第126回のスポットライトリサーチは、東京大学大学院工学系研究科(相田卓三教授) 博士後期課程1年の上田 倫久(うえだ みちひさ)さんです。
相田研究室は超分子化学や材料科学など、多くの研究分野において世界のトップランナーを走っている稀有な研究室です。
今回インタビューさせていただいた上田さんは相田研において、「π共役化合物の励起状態の芳香族性」という興味深い現象に鋭く切り込んだ研究をされました。その成果を発表した平成29年度光化学討論会において、最優秀学生発表賞(口頭、Photochemical & Photobiological Sciences Presentation Prize)に選ばれています。また受賞対象となった研究内容は最近、Nature Communications誌に掲載されました。
Michihisa Ueda, Kjell Jorner, Young Mo Sung, Tadashi Mori, Qi Xiao, Dongho Kim, Henrik Ottosson, Takuzo Aida, and Yoshimitsu Itoh
”Energetics of Baird aromaticity supported by inversion of photoexcited chiral [4n]annulene derivatives”
Nature Commun. 2017, 8, 346. DOI: 10.1038/s41467-017-00382-1
上田さんについて、一緒に研究をしている伊藤喜光講師から以下のようなコメントをいただいています。
この研究が今の形に収まったのはいったいいつの頃だったか...上田君が4年生で研究室に配属された当初、この研究はリニアなオリゴチオフェンの研究のはずでした。持ち前の手際の良さで実験を進めて行く最中、得られた複数の副生成物の中にキラルな環状の生成物を複数発見しました。どうやらこちらの方が面白そうだと方向転換したものの、まだ今の論文の形は見えていません。出会ってしまったこの美しい化合物達をどうにかして世に出そうと共にもがく中、転機が訪れたのは2015年のゴードン会議(Physical Organic Chemistry)。彼はこの会議で、3種の環状オリゴチオフェンがおこす基底状態での環反転反応の比較研究でポスター賞に輝くのですが、そこで出会ったスウェーデン、ウプサラ大学の准教授Henrik Ottossonと博士課程学生のKjell Jornerの二人によるBaird則へのいざないがあり、現在ある論文の形がおぼろげながら見えてきたように思います。その後多くの実験と国(日本、スウェーデン、韓国)や分野をまたいだディスカッションを経てようやく論文が日の目を見ることになりました。ここまで紆余曲折がある研究も珍しく、これをやってのけた上田君はsecond to noneであることは間違いありません。今後がとても楽しみな学生さんです。
伊藤喜光
余談ですが、筆者は2015年の基礎有機化学討論会で上田さんにお会いしたことがあります。当時M1の学生さんでしたが、M1とは思えないほど聡明な研究者であるという印象を受けました。この度はご受賞おめでとうございます!それではインタビューをどうぞ。
Q1. 今回の受賞対象となったのはどんな研究ですか?
「芳香族性」は有機化学を学んだことがある人なら必ず聞いたことがある言葉だと思います。芳香族性は定義が難しい概念ですが、その本質は分子のエネルギー的な安定化にあります。例えば、Hückel則として知られる「基底状態の芳香族性」においては、有名なベンゼンの水素化熱実験によって、初めて安定化エネルギーが実験的に評価されました。一方で、種々の光化学現象の説明に用いられ、近年注目を集めている「励起状態の芳香族性」においては、Bairdの理論提唱後、誰も安定化エネルギーを実験的に議論できていませんでした。本研究では、この「励起状態の芳香族性」の持つ安定化効果を初めてエネルギーの値として評価することに成功しました。
今回の主役は中心に8π電子系を持つキラルなチオフェン環状四量体です。この分子は平面遷移状態を経由する環反転反応によるラセミ化を起こしますが、この遷移状態において、基底状態では不安定な反芳香族性(Hückel則)を、励起状態では安定な芳香族性(Baird則)を示すことがわかりました。我々はこの反応の活性化障壁を両電子状態で求めて比較することで、励起状態の芳香族性の安定化効果をエネルギーの値として評価することに挑戦しました。
Q2. 本研究テーマについて、自分なりに工夫したところ、思い入れがあるところを教えてください。
実は、この研究で用いた分子は元々他の研究のための合成途中で得られた副生成物でした。10以上の混ざりものの中から単離・単結晶X線構造解析まで持っていったのはいい思い出ですし、そうして得られた分子が基底状態でも励起状態でも活性化エネルギーの評価が可能で、Baird則のエネルギー論に最適な分子だったのは幸運でした。励起状態のBaird則の話に至ったきっかけは、修士1年生の夏に参加したゴードン会議で聞いた講演とポスター発表でのディスカッションでした。そこで話したSwedenのUppsala大学の方と共同研究を進めることができ、本成果まで繋げることができました。全体を通して運と縁に恵まれてはいましたが、振り返ってみると機会を逃さなかったことが大きかったなと思います。
Q3. 研究テーマの難しかったところはどこですか?またそれをどのように乗り越えましたか?
実験的には測定条件の最適化に苦労しました。今回、励起一重項状態と励起三重項状態を作り分けてそれぞれ評価しているのですが、相応しい励起波長、増感剤、溶媒、温度などの選定には時間がかかりました。また、この研究は先述のUppsala大学に加え、韓国の延世大学を含めた国内外4研究室の共同研究だったので、英語での深いディスカッションや論文執筆作業が多くあり、個人的にかなり大変でした。それでもやるしかないと食らいついて頑張り、伊藤先生や相田先生の助けもあってなんとか乗り越えることができたと思っています。
Q4. 将来は化学とどう関わっていきたいですか?
化学とどう関わっていくかまだ明確には決めきれていませんが、私はそもそも化学が好きなので、化学を含めた科学全体の発展に貢献したいと思っています。実際に科学をプレーする研究者もいれば、それをサポートする機関、科学のファン層あるいは無関心層の市民もいます。それぞれのコミュニティ内・コミュニティ間の健全な相互理解があってこそ、科学はしっかりと前に進んでいくと信じています。将来は化学者としての軸は持ちつつ、架け橋としても機能できるよう意識しながら骨太なキャリアを歩んでいきたいと考えています。
Q5. 最後に、読者の皆さんにメッセージをお願いします。
本研究は、結果として有機化学・計算機化学・光化学・分光学を合わせた学際的な仕事になりましたが、そのきっかけは学会での偶然の出会いにありました。研究の種は研究室の中にあるとは限らない、と強く実感した経験だったので、月並みですがこれをメッセージとして終わりたいと思います。
最後に、今までご指導して下さった相田先生、伊藤先生をはじめとする研究室内外の皆様、そしてこのように研究を紹介する機会を下さったケムステスタッフの皆様に深く御礼申し上げます。
研究者の略歴
名前:上田 倫久(うえだ みちひさ)
所属:東京大学大学院 工学系研究科 化学生命工学専攻 相田研究室
研究テーマ:Baird則に基づくπ共役分子の動的物性の設計
略歴:
2015年3月 東京大学 工学部 化学生命工学科 卒業
2017年3月 東京大学大学院 工学系研究科 化学生命工学専攻 修士課程修了
2017年4月–現在 東京大学大学院 工学系研究科 化学生命工学専攻 博士課程
2017年4月–現在 日本学術振興会特別研究員 DC1