今回はつぶやきというか半分現場の愚痴(?)を・・・
最近とある依頼を受けて、総説(レビュー)記事を一つ書くことになりました。
きっちり書き上げいざ投稿!という段になったはいいのですが、なんとそこで「レビュー丸かぶり事件」に遭遇したのです。
どういうことかというと、ほとんど同じ内容の総説がタイミング良く、しかも複数同時に他雑誌から出てきたのです。いやはやこんなことはかつて経験がありません。結構な執筆時間を使ったこともあって、これには参りました。「原著論文ならまだしも、総説まで競争になるのかよ!」と何とも言えない気分になったわけです。
筆者の分野に限った話か知れませんが、最近あちこちの雑誌が総説コーナーを新しく作る流れがあるように見えます。これは昨今のジャーナルの乱立傾向とも無関係ではないでしょう。
総説誌はインパクトファクターが高くなる
各雑誌が総説コーナーを設けたがる理由はおそらくただ一つ、インパクトファクター(IF)を簡単に向上させられるためです。
なぜなら総説記事は誰もが引用するため、総引用数を稼ぐに最適だからです。イントロで引けば、とりあえず分野を語ったことになって楽ちんですし、引用スペースの節約にもなるわけです。研究者にとっても総説記事は実にありがたい存在で、まさに「Win-Win」といえるでしょう。
しかし「総説記事によってIFが上がる=良い研究論文誌だ」とは一概に評価できません。
化学分野では、アメリカ化学会誌(JACS)とドイツのAngewandte Chemie誌(ACIE)のIF差がその実例としてしばしば話題に上がります。
JACS = 10.6 ACIE= 13.7 (2012年のIF値)
掲載される仕事のカラーは各々違いますが、仕事の完成度や目を引く度合いを勘案したうえで、JACS掲載研究のほうを高く評価する研究者が多いという実感を筆者は持っています。
しかし現実には上の通り、ACIEのほうがIF値が高くなっています。
両者の大きな違いは「ACIEには総説コーナーがあるが、JACSには無い」ということにあるとされています。総説記事の引用数も含めてIFが計算されているから、こうなっているというわけです。
最近はNature ChemistryやChemical Scienceという強力な新参競合(いずれも総説コーナー有り)も登場しており、ジャーナル側もそれぞれが地位確保に必死のようです。
総説コーナー無しでは対抗が難しいと判断したのか、JACSもとうとう「Perspectives」なる総説コーナーを公開するようになりました。
溢れに溢れる総説
このIF競争心理の帰結として、同じよーなレビューが違った雑誌から沢山出てくることになるわけです。「他の誰かが前に出したから発表してはダメ」という縛りがゆるいことも助長要因でしょう。
例えば有機合成分野で発展著しいトピックの一つに「Visible Light Photoredox Catalysis」があります。立ち上がって間もない領域ですが、既に下記のごとく膨大な総説群が存在しています。この現実はどこか異様にも思えます。今後もまだまだ増えてきそうです。
・Zeitler, K. Angew. Chem. Int. Ed.?(2009)
・Yoon, T. P. et al. Nat. Chem.?(2010)
・Teply, F. Collect. Czech. Chem. Commun.?(2011)
・Stephenson, C. R. J. et al. Chem. Soc. Rev.?(2011)
・Stephenson, C. R. J. et al. J. Org. Chem.?(2012)?
・Xiao, W.-J. et al. Angew. Chem. Int. Ed.(2012)
・Xia, W. et al. Chem. Soc. Rev.(2012)
・Fagnoni, M. et al. ChemCatChem?(2012)
・Konig, B. et al. Angew. Chem. Int. Ed. (2013)
・Fukuzumi, S. et al. Chem. Sci.(2013)
・MacMillan, D. W. C.?Chem. Rev.?(2013)
・Lei, A. et al. Org. Biomol. Chem. (2013)
・Xiao, W.-J. et al. Eur. J. Org. Chem.?(2013)
・Glorius, F. et al. Chem. Eur. J.?(2014)?
・Yoon, T. P. et al. Science?(2014)
総説記事という宿命上、ストーリーの参考にしている大元の研究はどれもこれも同じです。よほど視点にオリジナリティが無い限り、中身は大差ないものになってくる気がしますが・・・これは果たして言い過ぎなのでしょうか?
もちろん丁寧に読めば著者なりの色とか何とかはあるのですが、時間の限られている現実にあって、ページ数の多い総説全てに目を通しながらそれぞれの細かな違いを咀嚼して楽しむ・・・などという読み方は全く難しいわけです。非専門家にとってはなおさらです。
むしろ「ナナメ読みで当該分野の概要がとりあえずつかめる」のが、総説の利点および存在意義ではないかとすら思うのですが、こうまで沢山あるとナナメ読みするものを選ぶことからして大変です。
レビューを選んで引くための基準は?
現場視点からのもう一つの大問題は、「総説がありすぎるので、自分の研究論文でどれを引けば良いかわからなくなる」ということです。紙面は限られているので、沢山ある総説を全て引くわけにはいきません。しかし全部読んで違いを細かく追っていては、時間も到底足りないわけです。
このような渦中にあって、筆者は基準を自分なりに設けて引いています(下記)。あくまで我流なので、違う考えをもつ方もいらっしゃるかと思います(是非皆さんの意見をお知らせください!)。
① 自分が書く論文のストーリー・トピックに最適なものを引く
② 包括的・網羅的に調べられているものを引く
③ 審査員になりそうな方々におべっかを使う敬意を払うべく引く
④ IFの高い雑誌から優先的に引く
⑤ なるべく新しい知見が盛り込まれているものを引く
⑥ 入手性が良いものを引く
①は至極当然かと思います。妙に広すぎたり狭すぎる総説を引いても、読者に優しくありません。そういう意味ではトピックを限定した総説にも一定の存在意義はあるように思います。
②はとりあえず重要な仕事をmissすることがないだろう、という安心感から来ています。Chem.Rev.とかChem.Soc.Rev.などの重厚な総説誌は、この観点でとても重宝します。
③はいわゆる「政治的配慮」ですね。審査員も結局は人間です。「俺の論文引かれてね-じゃんカスが!」と憤慨されてお終いという、至極しょーもない理由からのマイナス評価話にも事欠かないわけで・・・そんなことで蹴られるリスクが上がるよりは、レフェリーに回りそうな人の論文を予め引いておく方がずっとマシということで、このリスクヘッジは合理的とされています。実にほとんどの研究者が採用している対策ではないでしょうか。
④は特に競争の激しい雑誌のEditorを通すべく重要になる、などの話を聞くことがあります。あまりにマニアックなイントロからはじまる論文は「一般ウケしない」とあっさりEditorに蹴られるので、Science/Natureシリーズなどの総説記事をイントロに引いておくとEditor対策になるという見解もあるようです(都市伝説かも知れませんが)。実効性のほどはさておき、確かにそうすることで、一般ウケしそうな研究を語っている気にはなれますよね。
⑤は日進月歩の科学にあって重要な観点ですが、10~20年の違いならともかく、たかだか1・2年差で出てきた同トピックの総説にどれほどの違いがあるのか???という疑問はつきまといます。また論文のストーリーによっては昔の総説を蔑ろにできない局面もあったりするわけで、いよいよ事情は複雑です。
⑥は④とも絡みますが、やはり読者の利便性に気を遣った選択は重要だと思えます。この意味で筆者個人は、原著論文で日本語総説や非欧米系雑誌発の総説を引くことはまずありません。メイン読者である英語圏の研究者が入手できないからです(もちろん日本語で書けば良い論文は別です)。
①⑤はともかく、他はいずれも率直に言って科学の本質に絡む指針ではない気がしています。
しかし筆者のかつての同僚は“citation is politics”とズバリ語っていたほど。論文を通すためなら気を遣いすぎても遣いすぎることのない現実、どれを削るか選ぶのも大変です。極端な話、引用文献欄が総説だけで埋まってしまうのも、すぐそこにある未来なのではとも・・・
もっとシンプルに、当該分野での決定版レビューを一つ引けばみんな許してくれる雰囲気になればいいのですが・・・(苦笑)。
IFを稼ぐには総説を書けば良い?
数多の例を引くまでもなく、性質と分野の違う雑誌をIF値で比較することは無意味なのですが、IFとAuthor順位に基づく計算で研究者の資質を端的にはかろうとする評価体制の機関も未だに少なくないようです。
ここでの根深い問題は、研究者側も高IF誌に受理された実績が欲しいという現実です。
しかし上記の事情を考えると、IF稼ぐだけなら「実験せずに総説を片っ端から書けば良い」とも極論できるわけです。特に濃い実験が必要で論文数の稼げない分野であれば、総説執筆のほうがお手軽にIF値を稼げます。馬鹿にしたものではありません。
ただ当然ながらほとんどの総説記事は、「オリジナルデータを自前で増やすことなく、世の中にある事実をまとめ直している」にすぎません。もちろん複数の仕事を包括的・総合的に捉えて新しい視点を読者に提示する作業自体は大変価値あることですが、そういう高い視点に立つ総説ばかりでもないと思えます。
総説は執筆側からしてみれば、多方面の化学者に気を遣って書かねばならず、調べるべき文献量も膨大です。短いものでも相当な執筆労力が要ります。そんなものを審査する別の研究者も、当然多くの時間を使わなくてはなりません。
査読に加えて総説依頼までもが増え、研究よりも執筆時間を取られる流れがあるならば、科学の進歩にとって本当に良いことなのでしょうか?
現行のIF偏重型評価体系が是正されない限り、しばらくこの傾向に変化は見られないでしょう。
IFが100%悪いとは言いませんが、総説は専用誌だけで公開して原著論文と同雑誌内で混ぜて公表しないようにする、もしくはIFのカウントには総説を含めないようにする、というルールにならないものでしょうか・・・。
現場で研究に取り組む読者の皆さんは、巷に溢れる有象無象の総説をどんな基準で捌いていますか? 是非ご意見をお待ちしております。