昨年はケクレのベンゼン構造150年、国際光年などのアニバーサリーイヤーでしたが、今年はなんかないのかなと思い調べたところ、今年2016年はGilbert Newton Lewisの共有結合理論の提唱から100年の記念の年でした。高校の化学でも習う共有結合という重要な概念がまだたった100年前なのかともいえるかもしれません。
ということで本日はLewisの偉大な業績について簡単に振り返りたいと思います。
Lewisとトレードマークの葉巻(画像はACSより)
Gilbert Newton Lewisは1875年10月23日マサチューセッツ州ウェイマスで生まれます。ネブラスカ大学で2年間学んだ後、ハーバード大学に移り、1896年に学士となりました。1年間Phillips Academy in Andoverという寄宿学校で教えた後、ハーバードに戻りTheodore William Richardsに師事して電気化学ポテンシャルの研究で1899年に博士号を取得します。1年間ハーバードで教えた後、当時物理化学の中心であったドイツへ留学する機会を得ました。しかし、このことがLewisにとって暗い影を落とすことになるとは誰も予想できなかったでしょう。
Lewisはゲッチンゲンの地でWalther Nernstと、ライプツィッヒでWilhelm Ostwaldと仕事をしましたが、Nernstとは全くうまくいかなかったようで、生涯に渡っていがみあうことになってしまいました。
1901年にハーバードへ戻り3年過ごした後フィリピンのマニラへ渡り1年間、その後MITでポジションを得て1911年には教授まで昇格していきました。しかし1912年にはカリフォルニア大学バークレー校に移りました。ここで今回の主題であります化学結合に関する重要な論文、”The Atom and the Molecule”[1]を書き上げました。それでは、彼の偉大な論文の内容を振り返ってみましょう。
The Cubical Atom
Lewisはこの論文でまず、極性がある分子とない分子の違いについて詳しく述べています。そして次に六面体原子の概念を説明するのです。
図は論文より
1902年頃、すなわちハーバード時代にはすでにLewisは化学結合の表現として原子を六面体で描いて学生に講義していました。六面体の8つの頂点には元素によって異なる数の電子が書かれており、これがその後オクテット則にまでつながることになるのです。当時Lewisは原子価の理論にも興味持っており、この六面体原子の頂点に電子を置くアイディアは元素の周期律にも一定の理解を与えるものでしたが、米国の化学者たちはあまり評価しなかったようです。
Lewisの六面体原子は1904年ドイツのRichard Wilhelm Heinrich Abeggが言及した、ある元素の最大の酸化数を+Nとすると最小の負の酸化数は-(8-N)の値をとる、すなわち差は8になるというアベッグ則[2]に大いに助けられることになります。このrule of eightは当時多少混乱していた原子価と価電子の概念を明確に分けることにつながりました。
その後、原子とその結合に関する6つの重要な仮定を導入します。
- 全ての原子は周期表の族に基づいて対応する正電荷を生じうる基本的な核をもつ
- 原子は電気的に中性な原子ではその核と外部原子あるいは殻からなり、その場合核の正電荷と同数の負の電子を含むが、殻の電子は0から8をとりうる。
- 原子は偶数の電子を殻にもつ傾向があり、特に六面体の8つの角に通常対称的な配置で8つの電子をもつ。
- 二つの原子の殻は互いに貫きあうことができる。
- 電子は殻の中で異なる位置に速やかに移動することが可能である。
- 互いに近接する粒子の間に働く電気的な力は単純な逆2乗の法則に従わない
それぞれの仮定について具体例や引用を挙げながら丁寧に説明しています。電子殻の形が正六面体であるという仮説は正しいとは言えませんが、おおむね原子における電子の振る舞いについて正しく述べていることが読み取れます。
Molecular Structure
そして、いよいよ分子の構造の章に移ります。この章ではまずハロゲン分子(I2)についてそのヨウ素原子同士がどのようにして結合するかを論じています。
画像は論文より
図のAは両原子がイオン化している状態、Bは一つの電子のみを介して結合している状態を示しています。しかし、これではI2が極性を持つ分子であることになってしまい、事実とは異なります。よって、ハロゲンの分子は二つの電子を二つの原子がもった対称なCの構造となることを提案しています。この構造では一つの原子の周りには8つの電子が存在することになるのです。
画像は論文より
そして、次にこの構造、結合を示す式として、Cl2を「Cl:Cl」とコロンで結ぶ表記法を提案しました。これが現在ではLewisのdot diagramと呼ばれるものになります。H2O, HI, I2をはじめ、NH4+, XO4–, さらには二重結合を有するO2の構造へと論は続きます。二重結合の部分では、O2を二つの構造の「平衡」であると考えており、dot diagramでは現在でいうところの酸素の一重項と三重項酸素の表現で表しています。三重結合についても言及がありますが、六面体原子モデルでは三重結合は厳しいと考えられますが、そのことには触れていないようです。
いずれにしても、このLewisの点構造式は非常に便利で、様々なことが説明可能なので、現在でも化学の初等教育でなくてはならないものとなっています。
そしてこのLewisの六面体原子から導かれた二つの電子を二つの原子がもちあう結合は、Irving Langmuirの1919年の論文”The Arrangement of Electrons in Atoms and Molecules”[3]の中で、”covalence”という用語が導入され、その後「共有結合」として認められることになって現在にいたります。
Lewisの業績はこの他にも酸塩基の理論、化学熱力学、重水の純粋化、そして光子の命名などそれぞれが偉大なものばかりです。
しかし、これほど偉大な化学者であったにも関わらず、Lewisはノーベル賞の栄誉にあずかることができませんでした。決して早逝したわけではなく70歳まで生きたにも関わらずです。最初に候補に挙がったのは1922年で、1924, 1925年にも化学結合と熱力学で候補となりました。1925年はSvante Arrhenius (酸と塩基で有名ですね)にネガティブな判断をされ、1926年はTheodor Svedbergに好意的な評価をされましたが、すでにLewisの興味は化学結合論や熱力学とは離れており、審査員からまだLewisは待てると評価されたようです。実はLewisがノーベル賞の候補者に上がったことは計35度もありましたが、化学賞の選考委員であったWilhelm Palmærが少なくとも3回は受賞を妨害した証拠が残っています。このPalmærは上述のNernstの友人でありました。こういった人間関係のもつれがノーベル賞にも影響するというのはある意味考えさせられますね。
とはいえ、1924年には米国化学会よりWillard Gibbs Award、1929年には王立協会よりDavy Medalという権威ある賞を授与されています。
そして失意のうちにかどうかわかりませんが、1946年3月23日にバークレー校の実験室で生涯を閉じました。そうなんです今日はLewisが亡くなって丁度70年に当たります。
その日Langmuir (1932年ノーベル化学賞受賞者)はバークレーを訪れており、Lewisと昼食を共にしたようです。昼食から戻ったLewisは暗い雰囲気であったとの証言があります。二人の間になにかがあったのかは今では知るよしもありません。
実験室でシアン化水素を扱っており、このLewisの死は自殺であったと考える人もいます。一方死因は心臓の疾患によるもので、死後シアン化水素が漏れ出したのかもしれません。真相は闇の中です。
構造式を描くときにLewisの少し悲しい生涯を心のどこかで思い出してみて下さい。
マップ
ルイス通りやルイスの墓なども化学地球儀にて紹介しています。
参考文献
- Lewis, G. N. J. Am. Chem. Soc. 38, 762 (1916). DOI: 10.1021/ja02261a002
- Abegg, R. Zeitschrift für anorganische Chemie 39, 330 (1904). DOI: 10.1002/zaac.19040390125
- Langmuir, I. J. Am. Chem. Soc. 41, 868 (1919). DOI: 10.1021/ja02227a002