Tshozoです。
1865年に、エントロピーという概念が世界で初めて明示され、今年はそこから150周年ということですので昨年申し上げたとおり毎日祝っております。嘘です。
今回はその一環として、エントロピー発案者であるRudolf Julius Emanuel Clausius “ルドルフ・クラウジウス”に関する話を書いていきます。以前書いたAugust Horstmannの記事の補完のような内容ですがお付き合いください。誤訳誤解がある可能性をご容赦いただき、間違いなどはご指示頂ければ有難いです。
まず今回の前半①は本人の人となりを中心に、次回の後半②にクラウジウスの最大の成果である(と筆者が思っている)エントロピーに関するトピックなどを書いてまいります。ということでまずは、クラウジウスの人生を紐解いてみます。ご本人の一通りの経歴はWikipedia(英語版・独語版)に色々書いてありますが、それに加え文献類から伺える本人の人となりを書いていきます。
筆者のフォルダが火を吹く写真集 眼が怖いあんまりお近づきになりたくない風体
●学びの経歴(この項目全体:文献2より引用)
後に鉄血宰相ビスマルクを産み出す「プロイセン王国」に属していた小さな町で、1822年に産まれました(コシャリン・こちら・現在はポーランド属)。神学者・牧師であり後に学校長ともなったCarl Ernst Gotlieb Clausiusの、14人兄弟の末っ子で、文献によっては18人兄弟とも・・・。幼少から既に数学・物理にずば抜けた才能を示した彼は、当時のプロイセンで当代きっての博学者・数学者 Gunter Grassmanを家庭教師に招き、その能力をさらに高めています。
時代背景を見ると、彼が生まれる10年程前のプロイセンは当時の国王の無策のため、フランスによりボコボコにされつつありました。そうした国家の危機を憂えたフンボルト、バイメ、シュライエルマハー、フィヒテら有志の活躍により教育改革が行われ(記事「Ph.D.の起源①, ②」を参照)、愛国心を高めつつ教育を行う教育システムの根幹となる「ギムナジウム」が生まれていました。日本で言うと特別選抜高校みたいなもんで、ここで大学入学の資格を得た人間しか研究の道に進めない高等教育機関です。クラウジウスもここで愛国心を高めつつ勉学に励みます。年表的にはプロイセンと一緒に成長した、というイメージですね。お兄さん(Robert Clausius)の筆によると当時からギムナジウム内で尊敬の的だったもようです。
発足当時のギムナジウムの位置付け 大学へは上級ギムナジウムからしか行けない、
要は「国家エリート養成機関」 ラテン語が必修で色々めんどくさかったもよう 文献1から引用
そのギムナジウムから18歳でベルリン大学(フリードリヒ・ヴィルヘルム大学、後のフンボルト大学)への入学資格を取得。歴史学者レオポルト・ランケや天才数学者ディリクレ、ドイツ実験科学の父 グスタフ・マグヌスの講座を受けつつ研究者としての道を志します。クラウジウスは実験物理学者ではない、または実験をやってない理論学者という認識が一般的にありますが、実際にはマグヌスからきっちり実験テクをこの時点で引き継いでおり、後述するチューリヒ工科大学での科学実験講座でもその実力を如何無く発揮したとの記述がありました(文献3)。
大学入学後のクラウジウスですが、実家がそこまで裕福でなかったせいで、姉が勉学を継続できるようにするため生活費を自分で稼がねばならん状況に追い込まれ、ギムナジウムでの講師役を務めるなど、その道のりは難儀だったようです。が、彼はそれでも諦めずJohann Schweigger(実験物理・化学・数学者、塩素の命名者)のもとで大気中の光の散乱による色変化をテーマにした論文で博士号を取得、ハレ大学に講師の職を得て、ブレスラウ大学のポストをキルヒホッフと争うなどしつつ研究を続けます。この勝負はキルヒホッフに軍配が上がりましたが・・・。
この前後で生涯のライバル、ヘルムホルツが発表した著名論文「力の保存」”Ueber die Erhaltung der Kraft”に影響を受けたのか、ガラッと研究分野を変えて同じく1850年に熱力学の金字塔である
『”Ueber die bewegende Kraft der Wärme und die Gesetze, welche sich daraus fuer die Wärmelehre selbst ableiten lassen“』
『熱の活力(熱エネルギー)、及び熱力学に応用されるその諸法則について』
を発表。この論文で「熱素」の存在を完全に否定、研究で先行していた同じくライバルで英国の秀才ケルビン卿を出し抜き力学第1法則とカルノーの定理を理論的に精密に整合させることに成功します。この論文によりベルリン大学でHabilitation=大学教授資格獲得に成功、ようやく研究者としての本格的なキャリアを開始させます。
記念すべき1850年論文の表紙 初版 Annalen der Physik 1850, Band 150, Heft 3より引用(※文献6)
当時の編集長は教育者としても名高いポッゲンドルフ
その後ベルリン砲兵学校を経てスイスに当時出来たばかりのチューリヒ工科大学で正教授職を得、ここで10年近い紆余曲折を経てエントロピー概念を完成。その後ドイツに戻り、ビュルツブルグ大教授→ボン大学の学長を経て1888年に66歳で同地で死去。現在はボン近郊のAlter Friedhof(作曲家シューマン、ガイスラー管で有名なハインリッヒ・ガイスラーなど著名人も眠る古墓地)で奥さんと一緒に眠っています。
クラウジウスのお墓 写真はこちらのサイトより引用
エントロピー概念を初めて提唱した1865年論文表紙
Annalen der Physik, 1865, Band 201, Heft 7 不朽の大論文
論文は主要なもので32本、短報も含めると約140本。熱力学第1, 2法則の明示、エントロピーの提案、極悪ビリアルの提案、ファンデルワールスに重要な示唆を与えた気体に関する研究など、現在でもすげぇわかりにくい物理と化学で極めて重要な成果が含まれ、概念の提案だけでなくその厳密な理論化も行うという稀有な科学者でした(なおヘルムホルツが第1法則を定式化したというのが一般的な認識ですが、最も重要なカルノーの法則との正確な理論的折り合いをつけ、正しく定式化したのはクラウジウス・トムソンの2人でした)。その他、電磁波の分野でもキルヒホッフに先んじて熱輻射の平衡の理論を正しく提唱していたようです。同世代にはヘルムホルツ、グスタフ・キルヒホッフ、ルードウィ ヒ・ボルツマン等のスーパースターが綺羅星の如くいましたが、キルヒホッフと並んで独特な存在だったというのが筆者の感想です。
2、どのような個人像だったか(この項:全体を文献2, 3, 4に依存)
実はその人となりを示す資料がほとんど残存しないうえ、比較的詳細に描いてある英文文献3, 4でも、参考にしている独文の一次資料がWeb経由ではどうしても手に入らないものばかりです。このため、残念ながら以下に書くことは又聞きレベルのものとしてお考えください。
●科学者として、父親として
ヴィルヘルム・ウェーバーとルドルフ・コールラウシュの弟子でゲッティンゲン大学教授でもあった実験物理学者Eduard Rieckeという方による弔文(文献9)に、この点に関しほぼ唯一現存すると言ってもよい文面があります。それはクラウジウスの息子殿(Maximillian Friedlich Clausius?)からのメッセージとして家族の視点からのクラウジウスの人物像が記載されている部分で、兄であるRobert Clausiusが書いたメモ程度の文面以外の、今のところ筆者の知る限り唯一の肉親による記述です。それによると、
とありました。息子さんがこう書いているくらいなのですから、気難しいけれども高潔で真実を追い求めた立派な科学者であったのは間違いないのでしょう。友人に対する態度を見ると今で言うツンデレではなかろうかと思っていますが、筆者はこの言葉を産まれて初めて使用しますが、正しく使えているのでしょうか。ともかく先日小池一夫御大がバブみという言葉を70歳で使いこなしていたのを目にしましたが、御大のように何事も挑戦だと思っています。
なおクラウジウスは晩年には6人の子供(うち2人は成人になる前に死去)をかかえ、甲斐甲斐しく子供たちの面倒をみながらも学長としての職務に忙殺されることになります。そのせいか論文の提出ペースを見ると、この時期(1871年~1875年)にガクンと落ちています。また当時長年連れ添った奥さんを亡くしており、御本人の意気消沈如何ばかりかと思います。軍事訓練中に負った足のケガとこの家庭での不幸が無ければ、より優れた研究成果を出していたのではないかと思うと極めて残念であり、御本人にとっても無念であったろうと思われます。
●他の科学者との関係や評判
上記で息子さんが書いているとおり、不誠実なもの、不正確なものに対してやたら気難しいのと攻撃的だったためか、極僅かの親友(Tyndall, Folie, Helmholtz)を除くとあまり良くなかったもよう。友人との個人的な書簡もこのチンダルとフォリーに対するものが僅かに現存するのみで、マグヌスが主催していた研究会にも極稀にしか顔を出さず、人付き合いが良いとは言えません。学会内では今で言う「ぼっち」だったようです(大学の同僚教授とは結構きちんと議論できていた模様ですが)。
数少ないクラウジウスの友人たち画像は全てWikipediaより
ヘルムホルツはどっちかというとライバルだが、議論はしていたとの記述があった
それなのにいちいち厳しい指摘をするとの評判で、同僚の言葉を見ると“Griesgram”「偏屈ジジイ」だとか“Alternd”「老いぼれ」が並びます。まぁ頑固一徹、ニセモノやまがい物は激しく糾弾するような性格だったからそう言われてしまっていたのでしょう。なおヘルムホルツともトラブル(論文誌上の紹介欄の中身にグダグダ文句をつけた、など)を起こすなどしており、あと感心しないのが、ヘルムホルムの直弟子マックス・プランクに至っては「エントロピーのことで色々手紙を送ったのに返事を1通すらもらえなかった」ようで・・・(ただしこの時期ボン大学での理系学科立上げや家庭の事情で忙しすぎ、返事を返せなかった可能性大です)。もっともそのヘルムホルツは弔文でクラウジウスのことを「卓越した洞察と数学的直観とを兼ね備えていた」などと激賞していますから、才能の本質をお互い理解していたのではないかと思います。
なおここまで同僚からの評価が辛辣だったのは、当時のドイツ科学界の風潮もあるようです。真理の追究とかはあんまり関係なく、コンソーシアムでの知名度と立ち回りがその後の教授職としてのキャリアや昇進に大きく響く状況だったとのことで、クラウジウスとしては「そんな立ち回りなどは、真実と真理とは全く関係が無い」とでも考えていたのかもしれません。だから素晴らしい実力を持ちながら、ドイツの科学界では孤立してしまっていたのでしょう。若いうちにドイツ国内でテニュアが得られなかったのは稀代の才能を持つライバルが多すぎたこともあったでしょうが、こうした本人の性格も影響していたのではないかと思います。
●弟子がいない?!
ということで、ドイツ国内のお弟子さんでその後功績を残した研究者がほとんど見当たりません、ということは頷ける点で、正直なところこの人の直下では研究しにくそうです。唯一著名な方として、チューリヒ工科大学時代の教え子で、実業家としても成功したカール・フォン・リンデ(現在も世界に冠たる化学エンジニアリング会社 Linde創業者)がおり、さらにその部下として、エンジン工学に極めて大きな影響を与えたルドルフ・ディーゼルがいるのはなかなか面白い点ではありますが、ヘルムホルツやトムソン、キルヒホッフらのその名伯楽ぶりに比べると正直どうもこうもアレな感じを受けます。
おそらく唯一の直弟子であろう、Carl von Lindeと同社ロゴ(こちらより引用)
運動学の父リューローやドイツ蒸気機関の祖ツォイナーからも教えを受けた
彼が創った冷凍機・昇圧器の原理がその後アンモニア合成にも活かされる
・・・これらのように教育者としてのクラウジウスがあまり歴史的に前面に出てきていない理由は主に3点、
〇1点目:研究者としての 主要な活動の時期にドイツ本国ではなくスイスに居たため
(しかもチューリヒ工科大学は当時まだ「Doctorate=博士号授与機能」がなく直弟子が付かなかった)
〇2点目:プロデューサ、開拓者、教育者としてのヘルムホルツ、キルヒホッフがあまりに偉大であり、かつドイツ科学「政治」と歴史の中心であるベルリン、ハイデルベルグに居続けていたため
(特に後者の点、文献2の指摘は的を得ていると感じます)
〇3点目:若干人格に難があったからですかね。
ということが考えられます。もっともクラウジウスの研究成果の意義と精神を感じ取った研究者たち(ボルツマン、ホルストマン、ファンデルワールス、ギブス、等々)が大きな分野を拓いていることから実質的には多くの弟子を育成したのと同義でしょう。また、彼が実質立上げに尽力したチューリヒ工科大(ETH)での理論・実験講座はその後大きく発展し、最終的にはあのアインシュタインがエントリーしてくることになるのもなかなか興味深い点です。
ただ筆者としてはこうした、政治とかにあまり縁を持たない『孤立型』の研究者がもう少し歴史の前面に出てくる余地があってほしいと思います。かの湯川秀樹教授がエッセイ「物理講義(こちら)」で、
「科学者には・・・(中略)孤立型とそうでないのが居て(中略)そうでないのは対話型か、集団型に分けられます」「・・・私は孤立型というのが大変好きでして、孤立してるがゆえに、また大いにどこかと結び付いて大きく生かすことが出来るという性格を持っているんです」
と書いているように、その時点では孤立していたとしても最終的に大きな科学の幹になるものが産み出される可能性があるからです。クラウジウス、シュレーディンガー、ギブス、マクスウェル、プランク、アインシュタイン、全員ほとんど孤立しながら独力で独自の唯一無二の理論を創り上げました。日本にもこうした孤立型の科学者が活躍していて頂きたいところですが果たして今のご時世で居続けることは出来るのか・・・。社会との接点を持たずに科学は成り立ちませんが、かと言ってそうした芽を摘むことは科学の可能性を潰すに等しい。難しい匙加減が要求される問題だと思います。
3. 未来へのクラウジウスからの提言
・・・と、書いてきて気付いたのですが、150周年を祝ってるどころか結構な割合でクラウジウスをDisってる内容になってしまいました。それではあんまりなので下記、いい話も。
何度も取り上げますが山本義隆著「熱力学の思想展開 3」にも描かれているように、クラウジウスはボン大学の学長時、歴史に残る名講演をしています。独語初学者には荷が重いちょっと分量が多いので、元中京大学の河宮先生が訳された論文の邦訳(文献8のほぼ全て)を参考にさせていただき、最後部の重要な主張のみ記載いたします。引用がちょっと長いですが必見です。
「…よく知られているように,石炭は当時地上に存在していた植物の成長によって長期間かかって形成され大量に堆積したものである。(中略)現在われわれはそれを消費するさい,まるで莫大な遺産を消尽する幸せな相続人のようにふるまっている。石炭は(中略) 大量に地下から運び出されて,あたかも無尽蔵であるかのように消費されている。(中略)未来のある時点で石炭鉱床が枯渇したらいったいどうなるか」
「…石炭層が形成され得たのは、太陽が地球に放射熱の形で,人類の発生に先立つ長い間,潜在的なエネルギーを送ってきたおかげである。もしこの蓄えが消尽されてしまったら,他のエネルギー源を見出す手段は,たとえ科学がもっと進歩しても手に入らない」
「これまでの100年を際立たせる特徴は,蒸気機関をはじめとする諸機械の発明・改良により,過去には考えもつかなかった方法で自然のエネルギー源が人類の用に供されるようになったことである。他方、これから先、数世紀の課題は、自然から与えられたエネルギー源の消費に関してある種の経済学を導入すること、および特に,占い時代からの産として大地にあり何物によっても代替できない諸資源の浪費を防ぐことである。転換の開始が早ければ早いほど,未来によい結果が得られるであろう。
文明先端に立つ諸国家は..森林開発を管理しているのと同じやり方で,炭田の開発を管理するために共同の行動をとるべきである。(中略)様々な国の利害が互いに対立していることを考えると対策の実現はとうてい不可能だと思われるかも知れない。しかし…(中略)人類の将来の幸福にとってきわめて重要なこのエネルギー問題もまた,少なくとも徐々には,統一的な取り扱いがなされるべきであろう」
主要部の訳文 一部、原文を確認したうえで筆者の責任で改編しました
まさに真実を愛したクラウジウスに相応しい、人類に向けてのメッセージだと感じます。特に赤字部分、この問題がどれだけ複雑で難儀なものか、1885年の時点で既に「100年くらいじゃ解決出来ない」と推測していたその眼力に脱帽せざるをえません。内容的には現代の講演で使われた文章と言われても疑わないほどの一貫性と一般性を有しています。
・・・んで、その講演から約130年、石炭が石油に代わっただけで状況は全く変わってない気がしてるというか利害関係はむしろ悪化してんじゃないでしょうか。真実を探求したクラウジウスが望んだような、エネルギーを考慮した経済学は成り立っていない、というか成り立たせない方向に進んでいるのは同氏の信望者として本当に悲しい限りです。悲観的になったりしても仕方ないのですけど。
もっとも、石炭や石油に代わる究極のEnegieverratheはあるのです。あるのですが、それを使うにはあまりにも社会が、そして利害関係が複雑になり過ぎている気がします。藻とかミドリ**とかでお茶濁してる場合じゃないんです本当は。そんなもん20年以上前のニューサンシャイン計画でとっくに*******(自粛)。きっと大いなる諦めの後に「それ」を使わざるを得ないようになると思いますが果たしてそこまでにどんな醜悪な争いと犠牲が払われるのか。そしてどんなことが起きるのか、筆者には想像すらつかないでいます。
・・・という妄想はともかく、100年以上も前に提言されたことを語り継ぎ、日々突破することでクラウジウスの意思は継がれるはずと信じて、まずは150周年を祝う前記事を閉じたいと思います。
ということで今回はこんなところで。②ではエントロピーの最新のトピックなどをご紹介しようと思います。
【文献】
1. 「19世紀ドイツ学校教育制度の構造(II)」 寺沢 幸恭 聖徳学園女子短期大学紀要 11, 1-16, 1985-03-31
2. 「Rudolf Clausius 1822 – 1888. Seine wissenschaftliche Anerkennung und soziale Position in der Physikergemeinschaft」 Kultur & Technik 12, 1988, 4, S. 205 – 206
3. 「Intellectual Mastery of Nature. Theoretical Physics from Ohm to Einstein, Volume: The Torch of Mathematics, 1800 to 1870」 Christa Jungnickel, Russell McCormmach, University of Chicago Press
4. 「Historische Entwicklung der Energie-technik an der TU Dresden und ihre Ein-ordnung in die Technik-geschichte」 Klaus Koppe, Ein Beitrag aus Anlass der 175. Wiederkehr der Gründung der Technischen Universität Dresden im Jahr 2003
5. 「ブッデンブローク家の人々」 トーマス・マン全集 I 森川俊夫訳 新潮社
6. イェーナ大学(フリードリヒ・シラー大学イェーナ)による「UrMEL」でクラウジウスをはじめ著名論文の大半がダウンロード可能
7. 「Ueber die Energieverrathe der Natur und ihre Verwendung zum Nutzen der Menschheit」 R. Clausius, Max Cohen & Sohn (Fr. Cohen), Bonn, 1885
8. 「自然界のエネルギー貯蔵とそれを人類の利益のために利用すること」 河宮信郎 中京大学教養論叢 29(3), 783-800, 1988-12-21
9. ” Rudolf Clausius, Rede gehalten am 1 December 1888.” Eduard Riecke, Abhandlungen der Königlichen Gesellschaft der Wissenschaften in Göttingen 35 (1889): 3-39