Tshozoです。今回、純粋な化学案件を紹介できる機会を頂きました。どうかお付き合いください。
今回紹介する原論文はこちら。
“Carbon-carbon bond cleavage and rearrangement of benzene by a trinuclear titanium hydride”
Hu, S.; Shima, T.; Hou, Z. Nature, 2014, 512, 413 DOI:10.1038/nature13624
理研 侯研究室(HP)による成果で、内容は「水素化化合物による低温でのベンゼン環の切断」です。世界で初めて室温レベルでベンゼン環の二重結合を切断した今回の成果。その意義、歴史的経緯、詳細、今後の展開と4つに分けてご紹介しましょう。
今回侯教授が創発させた反応*
意義
ベンゼン環や二酸化炭素、窒素など小分子の低温での活性化(切断含む)が社会的にどういう意義を持つか、の説明です。
小分子を電子回路に例えてみます。やっと電子回路が完成したのに、間違いで1個、部品を入れ忘れた。どうしよう。何とかスペースは作れそうだが、ねじ込んでも電気的にどうつなげよう、第一ハンダが当てられない。それに隣の素子は熱に弱いから壊れてしまう。もう終わりだ・・・というときに、うまいこと低温でヒョイと放り込めたら色々設計の自由度が広がりますよね。ミスもリカバーできますし。
写真はあくまでイメージです
この例を化学合成に戻すと、医薬・農薬原体などに低温で小分子を放り込むということに相当します。ですが基本的に小分子は捕まえにくく結合エネルギーが高いので、一般的には苛烈な温度・圧力で反応させざるを得ない。その代表例は以前紹介 しました「ハーバー・ボッシュ法」。欧州化学の雄BASFによる世界初の工業化に端を発した反応法です。またベンゼンも高温下、固体触媒を用いた反応があるにはあります(下図)。しかし、正直どれも巨大設備による「工業化学」していてモノによってはあんまり経済的ではない。初期投資高いし。
一般に見られるベンゼン環「開裂」の例 水素添加反応としてよく知られる
ベンゼン水素化設備の例 画像出典:GTC Tech社 HP
一方、医薬品や農薬原体の合成については上記のような乱暴な手法が取れないケースがほとんどです。狙ったところに小分子を応用した構造をビルトインした いと思っても高圧・高温の条件下だと選択性が低く、へたすりゃ基質が壊れてしまう。誤解を恐れずに言うと、あんまりスマートではない。
・・・ということで、低温での小分子の活性化は、他の分子構造に影響を与えず、「微妙な位置に狙った元素を放り込める、又は変性できるという都合のよい反応法の開発」に繋がる点にその意義のひとつがあるわけです。またエネルギー問題的にも、CO2やN2等の不活性分子をどう効率的に「還元」するかは大きな課題であり、いずれも社会的に重要な課題と繋がっていると言えましょう。でも結合エネルギーから考えるとやっぱり技術的には難しい。ではどうすればよいのでしょうか。
参考:各小分子、小結合の強さを示す結合エネルギー一覧(単位:kJ/mol)
ただし真空中の「完全乖離エネルギー」であり、あくまで参考値
というわけでまとめますと、小分子をうまいこと温和な条件下で活性化して合成手法を広げられないかということが今も昔も望まれており、そのための研究は粘り強く継続されています。今回はその中でも有機金属錯体を利用した手法に絞ってその歴史的経緯を見ていきます。
歴史的経緯
小分子の活性化の方法論として「どうやって錯体に吸着させて、反応につなげるか」というコンセプトを提出したのは、イギリスの無機化学者、Joseph Chatt教授(故人)ではないかと考えられます。Chatt教授は1982年にノーベル賞の登竜門の一つと言われる「ウルフ賞」を受賞した著名化学者です。
そのChatt教授の名前を残す、「Dewar-Chatt-Dancunsonモデル」から紹介しましょう。以前「つぶやき」で紹介されたこのモデル、有機分子が金属錯体へ電子を供与したりされたりすることを考えるのに重要なものです。
Dewar-Chatt-Duncansonモデル(DCD model)にあてはまる一例
中心金属のd軌道とアルケンのπ軌道が呼応して金属側から電子が供与される
小分子が関係する反応でこのモデルの有効性をを示したものとして、Chatt教授が提唱した窒素分子の触媒的反応モデル「Chatt-Cycle」の中のキー反応があります。非活性な窒素分子を有機金属錯体に「くっつけて」「反応させて」「離す」うち、一番最初の「くっつけて(配位させて)」の部分で有機金属錯体がどういう電子軌道構造を持ってなければならないかということに対して提示したコンセプトが、DCDモデルを応用した「軌道を合わせて、電子を供与(+逆供与)させる」というものでした。
Chatt教授が提案した窒素分子の「くっつける」コンセプトを示した図 [1]
窒素分子の活性化の例(左がSchrock教授、右が西林准教授による例)
中心金属の変形d軌道が窒素の空軌道へ電子供与し、また窒素のs軌道が電子を供与し得る構造をとる
窒素分子活性化についてはほとんどのケースがこのChatt教授のコンセプトに基づいたものになっており、ノーベル賞受賞者のMITのSchrock教授[2]、Princeton大学の超新星Chirik教授[3]、Yale大学のHolland教授[4]、東京大学の西林准教授[5]ら著名教授が活躍し鎬を削っているホットな分野です。そして本件でご紹介する侯教授も本件の材料にて窒素開裂まで成し遂げており、さらに競争が激しくなることが予想されましょう。[6]
侯教授による、チタンヒドリド錯体を用いた窒素活性化(開裂)
Chattのコンセプトとは異なる珍しい例
なお他にもCalifornia大Riverside校 Reed教授の超強酸による不活性分子の活性化、Tronto大 Stephan教授によるFrustrated Lewis Pair(FLP)による小分子活性化など、DCDモデルと異なる視点で分子を活性化する手法もあるのですが、今回は有機金属錯体とは少し異なるということで割愛します。
今回の詳細
以上をふまえて今回の成果。中心となるチタンヒドリド錯体の分子構造を見てみると、窒素のような電子供与の仕方ではなさそうです。これはおそらく上記のDCDモデルの変形で、Tiの軌道の一部が下図のようなかたちでベンゼン環の2つの二重結合に電子を供与して「くっついた」反応がまず進んだとみられます。
今回のキーとなったと考えられるDCDモデルのイメージ
そして、下図の化合物3の時点で残ったTiが近接した炭素をアタックしているような印象を受けます。そしてこの位置がキーポイントになってベンゼン環が歪み、切断が進んだのではないかと考えられます。驚きなのはこの時点でいきなり6員環が5員環に変形してしまうことでしょう。
今回の反応の概要*
なお上のSchrock教授の例(HIPT)でみたように、反応方向性を絞るために立体障害性が極めて高いバルキーなC5Me4SiMe3という防御基を装備しており、他からの副反応を防げるようになっています。
C5Me4SiMe3基
上に挙げたChirik教授もよく使用する効果的な保護基
もちろん構造だけでなく、エネルギー的に安定な構造を作り得るか、つまり自発的に反応が進みうるかというのも重要になるわけでMO diagramを描かないと正確には判断できないのですが、結果的に切断されているので安定構造が発生するような関係性を持っているのだと推測します(適当)。ただ今回のこの錯体、前例で窒素分子も開裂させている実力を考えると、窒素を常温常圧で還元するリチウム同様、相当強い電子供与性を持つはず。ベンゼン環がこうした強い電子供与性に対し反応するのは筆者にとって意外なのですが、ベンゼンもアルケンの異種であると考えるとその余地は十分にあったのでしょう。
しかし実際に「変化」に気づき、「追及する」ところが侯教授の一流たる所以。この記事を執筆するにあたり侯教授にコメントいただいたのですが、先に一部紹介すると、
「・・・この研究の中で、非常に妙な『溶媒効果』に気づきました。THFやヘキサンなどの溶液中では割ときれいな生成物を得やすいが、ベンゼンやトルエンなどの芳香族溶媒中では、反応が複雑になるようです。そこでAr雰囲気下でチタンヒドリド錯体だけを重ベンゼンに溶かし1H NMRで追跡したところ、スペクトルが大きく変わっていることがわかりました。・・・錯体がベンゼン中で「分解」したようです。室温で数日置いたところ、溶液から単結晶が析出しました。・・・ベンゼン環の炭素―炭素結合の切断と骨格変換が起きていることがわかり、非常に驚きました。その後13C同位体でラベルしたベンゼンの反応や反応中間体の検出・解析などに加え、トルエンも加えて調査し本論文を仕上げました。・・・このチタンヒドリド錯体は微量の窒素でも「分解」してしまい、また通常のベンゼン溶媒とも反応するため、最初はその素性を突き止めるためのinertな環境を作り出すにはとても苦労しました」(勝手ながら筆者一部改編致しました)
との記載がありました。下線部は個人的には何とも不思議な印象を受けた次第です。
今後の展開
【反応剤として】 ベンゼン環を室温レベルで切ることのできる触媒はこれまで見つかっていません。また同触媒はベンゼン環同様トルエンの炭素結合も切断することが出来ることがわかっており(一部中間体は異なる)色々な形態に使用出来そうな、恐ろしいポテンシャルを持つと考えられます。ただし、本件の材料がベンゼン環のみ「選択的に」Cleavage出来るかどうかの記述は同論文にまだ見当たらないことから、副反応が発生するおそれも考えられます。是非とも、選択性が高くかつ反応性の高い試薬へと止揚されることを大いに期待いたします。
【触媒として】 今回の反応の(個人的に)残念な点は「触媒的」でないということです。反応を見て頂ければわかりますが、金属錯体の構造が反応途中に変化しています。もしこの反応を進めようとすると当量の錯体が必要になり、アトムエコノミカルではなくなってしまいます。そこで今後は、水素化物等と連動させて触媒的反応を進行させる等でこの反応が触媒的に回ることを目指していっていただきたいと考えております。大掛かり設備が不要なベンゼン改質も夢ではありません!
いつも思うのですが、こうした素晴らしい成果はダイヤの原石であり、磨き方で様々な美しさを放ってくれるものと思われるのですがどうでしょうか。侯教授、そして化学者の皆様の「磨き方」の発案とその実現を期待いたします。
最後に:侯教授よりメッセージ
最後になりますが、本反応の発見に関しお寄せ頂いた侯教授の印象的なコメントを一部抜粋します。一流の認識力とはこうした姿勢に現れるのだなあとつくづく思い知らされた次第です。
「・・・有機金属化学研究においては、よく「錯体が分解した」ということを耳にしますが、私は「分解」という言葉はあまり好きではありません。化学では、「分解」も立派な「反応」のはずです。それを突き止めることができれば、予想外の発見につながる場合が多いのです。本研究もまさに錯体の「分解」から始まったのです。今回の研究成果は、共同研究者の胡少偉特別研究員や島隆則上級研究員の細心の観察とたゆまぬ努力の賜物です。」
侯 召民
それでは今回はこんなところで。
*図のいくつかは侯教授より提供いただきました。