皆様明けましておめでとうございます!2015年もよろしくお願い申し上げます。
さて、皆様はどんな初夢を見ましたでしょうか?
ケムステ読者の方なら皆さんご存じの通り(?)、今年はケクレ(Friedrich August Kekulé von Stradonitz)がベンゼンの構造を提案する論文を発表してから150年という記念すべき年です。
ケクレがベンゼンの構造を思いついたとされる夢については、ベンゼンといえばケクレ、ケクレといえばベンゼンというくらい有名です。今回のポストではAngew. Chem. Int. Ed.誌のEssayと、Nature Chemistry誌のthesisでこの話題がとりあげられておりましたので、内容を混ぜましてケクレとベンゼンの物語について紹介したいと思います。
ベンゼンの発見から混迷の時代
ベンゼンの発見の歴史はまず19世紀の前半ロンドンのガス管から始まります。寒いロンドンの冬、ガス管内に液状のものが発生しガス管の流れが悪くなってしまう現象がありました。London’s Portable Gas Co.の設立者であるゴードン(David Gordon)はファラデー(Michael Faraday)にこの原因の調査を依頼します。ファラデーはその流体の性質を調査し、液体から”bi-carburet of hydrogen”すなわちC2Hを単離したと1825年に報告しています[1]。純粋な形で単離してるわけではないかもしれませんが、これがベンゼンだったと考えられます(ベンゼンの融点は5.5°C)。
それから約10年後、ミッチェーリッチ(Eilhard Mitscherlich)は安息香酸(benzoic acid)を水酸化カルシウムで処理することにより、ファラデーのbi-carburet of hydrogenと考えられるものを合成しました[2]。ミッチェーリッチはファラデーが提唱した炭素と水素の比率が誤りで、炭素と水素の比は1:1であることを提唱し、この化合物の名称を”benzin”と名付けました。この報告が後の研究に大きな方向性を導くものとなりましたが、混迷の時代は続くことになります。例えば、1861-1862年頃にはベンゼンやトルエンにいくつかの異性体が存在することが提唱されていたり、5炭素の類縁体が存在することも提案されていました。これらの“事実”から、ベンゼンの構造として(正しい)“シクロヘキサントリエン”構造は却下されてしまいました。
ケクレの登壇
しかし、1863から1864年頃に数名の化学者がこれらの知見は誤りであり、ベンゼン、そしてベンゼンの一置換体には異性体は存在しないこと、芳香族化合物の最小単位は6炭素であることを明らかにしました。ケクレはこれらの事実に着目しました。それは執筆中の教科書に芳香族化合物に関する記述をするためであったのかもしれません。なぜなら、当時染料などの工業製品に芳香族化合物の重要性が増していたためです。
ケクレ自信の証言を信じるならば1862年には例の白昼夢を見ていましたが、状況がまだ混迷していたため直ぐには論文にとりかからなかったとのことです。論文作成には一年近くの時間がかかったという証言があることから、論文の作成は1864年頃から始めたことになります。
実はケクレは当時論文作成に集中できない状況に置かれていました。1863年の5月に妻のステファニー(Stéphanie)が、彼らの第一子であるステファン(Stephan Kekulé von Stradonitz)の出産に際し亡くなってしまうという悲劇に見舞われます。ケクレはしばらく塞ぎ込んだといいますが、1864年8月に発表された論文[3]を目にしてようやく動き出します。しかしやはり困難であったようで、私的な助手を二人雇い入れています。それでもやはり順調にはいかず、1865年の最初の9日間はパリで過ごします。この滞在中に友人であるヴルツ(Adolphe Wurtz)に会っており、ここでもしかしたらケクレの新しい理論について1月27日に行われるフランス化学会でヴルツに紹介してもらうように頼んだのかもしれません(実際ヴルツは紹介したようです)。
記念すべき論文の発表
論文を送る二週間前にGhentに戻ったケクレは、教え子の一人であるバイヤー(Adolf Baeyer)に手紙を送っています。その手紙の中でケクレは新しい論文が自分たちの実験結果を何も含んでいないこと、理論の中で良い部分は新しくなく、 新しい部分はあまりよい考えではないという懸念を綴っています。あまり自信があったわけではないようですがともかく、ケクレはこの考えに関する短い論文をフランス語でBull. Soc. Chim. Fr.誌に投稿します[4]。
しかし、この論文ではまだ現在のベンゼンの形が表現されているとはいいがたいものでした。その代わりにソーセージのような形が図で描かれており、これは6年前に使っていた形でした。
この図ではソーセージで表された炭素の鎖が単結合、二重結合が交互に並んでいるように描かれ、かろうじてソーセージの先に書いてある矢印から、それらが環状になっているか、もしくは閉じた鎖になっているかが想像できます。また、奇妙なことにこの論文ではベンゼンの対称性(六角形)や置換ベンゼンの異性体の数について明言されていません。
この奇妙な遠慮は2ヶ月後には消え去ります。バイヤーへの手紙には研究室の活気が戻ってきたこと、さらに一ヶ月後の手紙にはケクレの芳香族に関する理論に対する自信が綴られています。そして1866年の初頭、フランス語の第一報から本質的に変わらない理論にさらなる肉付けをした論文をドイツ語で発表しました[5]。この論文は多くの化学者に支持される結果となり、反対した主要なドイツの化学者はコルベ(Hermann Kolbe)くらいでした。ここにケクレがベンゼンの構造の提唱者となったのです。
1866年の論文ではついにソーセージ構造式は姿を消し、現在のベンゼンの姿に大きく近づいています。1872年にはシクロヘキサトリエンにおける小さな懸案として残された、二重結合と単結合の位置による異性体の問題も、それらが交互にすばやく入れ替わっているという、いわゆるケクレ構造式に到達することで物語は完結するのです[6]。
現在のベンゼンの姿になるのには、量子力学が確立され、共鳴とは何かが理解されるまでさらに60年近くの歳月がかかりました。
プロローグ
ここでベンゼンの構造を最初に提唱したのは誰なのかということに対してわずかに疑問が残ります。まず前述の通り、ケクレ自身がフランス語の論文を発表する際に懸念していた通り“シクロヘキサトリエン”構造は目新しいものではありませんでした。1858年にはクーパー(Archibald Couper)、1861年にはロシュミット(Joseph Loschmidt)なども環状の構造を、さらに1854年にはローレント(Auguste Laurent)が塩化ベンゾイルの構造を表現するのに六角形を使用しています。 ケクレ自身“ケクレの夢”以前にこれらの論文に気付いていたことが知られています。だからと言ってこれがそのまま不正行為で、ケクレは盗作を行ったということにはならないでしょう。当時の科学の状況を考えれば、理論や論文が錯綜することはよくあることで、現在のように論文がオンラインですぐさま世界中に知れ渡るということもありません。少しずつ、科学的発見や理論はは様々な角度から検討され証拠が積み重なった結果現在のような姿を形成していったのであり、ケクレが詐欺的行為を行ったということはないと信じます。
そして、ケクレの論文から25年が過ぎた1890年3月11日、ベルリン市会議事堂において、ベンゼン祭(benzolfest)と銘打ってケクレの偉業を讃える祝賀会が開催されました。開会の辞は当時ドイツ化学会会長のホフマン(August Wilhelm von Hofmann)で、ベンゼンの発見から構造を明らかにするまでの歴史について平易に解説したとされます(祝賀会には科学者以外の招待者も多数いたため)。その後バイヤーの記念講演などの後、最後はいよいよケクレの演説で締めくくられました。
画像はViva Origino 2001, 29, 143より
この演説においてあの“夢”すなわち、
暖炉の前でうとうとしていた際、蛇が自分の尻尾に噛みついてグルグルと回り出し、これから着想を得てベンゼンの構造に思い至った
というお話しが公の場で初めてされたことになっています。
しかし、そもそも講演にこの“夢”の話が本当にあったのか自体に確証がありません(当時のベンゼン祭の報道中にヘビの逸話に関する記述は無い)。後に講演録が書き起こされますが、ケクレ自身が行っていることから、様々な脚色がなされている可能性が否定できないのです。また、ケクレがその他の逸話、例えば1855年に馬車に乗っている時に原子や分子がダンスするように飛び回るビジョンを見て着想を得たという話しを1890年にしたこともあります。よって、何がベンゼンの構造に思い至った経緯なのか?という直接の話は特に無いのではないかと思われます。
しかし、ケクレがどのような経緯で着想に至ったかは重要ではなく、科学の成果を面白おかしく一般の人に伝えるという意味ではよいのではないかと思います。この逸話は教科書に載るくらい有名なお話しで、ベンゼンの印象を強烈に読者に残しているのではないでしょうか。それだけでも大きな成果です。
ケクレからのメッセージ
さて話をケクレの講演に戻しましょう。ケクレの講演は“夢”の話がメインではありませんでした。ベンゼンの構造の解明の業績が自分一人の貢献によるものではないということ、また先達の学説の重要性を説きました。科学の進歩に関しての誠実な態度がよくわかります。また最後は若者に対する教訓にて締めくくられたと言います。
「君が化学者になりたいのであれば、健康を損なうくらいの覚悟が必要である。身体のことを心配しながらやるように勉強しても、現在の化学の分野では、大成することはない」
これはケクレがギーセン大学で師のリービッヒ(Justus Freiherr von Liebig)の教えでもありました。
ケクレの門弟には前述のバイヤー、ファント・ホッフ(Jacobus Henricus van ‘t Hoff, 1901年ノーベル化学賞)、フィッシャー(Hermann Emil Fischer, 1902年ノーベル化学賞)など、偉大な業績を残すことになる偉大な科学者たちがいることからもわかる通り、素晴らしい教育者であったことは想像に難くありません。
そんな記念すべき2015年ではありますが、ケクレの化学者としての偉大な業績に思いをはせつつ、今年も一年良いサイエンスが皆様に訪れることを祈念いたしております。
今回のポストは主に以下の二つの文献を参考にさせていただきました。
[7] A molecule with a ring to it. Francl, M. Nature Chem. 2015, 7, 6-7. doi: 10.1038/nchem.2136 [8] It began with a daydream: The 150th anniversary of the Kekulé benzene structure. Rocke, A. J. Angew. Chem. Int. Ed. 2015, 54, 46-50. doi: 10.1002/anie.201408034
参考文献
[1] Faraday, M. Phil. Trans. R. Soc. Lond. 1825, 115, 440. [2] Mitscherlich, E. Ann. Pharm. 1834, 9, 39. [3] Tollens, B.; Fittig, R. Ann. Chem. 1864, 131, 303. [4] Kekulé, A. Bull. Soc. Chim. Fr. 1865, 3, 98. [5] Kekulé, A. Ann. Chem. 1866, 137, 129. [6] Kekulé, A. Ann. Chem. 1872, 162, 77.
マップ
ケクレの銅像、ケクレの墓、ケクレ通りなどケクレ関連も化学地球儀にて紹介しています。