望みの有機化合物が欲しい場合、普通は有機合成(Organic Synthesis)によって供給します。特に医薬品や高機能材料などに求められる複雑化合物を得る目的には、現状ほぼ唯一の手段とされています。
しかし最近になって「全く新しいものづくり法」として注目を集めつつある技術があります。それが合成生物学(Synthetic Biology)と呼ばれるものです。
もともとは遺伝子改変によって新たな生物を作り出すことを通じ、深く生物を理解するという目的ではじまった学問です。最近では任意の機能をもった生体システムを作りあげる研究も含めて呼称されるようになっています。
この合成生物学の発展により、遺伝子組み換え生物に自由自在・効率的なものづくりをさせてしまおうとする考え方[1]が一挙に現実味をおびてきています。ここ10年ほどで有機合成と対比的に捉えるような論調も目立つようになりました。
果たして将来の「ものづくり」はどちらの手法がメインストリームになるのでしょうか?
本記事では、合成生物学による「ものづくり」とその魅力を有機合成と対比しながら考えてみようと思います。
議論の前提
かつてNature誌上で、有機合成・合成生物学それぞれの第一人者が分野を語るという論説企画がありました[2]。2012年の文章ですが端的にまとまっていますので、まずはこれを出発点としてみたいと思います。
論者のKeaslingおよびBaranは、ともに天然物・医薬候補化合物を効率的につくることに興味を持つ研究者です。ですので「ものづくり」により得られる複雑化合物の活用先については、材料応用ではなく「医薬応用」を前提として話を進めます。
有機合成化学の立場から:Phil S. Baranの見解
・有機合成は社会が望むタイミングで化学物質を供給できる最適の方法!
・(放射ラベル化合物など)天然にあるもの以外も作れる!
・天然物のような難しいものでも、大量合成法が作れるぐらい発展している!
・化学的修飾によって物質を改良したり、新しい機能を引き出せる!
・方法論の開発速度が圧倒的に速い!
以前彼らが成し遂げたIngenolやTaxane骨格の合成などは、利点を体現する成果だと思えます。またこのような総説も最近出しており、例示数の多さからしても「複雑化合物を大量合成できる時代に突入しつつある」というのは納得感の大きい主張といえます。
ただ裏を返せば相当にmatureな領域であるとも取れる気がします。
新参者の参入障壁は正直高く、要求される問題設定も高次元な領域になってきつつあるという現実は、現場で研究に取り組む筆者自身からしても、避けがたく抱かれる印象です。
「『数打ちゃ当たる』では大して変わらず、よほどの天才以外は脚光を浴びない分野になりつつあるのでは?」ということです。
合成生物学の立場から:Jay D. Keaslingの見解
・複雑な医薬候補天然物は生物に作らせればいい!
・環境に優しい!安価!一旦プロセスができれば信頼性が高い!
・中間体は単離精製不要、手間と時間が減らせる!
・化学選択的、保護基が要らない!最初から光学活性なものがとれる!
・再生可能資源が使え、石油原料は必要ない!
・ただし生合成経路・酵素反応の解明が前提で、生物内でどう作られているか分からないものは適用外。
・自然界にない反応形式を実現する酵素設計技術が不足している。
最近の代表例としては、「抗マラリア薬アルテミシニンの前駆体を遺伝子組み換え菌によって大量生産可能にした」というKeasling自身の研究成果[3]があげられています。「もともとが天然由来なら、生物に作らせるのが素直じゃないですか?」という主張を地で行く研究ですね。
(図は論文[1]より引用)
また以前ケムステでも紹介した「コンビナトリアル生合成」も、合成生物学を物質生産に応用した好例です。
オーランチオキトリウムのように燃料を生産する生物を遺伝子改変すれば、バルクレベルの化学品ですら合成生物学で供給できるようになるかもしれません。
生物細胞を「ミクロスケールの化学工場」と見なす捉え方が、合成生物学の発展により現実味あるものとなってきつつあるわけです。
発展著しい分野の常として、実に様々なアウトプットが現在進行形で報告されています。ただ自由自在なものづくりを行うには、流石に無理のある技術水準たることは確かのようです。
将来の薬作りを席巻するのはどちらか?
筆者個人は、有機合成を元にした医薬開発がすぐさま完全消滅することは無いと見ています。
人工物質が必要とされる局面は沢山ありますし、天然に存在しない構造(たとえばフッ素系官能基など)を導入することも生物には不可能です。既存の生物活性物質を直接加工して高機能化することも、人工技術にしか出来ません。
「ものづくり研究がもたらす化合物を薬として投与する」という、従来型の創薬パラダイム[4]で捉える限りは、双方に利点・欠点がありそうに思えます。
とはいえ「有機合成が遥か未来まで医薬創製のメインストリームたりうるのか?」とまで問うてみると、いろいろ考えることの多い現実にも思えます。実際、抗体医薬などのバイオ医薬の台頭も著しいわけです。合成生物学の将来性はいち化学者が考えるよりもずっと大きいようで、実現できれば素晴らしいとしか形容できない魅力も沢山あります。
とにかく可能性を感じさせるのが、「化合物を作って投与する」低分子薬・バイオ医薬のパラダイムからはかけ離れた考え方で、疾病治療を実現しうる手法です。昨今世間を賑わせる万能細胞はその一つですが、ほかにも未来的な技術アイデアが沢山提案されています。
次回の記事では、そういったものを概観してみようと思います。
関連論文
[1] “Synthetic biology for synthetic chemistry” Keasling, J. D. ACS Chem. Biol. 2008, 3, 64. DOI: 10.1021/cb7002434[2] “Synthesis: a constructive debate” Keasling, J. D.; Mendoza, A.; Baran, P. S. Nature 2012, 492, 188. doi:10.1038/492188a
[3] “Production of the antimalarial drug precursor artemisinic acid in engineered yeast” Keasling, J. D. et al. Nature 2006, 440, 940. doi:10.1038/nature04640
[4] “The impact of synthetic biology on drug discovery” Weber, W.; Fussenegger, M. Drug Discovery Today 2009, 14, 956 doi:10.1016/j.drudis.2009.06.010
関連書籍
関連リンク
日本における「合成生物学」とは?(PDF)
Synthesis: A constructive debate (ChemASAP)