鈴木大拙 国内外で著名な禅文化の伝道者
明治~昭和にかけて活躍
「君はわけのわからんことを言うね」 実はそれは一番の褒め言葉なのかもしれません
Tshozoです。忙しいフリをするのも実力のうちです。というか窓際なので忙しいわけがありません。いやホンマ。
今回は書籍紹介を兼ねて毎度のヘンな内容をお送りします。
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・・・化学との関係性は薄いかもしれませんが、まぁ聞いてください。
まずは著者紹介から。鈴木大拙(すずき だいせつ・本名は貞太郎)氏は、金沢出身の東洋哲学者。近代に(おそらく)はじめて西洋文化との比較をもとに禅を特徴づけ、世界に向けて禅文化を発信した思想家でもあります。京都大学の西田幾多郎とも交友があり、晩年は日本学士院会員としても活躍しました。生まれ故郷の金沢には「鈴木大拙館」があって、御本人に纏わる歴史や著作紹介が展示されており非常に興味深い内容となっていました。偶然かもしれませんが筆者が行った時は来場されていたうち海外の方が8割以上で、同氏の著作が如何に海外の関心を惹きつけているかを示していた気がします。なお禅文化で特にアメリカで有名な「鈴木」はもう一人居られ、「鈴木俊隆」という方が居ますが、今回はこちらの俊隆氏ではない方の鈴木氏です。
「鈴木大拙館」HPより引用 水面を楽しみつつ静観出来る写真正面の間がお勧め
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で、今回紹介するのは昭和16年に同氏(大拙氏)が書いたものを春秋社殿が新装版化したものです。本書は仏教をベースにしているので抵抗を感じる方も居られると思いますが、どうか最初の三頁くらいを読んでいただければ有難いです。そこに書かれていることの不思議さ、奇妙さに引き込まれ、どんどん読み進めることになるでしょう。また岩波書店からは鈴木大拙全集も出ていますので、同氏の書物には事欠かないと思います。
なおTshozoは特定の宗教団体には属していませんし、本件は布教とか説伏とか地獄に落ちろとか一切関係ありません(本書も仏教というより「大拙哲学」ともいう感があります)。禅宗を専門にされている方から見れば不十分な点も多々あると思いますが、不備がありましたら是非ご指導いただければ幸いです。
本書の内容
タイトルのとおり、「禅問答」と「悟り」について書かれた本です。「禅問答」とは、仏教的な「悟り」に至るための重要な考え方で、達磨大師(菩提達磨/インド人と言われ、「祖師」と言われることがある)が創始した仏教の一種「禅宗」の中で行われる修行の一形態と考えればいいと思います。余談ながら「ダーマの神殿」が出てきたゲームがありましたが、あれは実は「ダルマの神殿」で、今回の件はそこで賢者になるためには「悟りの書」が必要ということの背景になります。 御託はともかく、まずは本書に書かれた「禅問答」の例を数点見てください(一部他の書籍からの引用を含む・一部要約)。
①達磨と慧可 慧可は禅宗の二祖・・・開祖の達磨の意思を引き継いだ高僧
慧可:「私の心がどうも不安なので、安心をさせてくださいませ」
達磨:「その心というものをここへ出してみせるのなら、汝のために安んじてみせよう」
(中略)
慧可:「内外中間、永年自らの心を求めようとしてきましたが終に得られませんでした」
達磨:「それだ! 汝の心を安心させた」
(これで慧可は悟った)②馬祖と百丈 いずれも700年代の中国の高僧
雁が啼いて飛び立ったのを見て馬祖が言った
馬祖:「あれは何だ」
百丈:「あれは雁です」
馬祖:「どこへ飛んでいくのか」
百丈:「もう飛んでいってしまった」
そこで馬祖がいきなり百丈の鼻を引っ掴んでねじり上げた
百丈:「痛いでござる、痛いでござる」
馬祖:「飛んで行ったというが、まだここに居るではないか」
(これで百丈は悟った)③投子大同と、ある僧 投子大同は900年代の中国の高僧
僧:「那太太子(毘沙門天の五太子の一人)というのは、骨を析いてこれを父に還し、肉を析いて母に還すというが、そうだとすると一体那多太子の本来身なるものは何だろうか」
投子大同:その手に持っていた拄杖(しゅじょう・坊さんの持つ杖)を放り出した
・・・? なにをやってんのかわからねえと思いますが筆者も正直わかりません。なお①は「一休さん」の有名なエピソード「屏風の虎」のモチーフにもなったものです。 もっとわかんないのもあります。
④馬祖と、ある僧
僧:「祖師がわざわざ西方から来られた意味は何とお考えか(祖師西来意)」
馬祖:「もそっとこちらへ来られよ」
僧が近づくと、馬祖はその僧の耳を平手で叩いて言った
馬祖:「何もかも赤裸々に現れているではないか、この馬鹿者が」
わからんですね。これが果たして「悟り」につながるというのか。知的な気がしないでもないですが、はぐらかされてる気もする。何か深遠なものがあるような気もしますが、傍から見ると意味の無い会話をしているとは思えない。第一こうした日常的なことで何を悟れというのか。少なくとも論理的ではなさそうだし、布教とかとも関係が無いもよう。しかし何にも意味のないものが1000年以上も、今に至るまで続くわけがない。
喩話を用いると「禅」でなくなるのを承知で書きますが、自転車の乗り方を論理的に説明できますか?逆立ちのやり方でもかまいません。どちらも、相当難しいでしょう。物理学に基づいて書こうとしたら一冊本が出来上がるくらいですね。さらに人間工学、心理学的な面を捉えたらさらにもう何冊も書けるかもしれない。そうではなく、「体当たり的に」やったら、ある瞬間から「わかる」。わかったことは当たり前のことなのに人にはうまいこと説明できない。でも手取り足取り教えることは出来る。そんなものに例えられる気がします。ということは、禅問答というのは(本来は仏教的に、ですが)「直観的なもの」「論理的に表しにくいもの(非論理なもの)」をどう捉えるかということにつながるのだと思われます。なおあてずっぽうとかデタラメとかいうのは非論理ではなく、未論理(未だ論理たりえず)です。あてずっぽうの当たる確率が那由多の彼方でもやる意味はあるかもしれませんが、未論理をそこまで続けられるほど人生は長くありません。
イノベーションなどとの関係
なんでこういう話を持ち出したかというと、非論理的で論理的、連続的で非連続、また否定と肯定がごっちゃになっているようなものはイノベーション(又はインベンション)、またそれを生み出す人物と密接な関係があると感じたからです。
【例1:世界初のエアバッグ開発】
以前挙げたホンダの小林三郎氏。同氏が書籍「ホンダ イノベーションの神髄」の中で挙げていたこととして同氏がエアバッグの開発で当時社長の久米氏からコンセプト(精神的支柱)の不在を厳しく追及された結果、
「技術的な故障は、技術で解決できる」 「あたりまえのことを徹底してやる」
という2つのコンセプトに辿り着きました。
普通、エアバックの性能向上とかじゃないのか。第一この文章自体は論理的なのですが何故これがエアバッグ開発の全てを支える支柱なのか、にわかには理解できない。おそらくこの開発に関わっている人たちにしか通用しないはずなのに、ことばとしては一般性がある。しかも実際この2つに頼って世界初のエアバッグを商品化したわけです。
この開発の詳細は小林氏の書籍をお読みいただくとして、こういう思考の飛躍がありながらも連続性がある、また部分的だけれども包括性のある言葉がコンセプトや普遍性のある切り口につながる点が、禅問答と共通点があるんでは、と思う次第です。なおイノベーションは技術的なものだけではなく、コンセプトにも及ぶものであることはご承知おきください。
【例2:熱力学第2法則】
筆者が尊敬するR. J. E. Clausius。1850年~1865年の最も活躍した時期、熱力学第2法則を導き出した経緯をよく見てみると、一足飛びに現代で使われるような不等式に至ったわけではなく、途中で「熱は高温から低温に流れる」という、至極もっとも当たり前な原理に気づいたことがわかります。これを軸に、では「熱の降下はどうして不可逆なのか、一体何が不可逆なのか」を考慮し、おそらく熱力学最大の発見のうちである一つ「エントロピー」という概念に至りました。この「あたりまえ」ながら誰も気づかなかった、しかし熱の本質を表した表現こそ、論理的かつ非論理的なものと感じられます。
【例3:スティーブ・ジョブス】
アップルコンピュータCEO スティーブ・ジョブス。彼はヒッピー時代に上述の鈴木俊隆(すずき しゅんりゅう)に出会い、禅文化に触れています。その後、俊隆氏の後継者、知野弘文氏との交流を通じて禅に親しんでいました。同氏の功績はここで述べるまでもなく、何が禅と関係していたかをきちんと証明するには難しいのですが、同氏の部下の興味深いエピソードとして下記のようなものがあります。
「・・・ジョブズの要求する水準を満たさない者に対しては放送禁止用語だらけの罵声を浴びせたりすることでも知られる。アップルPR担当チーフ(当時)のローレンス・クレィヴィアはジョブズとのミーティングの前には必ず闘牛士と同じように「自分は既に死んだ」と暗示をかけてから挑むと同僚に語っていた」【The Trouble with Steve”. フォーチュン. (2008年3月16日)より】
これと、本書に載る曹洞宗の開祖 道元の発言を並べてみましょう。
「即心即仏(禅の教義的に非常に重要と考えられている一文)など言うはきちがいのいうことだ。(中略)そんなことでは天地懸絶、禅などわかりっこない。(中略)小さなひしゃくで大海の水を汲み乾かそうとしたって、汲みつくせるはずはない。(中略)そんなものはいずれも野狐禅だ、自分はそいつらを一時に勘破したぞ」
ジョブスが部下をこき下ろすのと同様、まるで禅の教義をこき下ろしているような印象を受けますね。これを禅問答的に考えると別に何も非難とか批判とはしているわけではなく、特定の「悟り」に向かってただ自らの取組み方を述べているにすぎず実は全く「即心即仏」と同じことを言っている、ということになります。
まとめ
安直に上で挙げた禅問答とイノベーションに纏わる例の対比をすると、共通するのは「非連続なのに連続性がある」「特殊なのに一般性がある」「論理的でもあるが、非論理的でもある」という性質自体を抱えるものをどう「簡潔に」表現するかを示していることと思われます。つまり、禅問答①②③において、
①の例では「心は具象化出来るものでも得られるものでもない」 という性質を示したこと
②の点は「ここにも無いが、ここに在る」ものがどういうことなのかを示したこと
③は「那太太子」の性質とは何ぞや、ということをたった一動作で示したこと
と解説されます。ただし同書では『分析した瞬間から、それは「禅」ではなくなる』と言って厳しく戒めていますが・・・きっと、こうしたことを文字として「あらわした」瞬間、他の要素を全てなかったものとしてしまう、つまりはじめて自転車に乗ろうとしたその心意気や怯えや昂揚感、不安感のようなものを一切合財切り落としてしまうからなのでしょう。加えて、禅ではことばの上の否定も肯定も全部一緒で、ただ自らの取組み方(そしてそれがどの程度真摯であるか)を述べている点も非常に興味深いところです。
翻ってイノベーションやインベンション。もちろん上記に依らない例も山ほどあるでしょうけど、筆者が今まで目にしてきた例は基本的に跳んだ思考から生まれたものがほとんどでした(都合により還元主義的な研究開発の場にあまりいれなかった、ということにも依りますが)。
その時の先輩方の発案例を見ていると、思考がやたら跳んでいるのに連続性があるものがかなり多かったです。おそらく意識下では連続しているのでしょうが、発案を見せられると技術的にはとんでもないことを言ってるようにしか見えない。しかし、実際やってみるとうまいこと出来たり、失敗しても極めて興味深い結果が出てきたりする。そういう達人のレベルになると「意識下の連続」という棚を山ほど持っている気がします。
ただ組織内ではそういう人ほど「わけのわからんことを言う奴」というレッテルを貼られ、人事的には極めて酷い扱いを受けていましたが、その連続性かつ非連続性を持つ性質のものに本当に真剣に向き合っていない人間にとっては全く理解できない人物、と映るのでしょう。ある意味最高の褒め言葉なのかもしれません。逆にそうした「わけのわからんことを言う」人物を追い出すような組織からはイノベーションなど出てくるわけがないとも言えます。漫画「グ●ップラー刃牙」でも、空手家 愚地独歩が言っていましたよね、「蛋白質とカルシウムだけで医学を語るお医者さんには理解できねぇだろうな」、あれですよ。
ともかく、禅問答に限らず「論理を超えたものをどう捉えるか」というのは常に我々の生活の中で突きつけられている問いであり、同書に書かれていることが皆様の一助になれば幸いです。
最後になりますが、この本の中で最も印象に残った問答を。
ある僧:「そんなに不動の姿勢で、一心に何を思量めさる」
薬山和尚:「この思量を絶したものを思量しているのだ」
ある僧:「既に思量を絶すというものを、どうして思量すべきであろうか」
薬山和尚:「思量に非ず」
それでは今回はこんなところで。