近年、遷移金属触媒を用いたsp3炭素のクロスカップリング反応が急速に進展し、注目を集めています[1, 2]。例えば、ペンシルバニア大のMolanderらは、2014年にNi/photoredox触媒を用いたハロゲン化アリールとアルキルトリフルオロボラート塩との立体選択的なクロスカップリング反応(図1) [3]を報告しています。この反応では、Ir photoredox触媒とアルキルトリフルオロボラート塩を用いることでアルキルラジカルが生じ、反応が進行していると考えられます。しかし詳細な反応機構は不明瞭なままでした。最近、同大のKozlowskiらと共同でMolanderらは筆者らは量子化学計算を用いた同反応の反応機構解明研究に関する論文がありましたので、論文中によく用いられる計算手法や用語を解説しながら紹介したいと思います。
“Nickel-Catalyzed Cross-Coupling of Photoredox-Generated Radicals: Uncovering a General Manifold for Stereoconvergence in Nickel-Catalyzed Cross-Couplings”
Gutierrez, O.; Tellis, J. C.; Primer, D. N.; Molander, G. A.; Kozlowski, M. C. J. Am. Chem. Soc. 2015, 4896. DOI: 10.1021/ja513079r
Molanderらの推定反応機構
2014年の報告中で以下のような反応機構を提唱しており、Ni(0)→Ni(II)→Ni(III)を経る触媒サイクル中のラジカル付加の段階(A2→C)で、立体選択性が生じていると想定しています(図2)。
今回筆者らは、DFTによる構造最適化(UB3LYP/6-31G(d)またはLANL2DZ)、さらに溶媒効果(SMD)を考慮したエネルギー計算(M06/6-311+G(d,p))を行っています。と、いいましても計算科学をご存知である方以外は謎のアルファベットが並んでいるようにしか見えないと思いますので、まずは量子化学計算の選定方法や、論文中によく用いられる計算手法について少し解説します。
量子化学計算の選定手法
今回のように構造最適化とエネルギー計算を別々の計算レベルで行うことはよく用いられる手法であり、妥当な計算レベルで最適化した構造に対し、より高い計算レベルを用いてエネルギーを求めるのが一般的です。
もちろん高いレベルの計算手法を用いることでより実験値に近いエネルギーの予測が可能となりますが、その分計算コストがかかる(必要な計算時間やメモリサイズが増大する)ため目的により使い分ける必要があります。
特にエネルギー計算に関しては、低レベルの計算手法を用いた場合実測値との差が顕著に表れます[4]。このため、エネルギー計算には構造最適化よりも高いレベルの計算手法(MP2, MP4, CCSDなど)を用います。今回の報告の中で用いられているM06はDFTではありますが、計算レベルの高いMP2に近いエネルギー値を予測することが可能です[5]。また、汎関数のレベルを上げるに伴い、基底関数も6-31G(d)から6-311+G(d)へとレベルを上げています(両方とも内殻起動は6個のガウス関数で表わされているが、6-311+G(d)ではさらに、価電子軌道を3つの部分に分けている)。
実験の論文でよく用いられる計算手法
UB3LYP/6-31+G(d,p)
- B3LYP: DFT法の中でも、最も頻繁に用いられている汎関数。電子相関の効果を取り入れている。
- U: ラジカルが生じる系において、スピン非制限用法を導入するために用いられる
- +: 分散関数を導入することで、アニオンやカチオンなどの電荷の局在化の大きい分子の電荷密度を考慮することができる。
- (d), *: 重原子に分極関数を導入することで、d軌道の分極を表現できる。
- (d, p), **: (d)に、さらに水素とヘリウムにも分極関数を導入した基底関数。第3周期のd軌道を含む分子の再現性に優れている。
- IRC: 遷移状態の構造から、出発物質と生成物の構造を自動で求めることができる。
- SMD, PCM: 溶媒効果を取り入れるのに用いられる
新たな反応機構がみいだされる
さて、話を元に戻しますと、計算結果より、筆者らが初めに想定していた反応機構(図1)ではなく、以下に示す新たな反応機構(図 2)の方が最もらしいとわかりました。
各段階の活性化エネルギーは以下の通り。
- Ni(0)に対する、アルキルラジカル種の付加: A→B2 / [4.8 kcal/mol]
- Ni(I)に対するアリールブロミドの酸化的付加: B2→C / [18.2 kcal/mol], 律速段階
- Ni(III)錯体と[Ni(II)錯体+アルキルラジカル種]の平衡: C→A2 / [2.7 kcal/mol], A2→C / [2.9 kcal/mol]
- 還元的脱離: C→D / [8.7 kcal/mol]
計算により、酸化的付加後に生じるNi(III)錯体Cからの還元的脱離の活性化エネルギー(8.7 kcal/mol)よりも、Ni(III)錯体CがNi(II)錯体A2 とアルキルラジカル種へ解離する際の活性化エネルギー(2.7 kcal/mol)の方が低いということが明らかになりました。この結果は、還元的脱離より速い[錯体A2 +アルキルラジカル種]とNi(III)錯体Cの平衡が存在することを示唆している。
立体選択性はどこで発現する?
明らかとなった反応機構より、筆者らは立体選択性が還元的脱離の段階において発現するという着想に至った。
筆者らはこの想定を検証するために、不斉配位子と1-フェニルエチルトリフルオロボラート塩を用い、Ni(III)錯体と[Ni(II)錯体+アルキルラジカル種]間の平衡と、還元的脱離の遷移状態の考察を行いました。その結果、A2′、C’favまたはA2′、C’disfav間は平衡状態であり、C’favまたはC’disfavから生成物に至る遷移状態(C’fav -TSまたはC’disfav-TS)のうち活性化エネルギーのより小さなC’fav -TSを経由して反応が進行することがわかりました。以上より筆者らは、立体選択性はNi(III)錯体C, C’の動的速度論的光学分割(Dynamic Kinetic Resolution)によって説明できると考えました(図3)。
さらに筆者らは、様々な基質を用いて立体選択性を決定する遷移状態(還元的脱離の遷移状態C-TS)の計算を行いました。その結果、パラ位により嵩高い置換基を持つアリールブロミドを用いると、より高い立体選択性が発現するとされました。この計算結果は、実際の実験結果と同様の傾向を示すことが判明しています(図4)。
今回の報告により、Ni/photoredox触媒を用いたsp3炭素のクロスカップリングにおける詳細な触媒サイクルや立体選択性の発現機構が初めて明らかにされました。計算科学の論文は辻褄を合わせているようなものもありますが(計算だけでわかったら、実験いらないですよね。あまり期待しなければ問題無いです)、実験化学と併せて報告している論文は計算結果のフィードバックという両方向からのアプローチができるのでより面白いですね。
関連論文
- Zhou, J. S.; Fu, G. C. J. Am. Chem. Soc. 2003, 125, 14726. DOI: 10.1021/ja0389366
- Jana, R; Pathak, T. P.; Sigman, M. S. Chem. Rev. 2011, 111, 1417. DOI: 10.1021/cr100327p
- Tellis, J. C.; Primer, D. N.; Molander, G. A. Science 2014, 345, 433. DOI: 10.1126/science.1253647
- Saito, B.; Fu, G. C. J. Am. Chem. Soc. 2008, 130, 6694. DOI: 10.1021/ja8013677
- Droogenbroeck, J. V.; Tersago, K.; Alsenoy, C. V.; Blockhuys, F. Chem. Phys. Lett. 2004, 399, 516. DOI; 10.1016/j.cplett.2004.10.065
- Bryantsev, V. S.; Diallo, M. S.; van Duin, A. C. T.; Goddard III, W. A. Chem. Theory Comput. 2009, 5, 1016.