今回はちょっと趣向を変えて、とある語学研究者をご紹介します(“語学の神様” 関口存男氏 画像はWikipediaより引用)。
Tshozoです。 今回は化学から離れ、語学に関するお話をひとつ書こうと思います。
そもそも日本語が不自由だというのに何故こんなことを書こうと思うのか。それは、自分がこの齢になるまで語学で非常に苦しんできたためです。何やっても点数は伸びないわ仕事で使っても通じないわバカにされるわで、散々な目にあっておりました。
ところがあるプロジェクト以降、何故かスルっと大量の英文が読めたり要旨がわかったり、なんとなく言いたいことがわかったり通じたりすることが増えました(もちろん未だ未だ不十分ですが)。それを振り返るに、今から述べる「語学の神様」が書いていたことをやったからなんではないか、と感じたためです。
そこで、筆者のように齢を重ねてからウジウジしないよう、「若いうちに」そうした感覚を是非どんどん覚えて頂き、特に学生の方々が「若いうちに」語学力をどんどん伸ばしていかれることを願って下記の記事を書くものであります。どうかお付き合いください。
いきさつ
今読んでるもの(表紙はこちらより引用) まぁわかんねぇことわかんねぇこと
筆者は趣味で近代ドイツ科学史を色々と調べています。最近の名著や人気のある古典は英訳・邦訳で良いものが出ていることが多いですが、筆者が知りたい内容はかなり昔の書物が多い。しかもマイナーなものばかり。
そのため、どうしても原文にあたらないと「わからない」ことが出ています。で、学生時代に一応第2外国語で取ってたからやってみっかと思ったのが素人の浅はかさ、全く読んでも眺めてもわかんねぇ。机に向かってウーと唸って早や3時間、コリャ人生のムダヅカイと天井見上げてイヤになる。 ・・・そんなことを3か月ほど続け、ようやく10年やってもアカンだろうと悟り、サッサとお教室に通うことにしました。その中で、本件の「関口存男」氏を知ることになったのです。
関口存男(せきぐち つぎお)氏について
おそらくご存知でない方も多いでしょうからざっくりとご紹介を。
要は「ドイツ語の先生」です。法政大学のドイツ語講師を務めた後、早稲田大学文学部、早稲田大学大学院文学研究科、慶應義塾大学文学部ドイツ語講師を歴任。NHKドイツ語初等講座のご担当でもありました。しかし、ただの先生じゃございません。法政大学の紹介ページ(→ ●)にはこうあります。
”彼は22歳の時、アテネフランセに入学してフランス語を学ぶが、1年足らず後には、すでに同校でフランス語を教え、さらに半年後にはラテン語を教えた。これは法政大学に奉職する5年前のことであって、つまり彼はドイツ語教師になる以前に、すでにフランス語教師であった・・・”
むちゃくちゃです。ちなみに数年間ですが外務省の翻訳課に勤めていたこともあるそうで、同氏の紹介文によれば少なくとも「手がけて」いたのは英語、ドイツ語、フランス語、イタリア語、ラテン語、ギリシャ語、ヘブライ語、サンスクリット語ととんでもない。化学で言うなら有機化学と無機化学と電気化学と材料科学と全部一緒にやってるようなもんですかね。しかも上滑りじゃなくて全部ほぼプロ級。
一体同氏の根っこにあったのは何であったのか。その秘密が全てわかりゃ苦労はしないのですが、経験上、実感として最低限必要なんだろうなと思うことのみ引用します。詳細は三修社殿による「関口存男著作集(絶版)」(→ ●)をご覧ください。書かれたのは1950年前後ですが、その一般性は今なお輝きを失わず厳然として在るものと感じる内容です。
関口存男(せきぐち つぎお)氏が主張する語学勉強
同氏が主張する語学に必要な要素は下記の3点に集約されると思います。
①.「単調で執拗なクソ勉強」
②.「自分に合った、悪い方法を徹底してやる」
③.「自分の関心がある分野だけを徹底し穿ち、広げる」
これだけ見るといわゆる頭があんまりよろしくない人間がよくやってる勉強方法な気が・・・しかし自分の経験を振り返ると確かにこの3つをやったから、かなり進歩した実感があるのは間違いありません。
それぞれをザックリと紹介すると、①とにかく量、量、量。同氏は「流読」をベースとし、「量は、ある一定のところを通過すると質に転化する」という持論をもって、内容がわからんくてもひたすら読み流す。 ②は、①を「完全にバカになりきって続ける」。このことを言っています。これについて同氏曰く、
「・・・一字一句の意味を調べ、よくわかってからでないという精読・・・よっぽど意志強固でないと出来ないでしょう。それに比べると同じクソ勉強にしても流動の方はずっと事が簡単です。阿呆にもできます」
なんと救われる一言。そして③は、自分自身の関心対象が向かう文章には、暗記力のレベルが違うことを指しており、「好きになった子、キレイな子の名前や電話番号は瞬間的に覚えるが、そうでないものはいくらやっても覚えない」ということで例えていますが、なんとも納得するものです。
筆者はこの3つの点を併せて行うことは、極めて優れた利点があると感じています。それは
「継続して、できる」
ということ。基本的に語学は単調な知的作業に対し苦しまないとなかなか継続できないのですが、これが「クソ勉強」と付いたとたん、何故か楽しくなってくる。これが①です。②は、とりあえず「読み流して、どうしても気になったり意味がわかった分だけ覚える」ということならいつでも出来る。脳内負荷が軽いので、気楽に続けられる。そして、その文章が自分が関心があるものなら、必ず続けられる。これが③です。・・・①はちょっとコジツケですが、クソと付いたとたん、勉強を貶めたような気がして、かのHartman軍曹が言うように「そびえ立つクソ」勉強を何とかしてやろうという気になり、楽しくなってくるわけです。
なお同氏の一番最初に実施したドイツ語勉強法。それは
「1000頁近くあるドストエフスキー『罪と罰』を、辞書を引き引き2年間睨みつけ読みつける」
という、『常識外れの鬼外れ』とも言ってよいほどとんでもないことでした。一応「学校で少しやった」との記述はありましたが、言うなれば畳の上の水練が終わった後、いきなり太平洋のど真ん中に行って泳ぎだすのと同じレベルの話。しかし、その中で泳ぎ抜いた結果得られた能力は、おそらく他の誰にも得られない経験と自信に支えられたものとなったのだと思います。
なお、これらの方法はご本人も「私と同じようなタイプにしか適用できない勉強法」と言っていますが、筆者にとってはいかにも逆説的で、同氏が示していることが一番遠回りなようで一番近道、そして一番非論理的で論理的、そして一番非効率で効率的な方法なのではないかとツクヅク感じている次第です。
最後に、③に関し、同氏が述べていることを引用しておしまいにします。このエッセイの中で一番「おぉ」と思った部分です。
「・・・凡ての部分が凡ての部分と凡ての関係に立つている。深く一事に徹底せんがためには、深く一事に徹底してはならないのです。すべての範囲を抱擁せんがためには、凡ての範囲を抱擁してはならないのです。幅を広く取らんがためには、まず一か所を深く穿つことが必要です。一か所を深く穿たんためには、出来るだけ幅を取ることが必要です。如何となれば、幅は幅に非ずして、奥行きの一種だからです。奥行きも亦実は奥行きに非ずして、単に幅の一種に過ぎないからです。如何となれば、問題は面積の大を狙うにあるのですから、幅と奥行きには、別に幅としての絶對価値、奥行きとしての絶對価値というものはない筈です」
ちょっと短いですが、今回はこんなところで。皆様方の益々の語学力向上を祈念申し上げます(筆者含む)。
外部リンク
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