ワインはお好きですか?
筆者はビール党ですが、ワインも好きです。特に500円くらいで買える、グビグビ飲めるやつが。そう言うとえ〜と言われそうですが、嗜好は人それぞれなんで、1本10万円のワインだって口に合わないカモですよね。
ワインが化学になんの関係があるのかとお思いでしょうが、実はおおありです。ワインの主役は当然エタノールですが、もう一つワインと切っても切れないのが「酒石酸」です。この酒石酸に関する小話でもいかがでしょうか。
酒石酸(tartaric acid)はその名の通り酒、ここではワインからきています。ワインの醸造を行うと、樽の中にわんさかと酒石(tartar)と呼ばれる結晶が付着してきます。この酒石を最初に分離分析したのは紀元前800年頃の錬金術師アブー・ムーサー・ジャービル・イブン・ハイヤーン(Jabir ibn Hayyan)ではないかと考えられています。近代的な手法としては、1769年にカール・ヴィルヘルム・シェーレが報告したものがあります。先日シェーレについての記事をお届けしましたが、シェーレは元素だけでなく様々な有機酸を発見、研究していた、スーパー化学者だったのです。いずれにしても誰が組成を決定したのかはっきりしませんが、酒石は現在の酒石酸水素カリウムにあたるものです。
酒石酸は有機化学の発展に重要な役割を演じてきました。まず、大きなものとしては立体化学の理解に対する貢献です。
フランスのジャン=バティスト・ビオ(Jean-Baptiste Biot)は偏光の研究の過程で1815年に偏光を有機物の溶液に通すと右または左に回転する、すなわち旋光という現象を発見しました。そこで右に回転させる物質を右旋性、左に回転させる物質を左旋性、と呼ぶようになり、現在でもその表記法が残っています。ただ、何故このように物質によって右左が異なるのかは長らく謎のままでした。
パスツール
フランスのルイ・パスツールは酒石酸ナトリウムアンモニウムの結晶をよく観察すると、結晶の形が異なるものが二種類存在することに気づき、それらを丹念に分別してみました。この二種類はちょうど鏡に映したような関係にあり、それらを別々に溶液として旋光性を調べたところ、なんと右左逆方向に偏光を回転させることを発見しました。すなわち単一と思われていた物質の中に、二つの形態が存在することを示したのです。これはその後キラリティーという概念に繋がる発見で、有機化学における立体化学の始まりとなるのでした。1848年、パスツール若干26才の時でした。
この発見にまつわるいくつかの逸話が残されています。
1818年にPaul Kestnerは酒石酸の工業的製造の過程で酒石酸と性質がそっくりな化合物を発見しました。当初これはシュウ酸と誤認されていましたが、1826年にゲーリュサックはこの物質が酒石酸にそっくりであることを確認し、ラセミ酸と名付けます。1830年にはベルセリウスが酒石酸とラセミ酸の関係は異性(isomerism)で説明できるとし、ラセミ酸にパラ酒石酸という名称を提案しました。そして1832年にビオは酒石酸は右旋性だがパラ酒石酸は旋光性を示さないことを見出しています。
Isomerismの概念を提唱したEilhard Mitscherlichを含む結晶学者たちは二つの酸の塩について色々と調べており、酒石酸とパラ酒石酸から作られる塩は似ているが、明確に異なることを見出していました。しかし一方で二つの酸のナトリウムアンモニウム塩は明らかに同一であると結論します(実は間違いです)。
パスツールは光学不活性な化合物の結晶は半面像にならないと考えており、酒石酸とパラ酒石酸のナトリウムアンモニウム塩は異なるはずだと考えました。しかしその考えが誤りであることに気づいたのです。すなわちパラ酒石酸のナトリウムアンモニウム塩の結晶は対称な形の結晶ではなく、二つの鏡像の混合物だったのでした。
しかし、この実験は再現が非常に困難で、パスツール以外には成功しなかったと言われています。下手するとなんとか細胞と同じ運命になってしまいますが、ここでパスツールの仕事に関心を示したおん年74才になっていた重鎮ビオの前で再現実験をすることになりました。
ビオはパスツールを呼び出しパラ酒石酸を与え、実験の再現を求めます。再結晶の準備ができたところで一旦パスツールを帰し、数日後結晶が析出したところで再度パスツールを呼び、結晶の分別をさせたのです。そして分別された結晶を受け取りビオはパスツールに言います。
「それではここからは私がやろう」
天然の酒石酸とは異なり左旋性を示すとパスツールが主張した結晶から溶液を調整し、測定の準備が整ったところでパスツールを呼びます。そして光路の途中に溶液を置くと、見事に左側に回転するではありませんか!ビオは振り向きパスツールの手を取ると
「おお息子よ 私は生涯科学を愛し続けてきたが、それゆえこれには感動した!」
と言ってパスツールの偉大な発見に敬意を表したのでした。
当時偉大な科学者であったビオはもしかしたらパスツールの報告を信用していなかったのかもしれませんが、パスツールの発見の偉大さを正確に認識していたのでしょう。ビオの厳しい試練に耐えうる実験を再現したパスツールもまた超一流の科学者としての道を歩むことになるのです。
この酒石酸ナトリウムアンモニウムの分別再結晶は27度以下、26度程度でしか成功しないことがわかっています。現代でもこの実験の再現は難しいようですのでさぞかし緊張したでしょうね。またこのラセミ混合物の結晶(一水和物)と右旋性の酒石酸由来の結晶(四水和物)の構造の違いにが、現東京理科大学教授の黒田玲子氏らによって報告されています。[2] ほんのわずかに分子間、分子内の水素結合が異なっており、光学活性体の方が結晶格子における水素結合が強いようです。
次に酒石酸が有機化学に大きく貢献することになるのは1980年です。当時スタンフォード大学のKarl Barry Sharpless教授の元に若き日の香月勗博士が留学しました。
シャープレス
当時Sharpless研ではバナジウムを触媒として用いたアリルアルコールの酸化反応を報告しており、それを不斉合成へ応用する検討を重ねていました。部分的にうまくいくものもありましたが、反応速度などに満足いかないものでした。そこで他の金属を試したところ、チタンの化合物がユニークな活性を示すことがわかりました。ただやはり十分とは言えなかったので他の不斉配位子として何かないか探すことになりました。
香月博士がAldrichのカタログをめくっていくと酒石酸ジエチルが目にとまりました。実は数日前にH. S. Mosher教授が化学教室内に安価に入手可能な光学活性化合物のリストを配布しており、この中に酒石酸ジエチルがあったこともこの化合物を選択した一因かもしれないと香月博士は述懐しています。[1]
ここで誕生したのが後のノーベル化学賞につながる、Sharpless-Katsuki不斉エポキシ化反応です。
他にも酒石酸を利用した手法は色々あり(例えばTADDOL)、有機化学の発展に寄与してきた重要な物質である酒石酸ですが、あまり知られていない特性があります。酒石酸カリウムナトリウムはロッシェル塩(Rochelle塩)としてしられていますが、このロッシェル塩の製造は戦時中重要でした。
ロッシェル塩の単結晶が高い比誘電率を示す強誘電体であることが1921年に報告され、イヤホンやマイクなどの圧電素子としてよく利用されることになりました。
第2次世界大戦中には通信、ソナー等に不可欠な軍需物質として大量に生産する必要があったため、ワインの製造が奨励されました。当時国内屈指のワインの産地であった山梨県にある大正6年創業の老舗ワイナリーであるサドヤに海軍技術研究所公務分室、通称「今井研究所」が設置されました。酒石酸を各地のワイン醸造場から集め、ロッシェル塩を精製する拠点となりました。この地で初めて製造されたロッシェル塩の結晶は当時の宮内省に納められたといいます。戦後に返却されたものが現在でもサドヤに保管されています。非公開でしたがこの度国立科学博物館で開催されているワイン展にて公開されています。2016年2月21日までやっておりますので、ぜひ一度観に行きたいですね。
サドヤに保管されているロッシェル塩(画像は株式会社サドヤ公式Twitterより)
ちなみにロッシェル塩は湿気に弱いため現在では圧電素子としての役目は終わっております。
単純な化合物ですが、対称性があり、不斉もあり、分子内にギュッと官能基がつまっている酒石酸はまたどこかで主役になるのかもしれませんね。
関連文献
- 香月ーシャープレス酸化反応の開発秘話 有機合成化学協会誌, 1991, 49, 340. DOI: 10.5059/yukigoseikyokaishi.49.340
- Crystal structures of dextrorotatory and racemic sodium ammonium tartrate. Kuroda, R. and Mason, S. F. J. Chem. Soc., Dalton Trans., 1981, 1268. DOI: 10.1039/DT9810001268