留学生(可能であれば同じ立場の方)から直接情報を仕入れるべきでした。そのため留学予定の方は、挨拶も兼ねて現地の日本人に直接連絡を取ることをお勧めします。私自身留学中に日本人または日本在住の留学生から突然メールを受け取り、その後直接またはSkypeを通してUC Berkeleyの環境、制度、雰囲気などを説明したことが何度かありました。
現地で特に困ったことは、3つあります。
1つ目は、渡米して6ヶ月目、深夜12時頃、帰宅途中にて2人組の拳銃強盗に遭ったことです。幸い銃では撃たれませんでしたが、銃身で殴られ4針を縫う怪我を負いました。911に電話→現場検証→調書を作成したり、緊急病院に行ったり、果てはその後警察署で写真を使った犯人識別までしました。救急の医師からは「夜道をイヤホンつけてリュックサックを背負って歩いていたら、絶好のカモだ!」と叱られました。緊急病院での治療費は縫合、破傷風予防の注射、抜糸で合計40万円もかかりました。また写真での犯人識別では髪型・髪の色、そして髭は変えられるため、それ以外から判断しなくてはなりません。結局、全く分かりませんでした。今回の一件、本当に高い授業料でした。日本国は治安がとても良いため、日本の感覚で物事を判断すると、今回のような事件に巻き込まれる可能性が増大します。安全面に関しては、実験と同じでどれだけ注意しても、注意し過ぎることはありません(ちなみにSarpong研の歴史上、拳銃強盗の様な事件に遭遇したのは私が初めてだそうです)。みなさんも留学の際は安全面に十分気をつけて下さい。
2つ目は、J1ビザの注意点について述べます(限定:J1ビザでアメリカに研究留学後、アメリカ企業に対して就職活動を行う日本人の場合)。それはJ1ビザに2年間の帰国義務が課される場合であり、2017年3月の時点ではJ1から他の就労ビザ(H1Bビザ・O1Aビザ・グリーンカード)に直接変更するためには2年間の帰国義務免除申請をしなければなりません。問題点として日本人研究者は事前にアメリカ企業から仕事のオファーを頂かなければ、この手続きをするための許可(No Objection Statement)を、在アメリカ合衆国日本国大使館から得ることができません (例外有り)。この問題は企業から仕事のオファーを貰ってから働き始めるまでに、申請手続きに3ヶ月程度、その後就労ビザ申請のため最短3ヶ月、合計最短6ヶ月間手続きに時間がかかります。一方日本人以外(例:ヨーロッパ人)は、仕事のオファーがなくても帰国義務免除申請が可能なため、通常は就職活動前に免除申請を済ませます。個人的な意見ですが、アメリカは日本のように入社時期が決まっていないため、2年間の帰国義務がJ1ビザに課されると就職活動に不利です(J1ビザで2年間の帰国義務を課されないためには、財団から留学資金を獲得、または受け入れ先の先生の研究費から留学費用を全額出してもらう必要があります)。
3つ目は、カリフォルニア州税の支払いについてです(CA州ではJビザの滞在日数テストの例外が適用外となり、日本からの所得に関しても全額が課税対象<世界の総所得>となります)。私の場合、税務に関しての書類作成や制度に関して合計一週間以上勉強しましたが、CA州税に関しては書類を作成できず、最終的には米国と日本の税務に詳しい米国の会計事務所に$500支払って、CA州税の書類作成をお願いしました。
Q6. 海外経験を、将来どのように活かしていきたいですか?
海外留学中は、大きな困難に直面することが多々ありました。そんな時私が躊躇すると、Sarpong先生は決まって「待っていても誰も助けてはくれない。だから今のこの状況をチャンスと捉え、自ら行動しなさい!」(日本語訳)と言われました。一つ具体例を挙げると、全合成の論文投稿直前にACIEに半分同じ内容の論文が公開され、一時期かなり落ち込んだことがありました。それでもこの言葉のお陰で、研究の方向性を上記で述べた内容へと大きく変更し、それから一年後、書き直した論文がNature Chemistryに掲載された時の喜びは格別でした。そのため次また苦しい状況に陥った際も、困難をチャンスと捉え、新たな成果へと繋げていきたいと思います。
Q7. 最後に、日本の読者の方々にメッセージをお願いします。
色々とありましたが、研究留学して結果的に良かったと思います。一番の理由は、多くの友人+日本の諸先輩方との良き出会いです。毎日研究の問題点などを真剣に議論したり、慣れない地での事件や就職活動の苦労を愚痴ったりと、仲間達と生活を共にする中で信頼関係を築くことができたと思います。そしてそんな仲間から貰える率直な意見は貴重ですし、それによって私自身の視野を広げ、凝り固まった考え方を変える手助けになったと思います。あと海外に友人がいると海外旅行の際に楽しみが増えることも海外留学のメリットです!
最後にSarpong先生の人柄についてですが、とても面倒見の良い先生だと思いました。実際私がアメリカでの就職活動に苦戦していたとき、「今君を評価してくれる会社は見つからないけど、アメリカには会社なんて腐る程あるから絶対に諦めるな!例えもし君が見つけられなくても、俺が必ず見つけてやる!!」と言われたときは、かなり鼓舞されたことを覚えています[余談ですが、東南アジアやEU圏ではなく、アメリカで就職活動をすることを決めた理由は、2015年頃からアメリカでは有機化学者の需要が高まり、大手からベンチャーまでの製薬・化学企業から(年齢・国籍・性別に制限がない)Ph.D.所持者の求人が大量にあったためです。そして私自身も、無事米国の製薬企業から研究職の内定を頂くことができました]。Sarpong先生とのエピソードを挙げればキリがないですが、天然物合成の分野で留学を検討中の方がいれば、個人的にはSarpong研をお勧めしたいです。
関連論文・参考資料
- Mukai, K.; de Sant’Ana, D. P.; Hirooka, Y.; Mercado-Marin, E. V.; Stephens, D. E.; Kou, K. G. M.; Richter S. C.; Kelley, N.; Sarpong, R. Nature Chem. 2018, 10, 38-44. doi:10.1038/nchem.2862
- Richmond Sarpong | TEDxBerkeley: The face of disease in Sub-Saharan Africa
研究者の略歴
名前:向井 健 (むかい けん) [博士(薬学)]
2009-2014年: 東京大学大学院薬学系研究科統合薬学専攻 有機反応化学教室(井上将行教授)に所属(修士・博士)
2015-2017年: カリフォルニア大学バークレー校 博士研究員 The Sarpong Group (Richmond Sarpong教授)に所属
2017-現在: 早稲田大学理工学術院総合研究所 招聘研究員 機能有機化学教室(鹿又宣弘教授)に所属
研究テーマ:
大学院時代:官能基密集型ステロイドの全合成
ポスドク時代:生合成に基づいたインドールアルカロイドの網羅的合成
現在:シクロファン骨格を有する面不斉ピリジン配位子の開発と機能解明
海外研究歴:2年3ヶ月