科学の研究には、真理の探究という側面と、役立つ発明という側面があります。
この二面性を表す言葉のペアとして、
「基礎科学」と「応用科学」
「サイエンス」と「エンジニアリング」
「シーズ指向」と「ニーズ指向」
などが用いられていますが、私はここで新たに
「アートとしての科学」と「デザインとしての科学」
という言葉を提唱してみたいと思います。
そもそもアートとデザインの違いって?
アートもデザインも、なんだかオシャレなもの、というイメージがあります。ただ、「アートとデザインの違いは?」と聞かれて、ズバッと答えられる人はあまりいないのではないでしょうか。
どちらの言葉も様々に定義されますし、また時代とともにその意味の幅も大きく変化しているようです。
その中で、私個人として一番しっくり来る対比が以下のものです。
アートは唯一つのものを生む。
デザインはたくさんのものを生む。
アートはアートのためにある。
デザインはみんなの(顧客の)ためにある。
デザインは外から見るもの。
アートは内から出るもの。
デザインは器用にバランスをとる。
アートは突き抜ける。
デザインは現実を見る。
アートは理想を求める。
デザインは理解できるもの。
アートはそうとは限らない。
デザインは暮らしの中から生まれる。
アートは暮らしを置き去りにする。
— Kurt Weidemann (1922–2011, ドイツのデザイナー・タイポグラファー), 筆者意訳
これらの対比を「科学」に当てはめてみると、自然の法則や生命の謎など、世界の真理をひたすら探究する科学は「アートとしての科学」と言えるし、誰かの役に立つことを想像して行われる科学は「デザインとしての科学」と言えます。
合成化学の世界においても、この「アート」と「デザイン」は共存しています。
例えば、特定の病気をターゲットにした化合物合成は「デザイン」の活動と言えます。一方、超難関の天然物合成は、しばしば総合芸術に例えられるように、まさしく「アート」の活動です。
近年のノーベル化学賞で言うと、2014年の「超高解像度蛍光顕微鏡の開発」は「デザイン」が突き詰められた結果でしょうし、2011年の「準結晶の発見」や、2016年の「分子マシンの設計と合成」は、その高い「アート」性が評価されたものだと思います。2010年の「有機合成におけるパラジウム触媒クロスカップリング」はどうでしょう。その発展のストーリーからは、「アート」と「デザイン」の両方の精神が伝わってきます。
「アート」活動においては、常に表現の限界が追求されます。個人の熱意の赴くままに、鋭く尖った最先端の科学が生み出されます。一方、「デザイン」活動、すなわち現実の問題解決において、実は最先端の科学は必ずしも重要ではありません。むしろ、多くの場合において、既に当たり前となった技術をうまく使うのが鍵となります。過去にケムステで紹介された、サハラ砂漠で野菜を保存する装置も、簡単な技術を上手に利用した「デザイン」の好例です。
「デザインとしての科学」は、他人にちゃんと説明ができるものですし、誰にとっても理解可能です。一方、「アートとしての科学」は、研究者個人の内にある情熱に深く根ざすものであり、他の人から見たときに必ずしも理解可能とは限りません。同業者であっても、「あいつは何であんなことに熱心なんだろう」と理解に苦しむことは多々あります。ただ、我々の世界の見方をガラッと変えてしまうような世紀の大発見は、あらかじめ意図された「デザイン」の結果ではなく、突き抜けた「アート」の副産物として生まれることが多いのではないでしょうか。
両者の価値は
好きな絵を見たり、好きな音楽を聴いたり、好きな文学に触れたりすると、心が高鳴ります。
また、スマホの便利さに気づいたとき、LEDの便利さに気づいたときには、ちょっと嬉しくなります。
「アート」も「デザイン」も、究極的には「人の気持ちに作用することで価値が生まれる」という意味で同じであり、どちらも等しく価値あるものではないでしょうか。
良い「デザイン」は、みんなに小さな喜びを与える。
良い「アート」は、みんなに理解されるとは限らないけど、一部の人の魂を強く揺さぶる。
そういうものだと思います。
しかしながら、その「万人に理解されるとは限らない」という性質のせいで、「アート」は冷遇されがちです。現在では高く評価されている芸術家とその作品が、作られた当時の権威や大衆には見向きもされていなかった、というのはよく聞く話です。
同様に、「アートとしての科学」も、場所と時代によっては、その研究費(活動費)を得ることが難しい状況に陥ります。
例えば、トーマス・エジソンのような個人発明家が幅を利かせていた20世紀初頭のアメリカ合衆国においては、ヨーロッパに留学した科学者が持ち帰った「アートとしての科学」に対してお金を出して活動支援してくれる人がとても少なかったといいます。そこで当時のアメリカ科学者たちは、周囲の人々の理解を得るために、「ベーシック・サイエンス(基礎科学)」という言葉を生み出し、「純粋な基礎科学は、直接的に社会の役に立つわけじゃないけれど、そのうち応用技術に繋がって、みなさんのお役に立ちますよ。」というストーリーを作ったのです。このストーリーは、もっともらしく聞こえます。しかし、1980年以降、多くの経済学者たちによって詳しく検証され、「このストーリー、実は根拠が無いんじゃない?」と批判されているそうです[1]。
似たような状況が、現在の日本にもあります。一昔前は自由にできていた「アートとしての科学」が、いまはどんどん難しくなってきています。「私の研究は、こんなに役に立つんですよ」と一生懸命アピールしないと、科学者が活動費を得られない、という状況が広がっています。残念ながら、「アートとしての科学」が、なかなか周りの人々の理解を得られないのです。それでも科学者は活動費を得なければならないので、明らかに「アートとしての科学」なのにもかかわらず、あたかも「デザインとしての科学」であるかのように演出してしまうこともあります。これは、研究者にとっても、周囲の人にとっても、悲しいことではないでしょうか。
良い比較になるかはわかりませんが、絵画や音楽などの芸術を追求する、芸術大学ではどうでしょう。友人に芸術大学の学生・卒業生が何人かいますが、みな絵画や音楽がただただ好きで、「アート」を追求しているように見えます。これらの芸術は、世の中の諸問題を直接的に解決するわけではありませんが、それでも多くの人々がその価値に理解を示していることと思います。
一般的な芸術と比較して、「アートとしての科学」の理解が数段難しいのは事実です。その素晴らしさ、その美しさを理解するには、どうしてもある程度の専門的な知識が必要なのです。そこは科学者が、様々なメディアを通じて、その「アート」を広く発信していく義務があると思います。
「アートとしての科学」を追求する科学者の方々には、その「アート」を堂々と追求してほしいと思います。自分が「アート」に取り組んでいることに、是非とも誇りをもってほしいです。偉大なる先人達が、あなたの背中を押してくれています[2]。 決して、見せかけの「デザインっぽいもの」で誤魔化したりしないでほしいと思います。
研究をはじめたばかりの学生さんも「自分のやっている研究が、はたして社会の役に立つのだろうか」などと思い悩むことなく、自分の「好き」に従って、「アートとしての科学」を楽しんでください。もし、本当に誰かの役に立つことがしたくなったら、それまでの経験を生かしつつ、今度は「デザインとしての科学」に取り組んでみる、という選択肢もあります。
また、「科学技術立国・日本」を信じて、応援してくれる多くの方々にも、科学の「アート」としての側面とその価値にご理解いただき、温かく見守っていただけたら、とても嬉しいなと思います。
参考文献
- 上山隆大(2010)『アカデミック・キャピタリズムを超えて —アメリカの大学と科学研究の現在』エヌティティ出版
- 関連リンク参照
関連書籍
[amazonjs asin=”4757142463″ locale=”JP” title=”アカデミック・キャピタリズムを超えて アメリカの大学と科学研究の現在”]
関連リンク
- 大隅良典 博士(2016年 ノーベル医学・生理学賞)『科研費について思うこと』:「最近、国全体で研究の出口を求める傾向が強くなっていることは否めないが、研究者の方も一方的に思い込んで自己規制をしていることはないだろうか。私は、研究者は自分の研究が、いつも役に立つことを強く意識しなければいけない訳でもないと考えている。『人類の知的財産が増すことは、人類の未来の可能性を増す』と言う認識が広がることが大切だと思う。役に立つことをいつも性急に求められていると思うことで、若者がほとんど就職試験での模範回答のごとく、考えもなく“役に立つ研究をしたい”という言葉を口にする。直ぐに企業化できることが役に立つと同義語の様に扱われる風潮があるが、何が将来本当に人類の役に立つかは長い歴史によって初めて検証されるものだという認識が、研究者の側にも求められていると思う。」
- 梶田隆章 博士(2015年 ノーベル物理学賞)インタビュー:「科学の基礎研究は基本的に人類共通の知を創っていくプロセスですね。そういうプロセスに日本も先進国の一員としてきちんと参加すべきだと思います。」テレビでのコメント:「将来何百年か経ったらば何かの役に立っているかもしれません。そのくらいのことしか知りません。」「実生活では別に良いことはないとは思いますが(笑)、そうは言いながらも、何で我々が存在できているのか、という問いに答えられるようになるということは、人類にとってすごく大切なことじゃないかと私は思っております」
- 下村脩 博士(2008年 ノーベル化学賞)自身のホームページにて:“He wanted to understand the chemistry and biochemistry involved in the production of its green glow and has never been interested in applications of GFP as a tracer molecule.”
- 小柴昌俊 博士(2002年 ノーベル物理学賞)コメント紹介:「何の役にも立ちません」「百年くらいしないと分からない」
- 北川進 博士(2016年 日本学士院賞)「無用之用」の教え:「明らかに役立つことばかりを優先する姿勢を戒め、ムダに思えることのなかに潜む価値にこそ目を向けるべきだ」