Tshozoです。前回の続き、早速参ります。
筆者のフォルダが火を噴く動画集 おそらく現存して公開されている
唯一のBoschの動画(Nobelprize.orgのこのページより引用)
BASFのUnternehmensarchiveにはあると聞いたが真偽不明
前回はCarl Bosch “カール・ボッシュ” の祖父と親父さんのことを書きました。今回は幼少期と大学卒業までを書いていきます・・・の前にちょっと、当時の時代背景を少し。ここらへんの時代背景は少し特殊で、何故化学を中心とした凄まじいまでの産業勃興が、産業革命の起きたイギリスではなくまたフランスでもなくドイツで起きたのか、しかも化学だけでなく工学、物理学も含めたその”Wissenschaft”の発展はおそらく史上稀に見るレベルであったのか、その歴史の流れをきちんと記録しておかないとBosch達の動きそのものや思想が少し唐突なものに感じると思われたので。
そこで、1700年~1880年に起きていた時代背景をメモ代わりに記述してから、Boschの子供時代を書いてみます。
Boschが生まれる前の時代の流れ
前述の「天牛書店」にて仕入れた「ネルンストの世界」(岩波書店・1976年初版[文献2]・再版なしのもよう)に依りました。この本は有名な音楽家メンデルスゾーンの系譜を継いだ物理化学者クルト・メンデルスゾーンによる貴重な科学と歴史の記録で、当時の天才&科学プロデューサのひとりであり熱力学第三法則の発見者でもあるNernstの人となりと、彼を中心に活躍した科学者たちの活躍を記録した名著です。
それによりますと、まずドイツは石炭以外に資源があまりなく、産業発展もイギリス等と比較するとまだまだ劣っていて、神聖ローマ帝国とか言ってる場合じゃなかったようです。そんなですからオーストリアにデカい顔されてましたし近隣諸国にはチクチク苛められてる、そういう状況でありました。この段落、色々と雑なので批判はお受けします。
で、転換に至った事の発端はBoschの生まれ故郷であるシュヴァーベン地方に祖を持つ名家ホーエンツォレルン家の末裔であるフリードリヒ1世とフリードリヒ2世の行動です。後者はいわゆるKartoffelkönigと呼ばれるジャガイモ王子ですね。いずれの代ももともと地方ヤクザ集団っぽい存在だったドイツ騎士民団を解散させた後、国家に隷属する形で軍隊を増強して中央集権化をはかりながらあっちこちに抗争をしかけるというめーわくな国家の構築を推進していました。しかしそれだけでなくナントの勅令廃止によって迫害されていたフランスのカルヴァン系改革派教会所属のユグノー達を引き受け、彼らを中心として経済と藝術、特に音楽の面での勃興を促していきます。これらの結果として、北部ドイツの片田舎(失礼)の地方貴族所領であったプロイセン公国は発展をとげることなり、その結果軍隊を中心としつつも文化と藝術をはぐくんだ奇妙な国家体制の下地が出来上がることになりました。
プロイセン国領の変遷(Wikipediaより)
赤→橙→緑→青の順に200年近くかけて軍事力・経済力を基礎に拡大した
これに加え、上記の2大王が退位した後にナポレオンがドンドコ進んできた時にはボコボコにされてしまった(2回目ではね返しましたが)こともあり、そこでいっそう愛国主義的・隷属的な軍隊思想が強化されたことも影響を与えているようです。19世紀前半は自由闊達な民主主義的活動も起きていたようですが結局大学も中央集権化の波に逆らえず、大哲学者ヘーゲルも国家への奉仕を訴えかける(本人はあくまで教育の一環として活動していたもようですが)理屈をこね上げてその流れに乗る方向にいたため、後世で御用学者という面白くないレッテルを貼られてしまう始末。より良き人間としての精神性を重んじたと言われるヨハン・ゴットフリート・フィヒテやシュライエルマハーと仲たがいしてしまったのも何とも複雑な気分だったでしょう(ヘーゲル本人の強い希望でお墓はフィヒテの隣にありますが)。
この精神性の”劣化”についてメンデルスゾーンは「奴隷根性的な服従性」というようなひどい表現をしていますが、結局軍人をベースとした国家づくりというのはいわゆる大日本帝国でも見られたように「義務と奉仕」を半永久的に構成員に要求し続けることに尽きるわけです。さらにこの国家のもとで宰相となった政治の天才ビスマルクが経済に対しても同様の効果を生むための指導原理として利用したのは、レオポルト・ランケ、ヨハン・ドロイセン、ハインリヒ・トライチュケらを中心としたフランクフルト系歴史的浪漫懐古主義の思想でした。要は「プロイセンによる大ドイツ統一」を神話と歴史と精神世界によって正当化しつつ、その基礎を置いた軍隊へ貢献できるように経済も国家に組み込んだわけです。
具体的には軍隊への物資の製造と輸送、鉄道などの流通、それに関わる産業。拡大していく国家はあっちこっちから賠償金という形で国内の産業に再投資し国力を強化させていきました。そうした中で学問の府である大学もそれまで以上に国家に組み込まれていくわけですがそれはもう少し先のおはなし。ただ以前Ph.D.の起源についても書いたとおり(こちら と こちら)、フランスからのPh.D.による研究文化の伝播やヘルムホルツ、キルヒホッフ、マグヌス、ホフマンらのスター学者の登場により理工学系の地力は凄まじい速度で向上していっていました。
本件の主人公 Carl Bosch “カール・ボッシュ” が生まれたのは、このように軍事力と経済(工業)によって国土を拡充・発展しながらドイツ統一の盟主として立場を固めたプロイセンがこのようにビスマルク(とヴィルヘルム1世・2世)によって奇妙な復古的・懐古的思想にもとづき「なにものか」へ突進しつつあるさなかのことで、経済の発展と国家が拡大していく勢いの中で結構な数の経済的中間層が生まれ、科学(Wissenshaft)に立脚した教育が為されることで才能ある若者たちが活躍できる場が多数生まれていた、そんな時代だったわけです。
子供時代~大学卒業まで
ということで話を戻してBosch本人の子供時代。6人兄弟の長男として産まれたのはケルンの「Alexianerstrasse 7番地」のところでしたが、実際に幼少期の大部分を過ごしたのは同じくケルンの「Rubensstrasse 30番地」の家(借家)でした。古都の市庁舎の近くの割には近くに大きな湿地帯が残っていて虫や小動物を捕まえちゃ家に持ち帰ってきており、親父さんも似たような趣味があったというのも強く影響していたのでしょう。ケルン近辺には本人の名前が付いた道が残ってますが(“Karl”で綴りが違うので人違いかも・・・)、ストリートビューをあちこち見ても記念プレートとか無いのが残念です。
子供時代の写真 一発で分かると思うが美少年の面影がある
親父さんは科学や自然や動物に親しみ、子供に決して手を上げず(…Der Vater hatte seine besonderen Erziehungsgrundsaetze, die darauf hinausliefen, gar nichit zu strafen…)、何かしでかした時には忍耐強く説明する(Mit unendlicher Gedud erklaerte er ihnen, warum etwas falsch gemacht worden war…)という父親の理想像を体現したような人で、Boschはこの父のもとで大した病気もせずに頑健に育っていきます。
また親父さんが配管類(Gas-und Wasserleitungsartikel)の取扱い商店をやっていたのは前に書いたとおりですが、配管加工用器具がそこらじゅうに設置してあったうえ、親父さんもBoschに好きに使わせていたもんだから迷うことなく機械をいじり倒すメカギークへとまっしぐらに進みます。特に高校生くらいの年齢さらに引っ越した先(Agathastrasse 3・もう駐車場と店舗になってて何も残ってないみたい)の家は商店兼工場兼住居、という感じだったので、裏小屋で怪しい化学実験を開始するようになります。本書にはBoschが高校生くらいまでにしでかしたこととして4つほど面白いエピソードが書かれており、
①お袋さんのミシンをバラバラにしたうえ、組み立て直したミシンには部品が足らなかった
②両親のマホガニー製高級ベッドをカンナで削りたおして小さくした
③現代価格換算で数万円するような高価なガラス器具を誕生日にゴネて買った
④静電式発電機に使う硫黄のカタマリを溶かして成形するのに台所を使って加熱したもんだから
新品の銅食器が硫化して真っ黒になった
などと結構とんでもないことをしていたようです。全部お母ちゃん激怒(aergerlich)か驚き(geschrocken)とかの単語が文中に並んでいたので家人から見れば悪ガキ兼悪戯小僧だったのでしょう。ただ本人の名誉のために書いておくと、①は親父さんが最終的にきちんと直しましたし、②は親父さんが「もう少しベッドが小さいといいなぁ」と言ったのを真に受けたためだということでした。
あと④はともかく③は確信犯ですね。この③のエピソードは一番詳しく書かれていて、細々と貯めたお小遣いでガラス器具屋に行って買うのはいいんですが大体の場合高価でお金が足らない。そこで一計を案じて、買ったことにして請求書と一緒に家にモノを送ってもらい、お母ちゃんに
「モノが送られてくるから受け取っといて! これお金! 足らない分はごめんけど払っといて!」
(Wenn es etwas mehr sein sollte, lege es bitte aus!)
とお願いした後逃走。お母ちゃんが受け取る時その差額にお怒りになる、ということを見越しての行動でなかなかの策士っぷりです。前回アップした父ちゃんと母ちゃんの写真で、母ちゃんの方が苦虫を噛み潰していたような顔をしていたのはきっとこういうことに依るんでしょう。この長男を筆頭に言うこと聞かない子供が合計6人もいたらそりゃしんどいでしょう。あと前回書き忘れたのですが祖父さんのServatius Boschには12人子供がいまして、叔父さんのRobert Boschはその11番目の子供だったとのこと。なんともここらへんの方々は迫力が違いますなぁ。
まぁそうは言っても自然科学の分野では圧倒的に良い成績を見せつけており、Oberrealschule(実科学校)では語学の発音部門以外は全て”Sehr Gut”で通ったようにこの悪戯小僧はただものではなく、優等生でもあったんですね。こうして希望通りAbitur(大学受験資格)を得て化学の道へ邁進することになる・・・
わけではないのです。楽々希望大学に入ってこのままVladimir Prelogへとその系譜を繋げるWislicenusのところで研究を開始し、BASFに難なく入るって話を予想していたのですけど、どうもそうじゃないようで。ライプチヒ大学へ入る前に、後にアンモニア高圧合成技術に寄与する重要な基礎技術を手にすることになるのですが・・・
諸々の葛藤の後に入ったシャルロッテンブルグ工科大学での学生連合の友人との写真
美少年はいなくなって代わりにオッサンが出てきた(前列左から1番目)
ちょっと長くなったので今回はここらへんで。
次回はOberrealschuleを卒業してから、BASFに入るまでくらいを書いていきましょう。
おまけ
著者のKarl Holdermannに関して色々調べていたところ、子孫の方(Steffen Schneider氏)がアメリカのこの農業団体で活躍していることがわかりました。ご本人がこのエッセイで「My great-grandfather Karl Holdermann」と書いてますからこの方のひいじいさんということで間違いないでしょう。この方は工業的・大規模的とは異なる方向の農業を模索されているようなのですが、曽祖父~祖父~親父さん、叔父さん含めて全員BASFに勤めてたみたいです。この方の活動はそうした風潮に対する反発でなのかもしれませんが、いずれにしろ色々興味深いところです。もしBoschが生きていたら何と言うか、想像は出来ますけど。
参考文献
1. “Im Banne der Chemie; Carl Bosch Leben und Werk” Econ Verlag, 1953, Karl Holdermann