Tshozoです。今回のトピックは少し旬を過ぎましたが世間を騒がせた「博士号(Ph.D.)」についてです。当初、個人的には件(「くだん」と読みます / 詳細はgoogleで検索ください)の案件は興味が無かったので情報も大して集めず、静観していました。
件の事例(引用元 → ●)
嘘です。 正直に申し上げます。発表当時から食い入るように関連ニュースを見て、関係者である大和教授のTwitterとか(現在はアカウント停止)、件のオホホポエムとか( → ●? 直接リンク先に行けない場合はリンク先URLをコピーしてご使用ください)、最初期から「捏造だ」と断じていた難波先生のBlog(→ ●)とかずっと追跡していました。また、今回大活躍された11Jigen氏( → ●)が例の博士論文からの丸写しを解明した瞬間もTLでリアルタイムで体験しました。そのぐらい興味があったのです。
理由はあまりポジティブでないただの興味からで、それが99%です。
・・・で、残りの1%は何だったというと、調べていくうちに『「博士 Ph.D. 」というものの起源は一体何なのだろうか』という疑問が湧き上がってきたためです。本当です。
筆者は遠い学生時代、博士に憧れていました。結局なれませんでしたが、仮にも憧れていたその「博士号」がどういう歴史的背景を持ち、その起源が一体なんだったのかを見直すことで人生の振返りにもなり、かつ博士課程を目指される方々にとり参考になるんではないかと思い今回記事を書きます。化学史的な話になりますがどうかご容赦ください。
【語源からみるPh.D.の定義】
まず語源から探ってみましょう。英語ではPh.D.と書きます。これはラテン語の
“Philosophiae Doctor”
という言葉を短縮したものです(文献1・今回はこの表記に統一)。さらに分解して無理矢理日本語を充てると
Philo→ “智, 知” sophiae → “愛する” Doctor → “先生, 師”
で、「知を愛する師」となります。揶揄してPiled Higher Deeper(→参考リンク 1 2 3 過去のケムステ記事→リンク)とも言われますが。このPhilosophiaeという言葉自体はギリシャ時代の哲学者ソクラテスが創ったものと言われていますが詳細は略。一方最後の「Doctor」は、こちらのブログ(→リンク)でも書かれてるように、中世の欧州に設立された大学で教える「教員資格」の一種であったようでこちらの方がどうも歴史的には先のもよう。ではこれにPh.が付いたものはいつ出現したのか。それを整理するために欧州の大学の歴史を探ってみました。
【歴史的背景】(この項の文献:1, 2, 3)
そもそもDoctorとはどんな「智/知」を教える教員資格であったのか。これにあたっては大学の成立の経緯を知らなければなりません。まず欧州の主要な大学の設立の歴史を下のような簡易年表に表わしてみます。
ロゴは各大学のHPより借用して筆者が作成
このうちまず世界最古の大学であるイタリア・ボローニャ大学(1088年創設)の創設理由に「Doctor」の起源を求めました。なぜこの地で大学が発足したか、ですが、当時古代ローマの法経典原本(フィレンツェ写本)がこの町の近郊で見つかったのが理由です。つまり憧れの国家であったローマ(および古代ローマ法)をもとに、社会をきめる法とはどうあるべきかという議論が活発になったのがきっかけです。この時点では”Studium of Bologna”(無理やり訳すと「ボローニャの知の競技場」とでも言えましょうか///参考:大学リンク)でまだUniversityではありませんでした。
ボローニャ大学での初期の法律講義の様子・・・らしい(引用元 文献2 → ●)
こうした集団が出来てきたのには11世紀当時は第一次十字軍が収集される等、都市間の人の移動が活発になっていたという社会背景もあります。それに伴い様々な国籍の人間が都市部に出入りしだしました。つまり人数が増えてきた都市部の異民族集団がうまくやっていくにはどういう法体系にすればよいか。その拠り所に上記のフィレンツェ写本を学びつつ、法に基づく「智慧」と「知識」とを教えることが、大学発足の起源のもようです。つまり人の活動をどう法治するかに関する智慧・知恵にありそうなことがわかりました。
加えて、当時はカトリック教会を無視してはやってられないので神学も学ぶ。人の命を救うために医学も学ぶ。こうして法学、神学、医学が大学の3大学科になっていきました。もちろん大学により発足の経緯は少しずつ異なるのですが(例えばパリ大学、オックスフォード大学では教会の影響がより強く神学がメインとなったほか、ギルドよりも教職員組合が先に出来た、など)、3大学科はどの大学でも中心であり続けていたようです。そしてこの他、自由7科(天文学、弁証学、算数学など7学科)も学ぶ。こうしてそれぞれの学問ギルドが形成され、カトリック教会も本格的に絡んできて『ストゥディム・ゲネラーレ』というローマ教皇が境界の「お墨付き」大学を決めた勅書まで出してくる。・・・ここまでが13世紀で、そうしているうち、学問を教える側の資質が問われるようになり、教える側、つまり教師を資格化する。この教師資格が「Doctor(ate)」の起源のようです(全て通説準拠/イスラム世界の「教員」資格が最古だというもの説もありましたが今回は割愛)。こうして13世紀半ばにBolognaにもカトリック教会の支配の手が伸びてきたらしく、いかに自治を維持していくかが重要になっていました。平たい話がヤクザのシマの捕り合いなわけです。
しかしボローニャ大学の起源が上記のようにギリシャ アカデメイア以来の市民による自主的な学問の勃興である以上、そうそう教会に尻尾を振るわけにはいきません。この結果、ボローニャ大学のサイトに描かれているように”… In actual fact, the professors had formed the College of Doctors, which was the equivalent of students’ Universitates. It was exclusively dedicated to those from Bologna, with a set number of members according to their Schools of origin…“(リンク)とあり、あくまでボローニャ大学の教員側が自治ベースで講師としてのDoctorを資格化したわけです。これは教会という権力に阿らない学問資格が自発的に立ち上がったという、画期的な事象だったのではないでしょうか。これを以ってDoctorが歴史上初めて成立したのもボローニャ大学ではないかと言ってもよさそうではあります(注:Doctorはラテン語のdocere「教える」が語源で、この時点では「教師」と考えてよいと思います・日本で言うなら師範代、ですかね)。時系列的には1215年に当時のローマ教皇インノケンティウス3世がプラハの神学校に神学Doctorを置くこと等の御触れを先に出していたのですが、これは教会に尻尾を振っていたDoctor、ということですので本義のDoctorではないと筆者は考えます。
そしてさらに時代は進み、これらの3大学科、自由7科を好んで学ぶ人のことをPhilosophiae Doctorと・・・言わないのです、この時点ではまだ。
蛇足ですが国家がDoctorを「資格化」した例として、中央ヨーロッパ初の大学であるプラハ大学創設時に、当時の神聖ローマ帝国が同大学に対し自治権に加え所属する人員(Doctor含む)に「他の大学で与えられるのと同程度の特権を与える」と明文化されたことがあります。しかし、まだまだ現代と同等の概念には至っていませんでした。なおこのプラハ大学がなぜ一部でPh.D.についての起源と言われていたのか、その理由について下記のような説を聞きました。口伝とWebレベルでしか確かめられていないため現在追加で文献を探っていますが、備忘録として記しておきたいと思います。
そもそも、上記のようにカトリック教会が大学の成立初期に深くかかわったことが問題でした。要は当時の”(神学)Doctor”は教会だけが認めた「お偉い連中」が御高説を述べるだけのポストになっており(文献:リンク “Attempts at reconciliation”の項)、教会に刃向う異端児は死刑、とかいうキチ〇イレベルの制度になっていたのです。これに対し13世紀にプラハ大学の学長を務めた宗教学者Jan Husは真っ向から反論、イギリスの異端児ウィクリフの教えそのままに後のマルティン・ルターによる「プロテスタント革命」運動の起源ともなる大騒動を巻き起こします。その活動の際「本来の教会は…時をこえて救世を運命づけられた人の聖体であり、その長は教皇ではなくキリストである。…教会の職務や職位は、その人が真実の教会の一員であることを保証はしない」と主張するとともに、本来大学と、そしてそこが与える”Doctor”は教会に与えられる称号ではなく、また教会や関連組織のために動くのではなく、聖書の教えのままに『世のため、人類のためにその智を使うことを目指す人々であるべき』とみなしたと言われています。
彼は最終的には自らの主張を全く曲げずに火刑に処されることになるのですが、もしこの説が本当なら当時絶大な権力を誇り、欺瞞と矛盾に満ちた教会に対し信念を以って”否”をつきつけ、世のため人のためとなることを信じ突き進んだ彼、Jan Husこそ世界初の真の意味での”Doctor”だったのではないでしょうか。このプラハ大学ではアインシュタインが教授を勤めたことがあり、自ら進んで教授になることを大学側に希望したと言いますがもしかしたらそうした背景を知っていたのかもしれません。
さらに今回「大学 University」の語源を見直すと一つ重要なことが判明しました。それは、大学Universityの語源であるラテン語のuniversitas=uni + versitas「一つのものとして動く(もの)」にあります。つまりは組織としてある方向に統一して動くもの、というのが大学の本義。ではこの世界最古のボローニャ大学とは何を目指していたのか? 上記のようにパリ大学・オックスフォード大学が神学を通じカトリック教会によるロボッ…もとい影響力を強く受けていたのに対しボローニャ大学はその成り立ちが市民レベルから始まったものであるためその根本はより重要になると考えられます。
歴史を遡ると、当時ボローニャで市民権を持っている=銭を持っている、ということで富裕な人たちの集まりであったのでその子女も金持ちのドラ息子みたいな連中もいたりしたわけです。学問が余暇を持てる人間のものであることを考えると(おそらく大多数が地方からの素寒貧の貧乏学生だったでしょうが)こうした血気盛んな学生の集団が今も昔もStudium of Bolognaの中で大人しくしているわけがなく、学生同盟みたいな圧力団体を作っていくわけで、ボローニャ大学ではこの生徒たちの集まりがUniversitasとなり、最終的に大きな力を持ってUniversityという集団になっていきました(リンク)。
・・・これだけだと労働組合が会社を乗っ取った、のように一権力闘争の顛末に過ぎないのですが、学生たちの行動原理をさらに探ると、ボローニャ大学の最初期に唯一明文化されている古代ローマ法の解釈学の先生”Irnerius”氏の考え方と同大学の史上初の女性大学教授”Bettisia Gozzadini“女史の行動が重要になっていたようです。Irneriusについて詳しく述べている文献と、Gozzadini女史について書かれた大学紹介の文書(リンク と リンク)を参考にすると、同大学で起きていたのがただの権力闘争による圧力団体の形成ではなく、きちんとした哲学に基づいた運動であった可能性がうかがえるかと思います。要点としては2点、
●Irneriusが取っていた立場はスコラ学、つまりカソリック教会に基づく神学とは異なる立場に基づいていて、なんでも神様のせいにするのではなく
“Irnerius and his followers took as their starting point the basic observation that the events of nature unfold with constant regularity. From the human perspective, the universe seems to be moving, continuously and uniformly. In the skies, the stars move through their orbit which is always the same; on earth, the seasons change from year to year with identical rhythm, thereby determining the life cycles of plants and animals. Every living species, moreover, reproduces individual beings of the same type, the same family, without exception. “
とあるように様々な自然の出来事を観察することを出発点に置いた(これが学問としての天文学を生んだ)
●神聖ローマ帝国のフリードリヒ1世にボローニャ大学が自治を持つことを認める法令”Constitutio Habita”を出させ、
“…which meant the University of Bologna was legally declared a place where research could develop independently from any other power.“
というあるように何者からも独立して研究を行う根拠を得た
・・・これらから、ボローニャ大学におけるUniversitasとは「何人にも強制されない自由のもとで真実を追求する研究に方向を揃えて動くものたち」であったわけで、この大学からダンテ、コペルニクス、アルベルティ、エラスムス、ガリレイ、マルコーニといった世界を本当に一変させた天才が数多く出てきたのはこうした行動原理があったということと無関係ではない気がしています。特にガリレイは宗教裁判でかなり危うい立場になったもののなんとか踏み留まれたのは、(当時はすでにかなりカトリック教会の影響を受けていたにせよ)ボローニャ大学がその根本的な基礎に上記に基づく自由とUniversitatsの自治権を持っていたからであると思われます。結局大学と言えど何を思想のケツ持ちにしているか、何を行動原理に置いているか、自分たちで松明を持っているか、というのは本当に大事であると実感した次第で。まぁ筆者レベルになると大学入学後もそんな創立の精神とか全く気にしてなかったんですが!
しかしながら名誉博士号に筆者が忌み嫌う人物が約1名挙がっている点は、この貴重なボローニャ大学にケチがついてしまうところがこの項のオチ。人の信心利用して搔き集めた銭で買うたもんなんか風に吹かれて飛んでしまう白髪みたいなもんですからねぇ。ということでだいぶ脱線しましたが以下続きます。
【Ph.D制度の発足と、創設者たちの活躍】(この項の文献:4, 5, 6,7,8,9,10)
こうして12~13世紀にかけて欧州で次々と設立された大学ですが、上記のような理由でどの大学でも神学、医学、法学の力が強く「総合研究大学」という理念はごく一部を除いて全く出来上がりませんでした。また一説によると13世紀以降、『秩禄大学』『親族大学』、つまり『土地(荘園)付きの給与をもらっている教授が親族にポストを与えるなどしてコネだけで支配していく』というヤな感じの状態が相当長い間続いていたようです。・・・現代でもよく聞く話のような・・・。
教授の「大名行列」 既に当時からあったらしい(引用 → ● の表紙より 文献10)
そんなこんなで結局今で言う科学系”Ph.D.”の概念が出てくるには実は大学発足から700年以上の時間を必要としました。その間にイタリアやフランス、ドイツの一部地方で「Doctor」に相当するMagisterという資格が出現してはいましたが、明確にPh.D.たる者の目的と使命を謳ったものではなかったようです。
この状況が変わったのは1810年、ベルリンに「フリードリッヒ・ヴィルヘルム大学(以下フンボルト大学とします)」が設立されたことによります。当時フランスとの戦争に負けて疲弊していたプロイセン王国が近代化と国力発揚のために人材育成の中心に大学を据え、時の内務省の宗教・公教育局長に就任したヴィルヘルム・フォン・フンボルト、高級官僚(枢密顧問官バイメ)、神学者でもあり哲学者でもあるシュライエルマハー、哲学者フィヒテらを中心に新しい大学づくりを3年がかりで仕上げました。主な目的としては、大学の目的を「研究と教育」と明示すること。今でこそ当たり前ですが、当時としては画期的なことだった模様です。
そして、この中でシュライエルマハーが提唱した根本智(知)としての哲学の捉え方、つまり「哲学(智を愛する学:Philosophy)は数学から歴史まで、すべてを包括する」としたコンセプトこそPhilosophiae Doctor 「哲学博士」として表現されるものでした(注:この「包括する」という言質は同時代の著名哲学者であるシェリングも同様の言葉を述べていましたので、シュライエルマハー単独のコンセプトではなかったようです)。
中世大学発足から700年強、ここに至りようやくただのDoctorではなく”Ph.D.”が出てきて、そしてこの資格を持つ者の使命を「科学の統合(Einheit der Wissenschaft/やや意訳)」である、と定義したのがフンボルト大学であり、近代的な大学の出現でもありました(残念ながらPh.D.が同大学で公式に『資格化』された年代と背景、施行の本当の立役者までは不明)。これらの大学とPh.D.の「仕切り直し作業」により、法学や神学の軛から離れて厳然たる学問としての科学が再出発するのです。
フンボルト大学の立役者 左からフンボルト、バイメ、シュライエルマハー、フィヒテ
画像は全てWikipediaより引用
ということで起源がわかりました。めでたしめでたし。・・・とはいかんのです。実はこの話にはまだ続きがあるのです。ということでまた次回。
(続き:リンクこちら)
【筆者加筆】 20140604 誤記訂正致しました リンク一部追加・更新致しました
【筆者加筆】20190222 新しい情報を追加しました
【筆者加筆】20211222 新しい情報を追加しました
参考文献
1. 「大学の起源」 ハスキンズ → ●
2. 大阪大学OCW「European Legal History」 → ● ●
3. Bull. Nagano Coll. Nurs. 長野県看護大学紀要 「大学の起源と学問の自由」 → ●
4. University of Leeds “The Post-Humboldtian Doctorate” Handouts → ●
5. 大阪大学21世紀COEプログラム 「インターフェイスの人文学 トランスナショナリティ研究」報告書 → ●
6. 広島大学 高等教育研究開発センター大学論集 第38集(2006年度) 「フンボルト理念とは神話だったのか」 → ●
7. 広島大学 高等教育研究開発センター大学論集 第42集(2010年度) 「ドイツにおける近代大学理念の形成」 → ●
8. 比較思想・文化研究 Vol.5 (2014) 「ベルリン大学創立時における哲学的教養の理念の再考」 → ●
9. European Journal of Education, Vol. 41, No. 2, 2006 → ●
10. “Charters of Foundation and Early Documents of the Universities of the Coimbra Group” → ●