前回のつづき、早速まいりましょう。前半はソ連のスターリン全盛の時代に共産党的プロパガンダを纏いつつ(似非)社会主義的科学を主張したルィセンコがソ連農学アカデミ―会長まで上り詰めたところまででした。今回はその騒動の前後で犠牲となってしまった中心人物の詳細を紹介し、色々と分析してみます。
【ニコライ・ヴァヴィロフについて】
当時、ソ連の科学者たちがルィセンコの学説に無力だったわけではありません。ルィセンコの言う「獲得形質遺伝」説が生物学の全てを支配するという論に対して真っ向から反対した優秀な学者の急先鋒にニコライ・ヴァヴィロフやニコライ・コルトソフがいました。特にヴァヴィロフはメンデル遺伝学を再発見して当時代に合うように再構築したウィリアム・ベイトソンの流れをくむ当代一流の遺伝生物学者で、世界中を回って穀物の植生を調査し、植生範囲とその系列・分類を明確にするのに加え穀物の種子の重要性を理解し、世界初(のはず)の種子保存センターを作るなど、いわゆる「緑の革命」の基礎を作った偉大な植物学者・遺伝学者でした。
ニコライ・ヴァヴィロフ 文献1より引用
一説には「植物学のメンデレーエフ」[文献2]と称えられるほど高名な学者で、当時の植物を基礎とした遺伝学と農学に大きな影響を与え当時ソ連の当代きっての名科学者だったわけです。国際的な科学者の間でも高く評価されており、上記のベイトソンをはじめ師匠であるエルンスト・ヘッケル、古典遺伝学の祖であるトーマス・ハンツ・モルガンなどとも親交があったため、メンデル遺伝学の遺伝要因(当時はDNAの存在はまだ明確なものではなかったですが)を基礎とした最新の科学にも精通していたことから、ソ連の農業分野の指導者たる存在で実際そうした立場にありました。1930年前半までは。
・・・お気づきのとおり、この後もソ連で高い地位を築いて生きていくにあたり、彼には2つの致命傷がありました。一つは裕福な商家の息子として生まれたという点。もう一つはメンデル遺伝学を主張していた点です。
当時共産国家の指導者として絶対的権力を自身に集中させようとしていたスターリンは、科学的な確実性はどうでもいいので農業を中心とする労働者をまとめていく象徴的存在(広告塔)を必要としていました。それがルィセンコです。出自はともかくその科学者らしからぬテキトーっぷりに加えて「プロレタリア農業」とかいう胡散臭い主張を繰り返し労働者の見方を標榜する、世渡りお上手君(実際ルィセンコの主張はほとんど実際に役立つことなく、アカデミーの会長となってからは実験一つすら行わなかったと言います[文献2])。スターリンに取り入りその役目を果たすことになります。
”鉄人” ヨシフ・スターリン 本名ヨシフ・ヴィッサリオノヴィッチ・ジュガシヴィリ
あのだだっ広いソ連を強大な権力を築いて率いた前人未到の超人であり変態
社会主義を標榜した独裁国家のほぼ全てが彼をモデルにしている
【注:スターリンもスターリンで、ルィセンコをあくまで道具としてしかとらえておらず、ルィセンコ本人から上がってくる報告書には「バカかこいつは」的なコメントを書き込んでいたようです。特に「ブルジョワ生物学」とかとんでもない用語についてはかなり批判的で、全ての報告書からこの言葉を削除したということが明らかになっているようです[下記赤線部・文は文献3]】
この文章を書いたのは1970年代にルィセンコの悪行を海外に向けて知らしめた”Zhores Medvedev”氏
1969年に英訳された同氏の書籍”The Rise and Fall of T.D. Lysenko”が
今のところ一番史実に近い立場からの叙述と思われる
こうした内実はともかく、労働者を党が強力に統率していくというどっかで聞いたような政府の方針に対しヴァヴィロフがいることは非常に都合が悪かった。彼(ヴァヴィロフ)が、行動の基準が「遺伝学をもとに科学的な正しさを追求する」というまっとうな学者であったこと自体が問題となってしまいました。こうした政治的な打算がはたらいた結果、作物増産を”額に汗した労働の成果”として推し進めたい共産党が広告塔として選択したのはルィセンコ。優秀な科学者が考え出した学問に基づく統率によって圧倒的穀物高を得た、ということでは党の立つ瀬がないわけです。加えてこの騒動の間、科学者としてルィセンコの主張を看過できなかったヴァヴィロフはルィセンコのデータが科学的かつ統計的に正しくないことを示してボコボコにしてしまいました。これに対するルィセンコの反応は早い話がオバサンのヒステリーレベルなので省略。
しかしもはや科学的どうこうではなく、スターリンに服従するかどうかでその後の立場が決まるという段階であった、つまりこの時点でヴァヴィロフが対決していたのはルィセンコではなくスターリンであったということに気づくのが遅れたのが彼の痛恨の一撃となったわけです。色々見ていたところの彼の性格を考えるとまぁスターリンに対しても食ってかかりそうな気がしますから結末は一緒だったのでしょうが・・・
ということで前編で述べたようにルィセンコが農業科学部門で権力を掌握する少し前の1935年、ヴァヴィロフはアカデミートップの職を辞めさせられ、周囲の人間がNKVD(悪名高きチェーカーの後継部門・旧KGBの前身)に殺されていくという悲劇の中で、
“We shall go to the pyre, we shall burn,
but we shall not retreat from our convictions.”
「火葬場に放り込まれて焼かれようが、我々(「正統派」遺伝学者)は絶対に信念を曲げない」
という言葉を残しその後ウクライナ西部の農場視察中にNKVDに「イギリスとスパイとして内通した」というでっち上げの容疑のもと拘束され、そのままシナリオで決まった裁判で死罪(のち禁固20年に減刑)とされます。結局その後1943年に栄養失調と心疾患で55歳という若さの中この世を去ることになりました。また冒頭に挙げたニコライ・コルトソフもこの前後でNKVDに毒殺されたとのうわさがあり(真偽調査中)、まったくろくでもない世界だと感じずにいられませんでした。
ヴァヴィロフが閉じ込められていた建物と独房
筆者なら数日で気が狂うレベル(文献1)
【その後~彼(ヴァヴィロフ)は愚かだったか】
こうして悲惨な最期を迎えたヴァヴィロフでしたが、彼が残した膨大な種子や根などの植物コレクションは第二次世界大戦中の「人肉が売られた」という話が流れるほど凄惨を極めたドイツ第三帝国とのレニングラード包囲戦の中でも辛うじて保管され、その後の植物学の貴重な標本として残されることになります(現在も研究所は継続しています)。こうした背景にはヴァヴィロフの人格と思想が研究員に大きく影響していたことがあったためと考えられ、このレニングラード戦の中でも貴重な種を食べずに餓死した研究員が何人もいたという話が残っています[文献1]。
ただ、そもそも政治的な風向きが怪しい状況で騒がずに黙ってりゃいいのに、と思いますよね。中国で過去に毛沢東が引き起こしたの大政治極悪キャンペーンのひとつであった文化大革命のとき、本当に賢い人は何も言わずじっと耐えて黙ってやり過ごした(それでも多くの人が悲劇的な目に遭うことになりましたが・・・)ということを聞くと、あまり書きたくはないのですがヴァヴィロフは一面的には「賢くなかった」ということになるのかと思います。ヴァヴィロフ自身はペレストロイカを通じて名誉回復はされたようなのですが、死人がそんなもん受け取れるわけがないですよ。
なおヴァヴィロフのレベルまで行かなくても筆者の周りでも「人事権or生殺与奪を握ってる者」と上手くやれない人種は世の中に一定数存在します。だいたい根本的に人格的に良い人で自分なりの信念があり曲がったことが嫌いな中道左派的なポジションにおり、義理人情に篤い方が多い。というか人間的に非常に立派な方がほとんど。そうした方々は自分より全体の影響やサイエンスとして正当かどうか、を考えていることから異論に対し正論を押し通そうとするケースが多々あり、それが権力者思考の人間のカンに障るのでしょう(本当にごくごく稀に両方兼ね備えてる権力者もお見えになります)。で、そうした方々、9割方不遇のまま組織を去って行かれることが多い。筆者の見てきた中にはとある商品についてほとんどの業績を彼(彼ら)がやったのに権力者側の都合で追い出された、ということも多数回見てきました。
このように結局科学者や技術者と言えども商売や産業を骨格とする組織に属す以上は「使用人」である、という面を持つかぎり、逆らうことのリスクを考えて組織人生を歩んで行かねばならんということは何とも世知辛い話ではあります。文豪夏目漱石が「草枕」の冒頭に書いた
『智(ち)に働けば角(かど)
が立つ。情に棹(さお)させば流される。意地を通せば窮屈だ。とかくに人の世は住みにくい』
を地で行っているという、かえすがえすもなんとも世知辛い世の中であると実感する今日このごろです。
【その後のルィセンコ:「仮説のイデオロギー化」の恐ろしさ】
・・・イデオロギーとはフランスの何とかいう学者が定義した言葉で、「概念の科学」(思想科学?)を指していたのが元々の意味だったようです。しかし筆者が大嫌いなカール・マルクスが階級闘争というめんどくさい活動と結び付けてしまったという微妙なルートを辿ったわけで。要は「政治的な考え方の枠組み」、と言った方がわかりやすいでしょう。ソ連ではその言葉をマルクスの言った通りに使っていた時期があって、ルィセンコもそれを科学に持ち込んだのは述べてきたとおり。つまり「俺の説はプロレタリアート的(労働者的)であり、ヴァヴィロフのはブルジョワ的(資本家的)だ」と。現代でたとえて言うならば、「あいつは中韓メーカに行った、売国奴だ」とか。ちがうかな。或いは「俺の研究室から逃げ出した、とんでもない奴だ」とか・・・違うかな。
ともかく彼は自説を押し通して出世するため、このイデオロギーを科学に織り込むことを国家レベルでやっちまったわけですね。スケールはでかいのはいいのですがたぶん方向性が間違っている。
こうしてルィセンコは科学よりも政治を優先し、科学をイデオロギーと結び付けてわかったようなフリをして周囲の多数の人間を地獄へ突き落としました。一説によるとこのクソのような学説を推し進めたせいで農業がボロボロになって国力がガタ落ちしてソ連崩壊にすらつながった、とする論評もあるくらいでした。加えてルィセンコ学説を中国の偉大な革命家毛沢東が恐怖の五か年計画に取り込んでしまって飢饉を引き起こし、一時的に国力がガタ落ちしたのは薀蓄に近いおまけ話です。ご立派なマオ先生も科学には頭を突っ込まずにいりゃよかったのに・・・ご立派な革命家だったのでしょうけど一番偉大な周恩来を使い倒した暴君という印象しか持てません、正直。
筆者はこの人が大嫌いなのでやらかした詳細と一緒に貼り付けておきます
文献1より引用
ということでドイツ初代インテリ、ゲーテの言葉に「活動的な馬鹿ほど怖いものはない(Es ist nichts schrecklicher als eine tätige Unwissenheit.)」というものや、ナポレオンの言葉として伝わるものに「真に恐れるべきは有能な敵ではなく無能な味方である」という言葉があるわけですが、ルィセンコは〇BKT同様にこれを地でやっちまったんですね。まぁソ連だけでなく中国をはじめとした共産主義国の国力まで削いでくれたわけですから資本主義陣営にしてみりゃ勇気百倍、といった状況だったことでしょう。
こうした失政による大混乱はさすがに看過されず、結局科学者として何の成果も残せないまま1960年代後半くらいにルィセンコは『ようやく』失脚、ソ連の科学の状況はようやく軌道上に戻ります。しかしこの数十年間で生物学・農学と言う面では欧米ととんでもなく大きな差を生んだことは上記の五か年計画の失政やその後のソ連の国力低下をみても明らか(宇宙開発除く)。ルィセンコが実は欧米の二重スパイだったと言われても信じてしまうくらい効果的な無能だったと言えましょう。
スターリン権力最高潮時のルィセンコ[文献1]
無能だと周りが思っていても逆らうと
ヴァヴィロフと同様になるので手が付けられなかった
今の日本でも頻繁に発生する構図
翻って現代、遺伝子やら何やらで怪物のような作物や動物がフツーに数年くらいで出て来てしまうような時代においては今まで以上にルィセンコ系が出やすくなっているという気がします。世間的にもOBKTの例や水素水、子宮がんワクチン接種に関する健康障害騒動(筆者は村中さんの活動の方に正当性があると思う側です)、がんは放っておきなさい、等、枚挙に暇が無い。要は科学が魔術化し人を騙しやすくなっているわけです。或いは極例外的な事例を一般化してデマゴーグ化する輩が発生しやすくなってる。そういう時に人間の無知や心や弱さにつけこんで個人の都合やメンツの都合、商売の都合だけから動くような恐ろしい輩はそこかしこに居り、いつでも妖怪として具現化しようとしていることは全員が警戒すべき話なのでしょう。
なおルィセンコのようなことをやる人間の共通点として、上記のように科学の枠内でなく別の分野(人事とか業務妨害まがいのこと)で殴りに来るとか、人の予算を奪いに来るとか、成果を奪うとか、卑怯と言うかもはや科学者や技術者を名乗れないであろう行動に出ることがあります。現組織においても最近、まだまだ若いのにそういうことをやり出す人間を見てきており、世も末だなと思わざるを得ないです。筆者は4人姉妹の末っ子なのですが女の嫉妬より男の嫉妬の方が何倍も恐ろしいと感じることが多々あるのも、また恐ろしい話です。正直もう妖怪だらけだという気がしないでもないのですけど。
そう考えると現在においても当時の状況やソ連を笑えることではなく、「人間、金が欲しかったり出世したかったり有名になりたかったり切羽詰まったり気に入らなかったりすると何でもやってくる」という厳然たる事実がある以上、こうしたコント・・・もとい悲劇は現代でも必ず発生しうるということは肝に銘じ、どっちの側に居たとしても逃げ道なり防御策なりは用意して、強く賢く生きていかねばならんのだと痛感するしだいです。それ以前に優しく優秀じゃなきゃいかんでしょうし、そもそも加害者になっちゃいかんですよ。そっち側に回ったら人間そこでお終いだ、という最低限のラインは持っておきたいもんです。こうした考えが古いのは筆者が昭和の人間だからということでなにとぞご了承いただきたく。
・・・と、ここらへんまではあんまり救いの無い話ばっかなのですが、さすがに面白くないので以下ちょっとは希望につながることを。途中で挙げた夏目漱石「草枕」の冒頭言、これにはつづきがあるのです。
・・・どこへ越しても住みにくいと悟った時、詩が生れて、画が出来る。
人の世を作ったものは神でもなければ鬼でもない。やはり向う三軒両隣りにちらちらするただの人である。ただの人が作った人の世が住みにくいからとて、越す国はあるまい。あれば人でなしの国へ行くばかりだ。人でなしの国は人の世よりもなお住みにくかろう。
越す事のならぬ世が住みにくければ、住みにくい所をどれほどか、寛容て、束の間の命を、束の間でも住みよくせねばならぬ。ここに詩人という天職が出来て、ここに画家という使命が降る。あらゆる芸術の士は人の世を長閑にし、人の心を豊かにするが故に尊とい。
藝術は科学とよく似ている、と言ったのはかのCarl Boschですが、それを正しいと信ずる側に居る以上、人でなしの国にならんことを信じて何とか毎日やっていくしかありますまい。
それでは今回はこんなところで。
【蛇足ながら】
今回はルイセンコ騒動での加害者と被害者の話をざっくりと書きましたが、日本国内でのルィセンコ騒動の影響を書いたものは中村禎里氏が書いたこちらの書物に詳しいです。・・・が(中村氏は故人になられていますので失礼を承知で記載しますと)、筆者にとっては非常に読みにくく有名な古本屋(大阪 天牛書店)で買ってから1年くらいほったらかしにしていました。
先日これではいかんと必死こいて1週間かけて読んだのですがやっぱりよくわからない・・・その理由はこの本がルィセンコが実際に行っていたことや科学的な検証にあまり焦点を当てずに昭和初期に日本に入ってきたルィセンコの仮説に対する国内の学会の反応を事細かに書き、しかもそれを逐一追って紹介するという文章スタイルを取っているからでした。しかもそれが紙面の半分近くを占めているという、要は対岸の火事に対する床屋談義のごとくです。
その本(1967年あたりに出た原書)
まぁ当時はソ連で何が起きてるとか直接情報は入ってこない状況で日本とも気候・風土が大きく違う場での学説でしたから真偽とかなかなか確かめようがなかったのに加え、今以上に共産圏の影響も強かったから科学的な真偽から離れたところでこうした論争が発生したのは仕方ないと言えるでしょう。その床屋談義が非常に長かったため本書は相当に斜め読みとしました(ォィ)が、海外で流行ってるからどうこう、というような今もよく見る図式は50年間あんまり変わってないという気もして色々と陰鬱な気分になったのが正直なところです。数少ない貴重な内容としてはヴァヴィロフが植物採集のための諸国漫遊をしていた時に会った木原均京大教授との「大根」に関するエピソードが出ている点くらいな印象であるのは、筆者の読解力が不足しているためであることにさせてください。
【参考文献】
- “Nikolai Ivanovich Vavilov: Plant Geographer, Geneticist, Martyr of Science”, Jules Janick, HORTSCIENCE VOL. 50(6) JUNE 2015
- “The Lysenko effect: undermining the autonomy of science”, Endeavour Vol.29 No.4 December 2005
- “Lysenko and Stalin” Z. Medvedev, Mutation Research, 462 2000, 3–11
- “草枕” 夏目漱石 リンク
- “ルィセンコ論争” 中村禎里 みすず書房より新装版あり リンク