【筆者追記】 2014/6/4 誤記訂正致しました ご指摘ありがとうございました
Tshozoです。 前回の続きで、科学系(特に化学系)のPh.D.の成り立ちをもう少し詳しく探っていきます。
フンボルト大学により、科学系のPh.D.が資格化され、その目的が「研究と教育」と設定されたわけですが、これでガンガン科学が発展してめでたし、だったかというと、そうではなさそうなのです。第一、前回の結論では化学と関係無いから面白くねぇな、と思って気になって追加で調べてみました。
【Ph.D.制度の発足とハインリッヒ・マグヌス、アウグスト・ホフマンの活躍】
調べてみると、フンボルト大学の化学系で実験を伴う講座が始まったのは1860年代。前述の大学創設から50年以上経ってます。これは一体どういうことだったか、フンボルト大学発足からの経緯をまとめてみました(主に潮木氏、パレチェク氏の論文の記述に従っています)。
立派な理念を掲げて始まった同大学。しかし、創設者達の高い理想とは裏腹に、同大学は一向に「総合研究大学」としてなかなか進歩しません。さすがに「Philosophiae Doctor」を標榜しただけあってヘーゲル、ショーペンハウアー、フォイエルバッハなどの著名哲学者を多く輩出したものの、数学を除く科学系についてはチタン元素の発見者、初代化学科教授クラップロート以外にめぼしい人材は出ていません。第一クラップロートも(言葉は悪いですが)招聘されただけ。設立初期に科学系Ph.D.がどのくらい出たのか不明ですが、発足から20年近く旧態然とし、従来と同じようなレベルに留まっていたようです(注:フンボルト大学のモデルが他大学のシステムに影響を与えたという説もありましたが)。要は制度・理念はつくったけれど近代的な研究大学への進歩は遅々として進まなかったということなのです。
しかし、あるユダヤ人の教授がこの状況に活路を開きます。彼の名はグスタフ・マグヌス。ウプサラ大学のベルセリウス、ゲッチンゲン大学のシュトロマイヤーから指導を受け、ベルリン大学教授になり(1845年)、クラウジウス、ヘルムホルツ、ヴィーダーマンといった物理化学の英雄たちを育て「マグヌス学派」と言われるになるまでの隆盛をみせます。関連書物によると、彼の実験室には当時としては最高の実験機器が揃っていたようです。
ハインリッヒ・グスタフ・マグヌス
「マグヌス効果」などにその名を残す(写真は英語版wikiより引用)
さらにこの後化学分野で発展をさせたのは、別の大学(ギーセン工科大学)に居たユーストゥス・フォン・リービヒの愛弟子、アウグスト・ヴィルヘルム・フォン・ホフマンでした。
アウグスト・ヴィルヘルム・フォン・ホフマン
「ホフマン転移」「ホフマン則」等に多く名を残す(写真は独語版Wikiより引用)
彼は1867年にフンボルト大学へ招聘され、すぐに化学研究室を創設します。加えてバイエル(企業の”Bayer”創業者とは別人)らと共にドイツ化学会を設立。この年はまさに「ドイツ化学元年」とも言え、これを皮切りに、20世紀前半までにフンボルト大学は歴史的な著名化学者・薬学者を多数輩出することになります。ざっと挙げただけでも下記(教授及び在籍含む)。
・アドルフ・フォン・バイエル(有機合成分野で大きな貢献)
・オットー・ディールス, クルト・アルダー(ディールズ・アルダー反応)
・ヤコブス・ヘンリクス・ファント・ホッフ(ファントホッフの法則・イケメン)
・リヒャルト・ヴィルシュテッター(クロロフィル発見者)
・フリッツ・ハーバー(アンモニア合成)
・カール・ノイベルグ(生化学の父)
・パウル・エールリヒ(薬学、免疫学で多大な貢献)
・エミール・フィッシャー(糖類及びエステル合成に多大な貢献)
・エドアルド・ブフナー(酵素の発見、発酵学・生化学に多大な貢献)
・長井長義(エフェドリン発見者・日本の薬学の父)
ちなみに物理学ではマグヌスの弟子であるヘルムホルツ、黒体放射を研究していたキルヒホッフの2大巨頭がホフマンと同様に名伯楽となり、結果的に下記の物理学者・物理化学者たちを輩出しました。
・マックス・プランク(量子力学の父)
・マックス・フォン・ラウエ(多分野での天才)
・アルベルト・アインシュタイン(世紀の天才)
・ヴィルヘルム・ヴィーン(黒体放射理論化)
・グスタフ・ヘルツ(ボーア理論の実験的証明)
・ワルター・ネルンスト(ネルンスト式、熱力学第3法則など)
・パウル・カール・ルートヴィヒ・ドルーデ(自由電子の立案)
・エルウィン・シュレーディンガー(波動力学の立案・ロ**ン)
・オットー・ハーン(原子核物理学創始者のひとり)
・寺田寅彦(日本物理学界の創始者のひとり)
・ヴァルター・ショットキー(半導体理論に大きく貢献)
・ヴァルター・ヴィルヘルム・ゲオルク・ボーテ(γ線を含む放射線の研究)
まさにフンボルト大学は人類を代表する科学者たちの楽園であったのではないでしょうか。
【マグヌス、ホフマンに繋がる研究文化の系譜】
この起点となった重要人物である2人の人物、マグヌスとホフマンから彼らの研究のボス(親分)を手繰っていくと、下記の4人の化学者が中心になっていることがわかりました。
◆「アントワヌ・ローランド・ラボアジェ Antoine Laurent de Lavoisier」(近代化学の父)
◆「アントワヌ・フランコイス・フルクロア Antoine Francois de Fourcroy」(ラボアジェの共研者)
◆「ルイス・ニコラス・ヴォークラン Louis-Nicolas Vauquelin」(フルクロアの弟子)
◆「クロード・ルイ・ベルトレー Claude-Louis Berthollet」(ゲイリュサックら多数の著名化学者を育成)
フランス革命を目の当たりにしてほぼ同じ時期を生きた同僚の彼ら、共通点は4人ともフランス人。そして、最初に挙げた世界最古の大学の一つ、「パリ大学」の教授職であったことです。彼らのところにはフランスだけでなくドイツ(プロイセン)から次々と学生たちが弟子としてやってきていました。その中に先に挙げたユーストゥス・フォン・リービヒの親分の親分ベルトレー、シュトロマイヤーの親分ヴォークランがいたわけです。
ここで大事だったのは、彼ら4人が教授・弟子という枠を超えて「実験しながら自由に議論する」という文化に基づき研究を進めていたことでした(当時プロイセンでは学生に実験は許されていなかったそうです)。これにより、シュトロマイヤー、リービヒはその研究文化(スタイル)を技術と共に持ち帰り、自らのものとしてプロイセンで広めていったと推定されます。
マグヌス、ホフマンに繋がる系統図(画像は全て各国Wikiより)
参考文献は記事の最後に記載
蛇足ながら、筆者がある先生の研究室で実験させて頂いた時、そこの学生さんがしきりに「先生の親分の研究室とスタイルと溶媒や試薬の整理の仕方が全く一緒だ」と言うていたのを思い出しました。おそらくPh.D.はそういった研究文化の伝道師でもあるのでしょう。
ということで以上まとめますと、
「研究大学とPh.D.という制度は確かにフンボルト達が創ったが、研究大学としての活動を開始させ、多数の優秀なPh.D.を輩出できたのはマグヌスとホフマンたちが『議論しながら、実験しながら研究する』という文化を研究室を通して伝えたことの寄与が極めて大きい」
「そしてその起源は実はプロイセン国内ではなく、フランスのパリ大学で育っていた研究文化こそにあった」
ということが今回判明したわけです。
(注:あくまで中心人物としてマグヌス、ホフマンの二人を挙げただけで、他にもフリードリッヒ・ヴェーラーやロバート・ブンゼンらの多大な貢献もあることを付記しておきます また、ゲッチンゲン大学やプロイセン王国周辺で制度化されていたギムナジウムの存在も極めて大きかったのですが今回は割愛致します ご了承ください)
【まとめとあとがき】
さて、今回この記事を書いた動機の一つに、
「今は大学とかPh.D.の制度とかが色々な問題を抱えつつあるけれど、もともとはどっちも崇高な理念を以って創設されたものじゃないのか」
ということがありました。ここで言う崇高というのは、人類の永遠平和とか、人類英知の創生のためとかアレ的なことです。調べ出した当初の筆者の狙いは、数学者のグスタフ・ヤコブ・ヤコビがルジャンドルへの手紙の中で書いた名言、 「数学は人間精神の栄誉のためにある」ということに匹敵する名言や理念がこのPh.Dの創設にもあると示すこと。そして 「それに比べ今回の騒動は情けない! 昔を見習え!」とまとめようとしていました。
しかし筆者の意図に一部反する結果しか出てこなかった、というのが正直なところです。確かに①で調べた、ボローニャ大学の設立の精神としては「自治に基づき自由のもとに真実を追求する」であったことが確認でき、かなり崇高で根源的な存在理由が存在していたことが判明し、そしてそうした精神を教え嗣ぐ人物こそがDoctorであった、と言っても過言では無いと実感できております。
ところが歴史的事実に基いた自治を成立させたのは実質的にはボローニャ大学(とパリ大学)だけで、他は時間の経緯で聖職者等、お金持ちのご子息の仲良しクラブ的な存在となり、最終的に国家や宗教などの権力の道具になってしまっていた例が大勢のもようである、というあまり嬉しくない(?)ことも推定されました。実際19世紀に至るまで大学に行けたのは人口のうちの数%程度、富裕層がほとんどだったという文献もありました。それを考えるとギリシャ時代にソクラテス / プラトンが創った「アカデメイア」の方がずっと教育としてオープンで崇高な理念を持っていたフシがあります (リンク) 。
更にPh.Dについては今回調べた限りでは、特に現代科学系の博士号(Ph.D.)もかなり最近に制度化・資格化されたもので、これもプロイセンという国家の近代化と国力増強、優秀な人材の発掘のためであり、人類とか平和とかあんまり関係が無いことがわかりました。つまり一番知りたかった科学系Ph.D.について言えるのは
「科学系Ph.D.の起源は、プロイセンという国家政策の中で作られた、教育制度の中の一資格である」
ということです。Ph.Dについてもどうせなら嘘でもいいから国家とかあんまり関係のない永遠平和とか人類英知とかが根源にあると謳ってほしかったのですが(設定したシュライエルマッハーやフィヒテはそう考えていたかもしれませんが)、もともと「大学での学問」が支配層クラスによる余暇的・貴族的な側面を持つものである以上、国家政策や組織政策に組み込まれてしまうことが多いのは現在の社会を見ても致し方ないところがあると思います。その意味でボローニャ大学のように自治権を盾に権力とケンカをする、というのはよほど覚悟が定まってないとできなかったことなのでしょう。
翻って現代の大学・研究機関(特に国内)の状態を見ていますと上記の嬉しくないことと似た状況が散見されています。日本は19世紀初頭にドイツから多くを学び、哲学も学んで大学システムとして作り上げたはずなのですが・・・今回のくだんの案件も、徳川幕府時代くらいに起こってもおかしくない構図です。
●研究・探究より組織の論理が先行 ●真実、データより政治の論理が先行
●「神様」の言うとおり ●実力に関係ない縁故採用 ●部下が悪い 部下こそ腹を切れ
要はPh.D.や大学はあくまで制度であり、「箱」。中身に魂が入ってないと「仏作って魂入れず」で、かつての中世へと先祖帰りしてしまうということの表れではないかと思うのです。この魂こそソクラテスやシュライエルマハーが名づけた「Philosophiae」であり、研究者として持つべき価値観の根幹であったはず、というのは考えすぎでしょうか。心というものは研かれていないと腐るのかもしれんなぁと感じさせられました。
19世紀に「再構築」により研究大学を隆盛させたのはフンボルトらとリービヒ、マグヌス、ホフマンといった歴史的な英雄たちでした。翻って日本で、そうした英雄は現れるのでしょうか。某研究所の対応や某企業の中の様子を見ていると暗澹たる気持ちになるのですが、ホフマンやマグヌスがそうであったように若人たちには現状を変えていく力が必ずあるはず。筆者はそうした英雄の出現を楽しみに老後を過ごしたいと考えております。
それでは今回はこんなところで。Ph.D.どころかM.D.すら危うかった筆者がお送りいたしました。
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(((★追記:明確な文献までは辿れませんでしたのであくまで噂レベルですが、当時もPh.D.(Mittelbau)は結構不安定な役職であったらしく、教授にはなれないけれど雑用は多く・・・というのは変わらなかったんではないかという気がします。)))
参考文献
前回(①)記事の文献は省略
- 「京都帝国大学の挑戦 」(講談社学術文庫) → ●
- “Verbreitete sich ein ?Humbold’sches Modell’ an den deutschen Universitaten im 19. Jahrhundert?” → ●
- “Academic Genealogy of the NDSU Department of Chemistry, Biochemistry and Molecular Biology”→ ●
- “?Intellectual Heritage of the UW-Eau Claire Chemists, 1919-2012″ → ●