技術立国を標榜する我が国では次世代の技術者、科学者をいかに養成していくのかが国の将来を左右します。ジュニア世代に科学技術に対して興味を持ってもらうことは非常に重要です。
アカデミアの世界でも様々な試みがなされていますがその成果として、なんと埼玉県の中学生が行った研究が米国の一流論文誌に掲載されるという快挙として結晶しました!
独立行政法人科学技術振興機構は、「未来の科学者養成講座」を公募し、大学などの研究機関がジュニア世代に科学に親しんでもらう機会を作る支援をしてきました。現在では名称が変わって「次世代科学者育成プログラム」となっています。
埼玉大学は、平成20年度に「科学者の芽育成プログラム」という事業計画で採択されており現在でもこのプログラムが継続中です。
講座の中で、「ステップ3 テーマ研究」というプログラムがあり、当時埼玉県立栄進中学校2年生だった新谷俊貴君が廣瀬卓司教授の研究室にて行った研究が、米国化学会のJournal of Organic Chemistry誌に掲載されたのです!本誌は有機化学分野ではトップの論文誌ですから快挙と言えます。ちなみに廣瀬教授は向山先生のお弟子さんです(間違っていたら申し訳ございません)。
「科学者の芽育成プログラム」初の快挙!
お知らせ
2013年08月20日(火曜日)平成23年度ステップ3受講生の研究成果がアメリカの化学専門誌に掲載されました!
新谷俊貴くん(当時 越谷市立栄進中学校2年、現 埼玉県立越谷北高等学校1年)は、埼玉大学工学部応用化学科 廣瀬卓司教授らの研究室でステップ3の「テーマ研究」を行いました。新谷くんは、埼玉大学総合技術支援センター 設楽浩明技術職員、工学部応用化学科 小玉康一助教と協力して、光学分割における溶媒による新しいキラリティスイッチング現象を見出し、一つの光学分割剤のみを用いてマンデル酸の1組の光学異性体の両方を得る方法を明らかにしました。この成果が2013年8月7日(水)、米国化学会の有機化学誌(JOC)のオンライン速報版で公開されました。
同じ基本構造をもちながら、一方が他方の鏡像のようになっている(右手と左手の関係)光学異性体は、人体に対する働きが違う場合があるなど,われわれの生活でも医薬品や香料などとして重要なところに用いられています。新谷くんらはこの光学異性体を分離して一方だけを取り出す新しい方法を発見しました。今後は、この技術を応用した効率的な医薬品合成への展開が期待されます。
科学者の芽育成プログラムHPより引用 強調は筆者による改変
著者が廣瀬教授、設楽さん、小玉さんと大学のスタッフですから、実質実験は新谷君が行ったものと思われます。では研究の内容をご紹介しましょう。
Solvent-induced Reversed Stereoselectivity in Reciprocal Resolutions of Mandelic Acid and erythro-2-Amino-1,2-diphenylethanol
Hiroaki Shitara, Toshiki Shintani, Koichi Kodama, and Takuji Hirose
J. Org. Chem. just accepted. DOI: 10.1021/jo401517q
ご存じの方も多いかもしれませんが、炭素原子は4つの結合をつくることができます。その4つの結合の先についているものが全て異なる場合、鏡像異性体(光学異性体)が存在します。丁度鏡に映したような関係でよく右手、左手に例えられます。
図は広報資料より引用
このような現象を最初に発見したのはLouis Pasteurです。パスツールは化学合成した酒石酸ナトリウムアンモニウムを結晶化させた際、よく見ると結晶の形が異なるものがあることに気付きました。それらを注意深く分け取ったところ、その結晶は丁度鏡像の関係にある形をしており、その結晶を溶液とし、偏光を通じたところ両者は右回り、左回りと全く逆の効果を持っていることを明らかにしました。このように鏡像異性体は偏光を逆向きに回転させることから光学異性体と呼ばれ、光学活性体とも呼ばれます。また、光学異性体を分離する操作を光学分割といいます。パスツールの場合は化学合成した酒石酸を用いていましたのでもともと鏡像異性体は1:1の割合で混合されていました。このように鏡像異性体が1:1で混合しているものをラセミ体と呼びます。
前置きが長くなりましたが新谷君の研究はこの光学分割に関するものです。通常ラセミ体からは光学活性な結晶は出てきません。パスツールは自然に光学分割が起こる稀な物質を使っていて、かつ気温が光学分割が起こる丁度よい気候だったという非常な幸運が重なったのです。
では光学活性な化合物を得るためにはどうすればいいのでしょうか?その答えの一つがジアステレオマー塩法です。例えば光学分割したいラセミ体の酸があったとして、そこに光学活性な塩基を加えて塩を作るとします。右手型の酸と右手型の塩基、左手型の酸と右手型の塩基が作り出す塩はもはや鏡像異性体の関係にはありません。このような関係をジアステレオマーと呼びます。ジアステレオマーの間で溶媒に対する溶解度が異なれば、どちらか一方の塩が優先的に結晶化してくるという原理で光学分割が行えます。この方法は古くから様々な化合物の光学分割に用いられている方法なのですが、若干面倒な操作が必要だったり、熟練の技術が必要だったりします。
溶媒を変えるだけで逆の鏡像異性体が得られる!
最大の問題は通常どちらか一方の結晶しか優先的に得られないということで、必要な方の鏡像異性体が必ずしも選択的に得られるわけではないというものです。今回新谷君らは結晶を得る際に用いる溶媒を変えると自在に鏡像異性体の選択性をコントロールできるという現象を発見しました。具体的にはマンデル酸(1)のラセミ体に対して光学的に純粋なアミン(2)を作用させ塩を形成し、1-プロパノールもしくは1-ブタノールを溶媒として結晶化させた場合と、1,4-ジオキサンを溶媒として用いた場合では得られてくる塩に含まれているマンデル酸が逆の鏡像異性体であるということを発見しました。
再結晶操作は2回行われており収率としては50%程度ではありますが、光学純度(比旋光度の値の比較より求めた鏡像異性体の純度)は90%程度と高い値を示しています。実験項を読む限りでは一度しか実験をしていないようですし、実験のスケールも1 g以下ですから、新谷君が中学生だったことを考えるとかなりよい技術をお持ちのようですね。スケールアップすればもっと高い値を出せると思います。
さて、結晶を分け取ったあとの溶液の方を母液と呼びますが、どうなっているでしょうか?結晶化した方とは逆の異性体がリッチになっているはずですね。彼らの手法を使えば、例えば1-ブタノールから再結晶した後、母液を一旦濃縮して、溶媒を1,4-ジオキサンに変えることで最初の結晶とは逆の異性体が優先的に得られるはずです。実際にこの操作を実証しており、75%ほどの純度で逆の異性体の結晶を得ています。これは便利ですね。
また、このアミン(2-amino-1,2-diphenylethanol, ADPE)はあまり馴染みのない物質ですが、上述の実験とは逆にそのアミンのラセミ体を光学活性なマンデル酸を使えば光学分割できるのではと考えつきます。実際に彼らは実験を行っており、こちらの光学分割も溶媒を変えることで得られる異性体をスイッチさせることに成功しています。
いずれにしても操作は比較的簡単ですが、溶媒でスイッチできるというのは大変面白い結果です。ではどうしてそういう現象が起こるのでしょうか。さすがにそこまでは中学生には解決できなかったかもしれませんが論文ではちゃんと述べられております。それぞれの結晶をX-線結晶構造解析した結果、溶媒分子が結晶に含まれていました。それらの水素結合ネットワークの違いや、結晶充填の構造の違いなどからこのスイッチング現象が起こるのであろうと結論されております。
さて、新谷君は現在埼玉県立越谷北高等学校にご在籍とのことです。越谷北高校は普通科、理数科がありどちらにご在籍かはわかりませんが、将来はぜひぜひ化学分野に進んでもらいたいと勝手に期待しております。特に有機化学がお薦めです!
中学生いや小学生レベルから科学のいや化学の世界へジュニア世代を誘うことは非常に重要だと筆者は常々考えております。別に医学がいけないとは言いませんが、理系のトップクラスの学生が根こそぎ医学部に持って行かれてしまうのは悲しいです。化学のアカデミアにいる方々も労を惜しまず化学の楽しさを伝えて、多くのジュニア達に新谷君のような素晴らしい成果を挙げさせていただければ我が国の化学は明るくなると思いますのでぜひともお願いいたします。