とある大学にて・・・
毎年物理化学の講義が開始される時間は同じような光景が繰り返されている。
学生たちはどこか落ち着きがなく不安そうで、クラスルームの雰囲気もざわついて落ち着かない。
講義室に入り私は30秒ほど沈黙する。学生全員が沈黙するまでの時間だ。それはまるで30時間にも感じる時間だ。
沈黙の中で毎年決まった質問を発する。
“ベンゼン環の周囲の長さはおよそどれ位か解る人はいるかい?”
“それって私たちは知ってることでしょうか?”
しばしの沈黙が場を支配した後、やがて誰かがやっとたずねる。
これはクイズでは無いということを説明すると、さて次に学生がとる行動は・・・
ポケットからスマホを取り出し、
検索エンジンにアクセス! Wikipediaにアクセス! 炭素間の距離は1.397オングストローム!
“先生! 8.382オングストロームです”
私は物理化学の担当ではありませんが、おそらく同じようなことを学生にたずねたら同じようなパターンでしょうね。
でもこれでいいのでしょうか?化学者となるからには何でもかんでもwebで調べられることばかりではないですよね。そんな状況で何らかの数字を推測しなければいけなくなったらどうしますか?
今回のポストは Nature Chemistry誌から、Bryn Mawr CollegeのMichelle Francl教授による、化学における数字に関するthesisを紹介します。冒頭の部分はFrancl教授の書き出しを筆者により脚色を加えさせていただきました。前回のはこちら
Take a number
Francl, M. Nature Chem. 5, 725-726 (2013). doi:10.1038/nchem.1733
化学者たるもの、限られた情報を駆使しておおざっぱで構わないけれども、おおざっぱにある程度確かな値を推定できる能力というのは必要であるというのが筆者の主張の骨子になります。
その際、ググるのではなく、back-of-the-envelope calculationで何か閃いたとき、そこら辺にあるメモ紙でちゃちゃっと計算して概算値を導くような能力、技能は必ず役に立つことでしょう。back-of-the-envelope calculationは直訳すると封筒の裏でやる計算となりますが、適切な和訳がなさそうなのでチラ裏計算とでもしておきましょうか。どちらにしてもこんなこと大学で教えてもらったことないですよね。
“A well-developed sense of the range of possible values gives you a nose for the garbage that can float to the top in a Google search.”
物理学者のEnrico Fermiは1945年7月16日に行われた人類初の核実験において、爆風に紙の短冊が2.5 m飛ばされたことから聴衆の前で爆発のエネルギーがおよそどれくらいになるのかを計算してみせたという逸話があります。そしてこの際に導いた値はTNT爆弾に換算すると10 ktonという値であり、実際の値の18.6 ktonの2倍以内の誤差に収まっていました。Fermiが天才的だったというのは疑う余地がありませんが、これは手品でもなんでもなくて、チラ裏計算がかなり有効であることを示しています。この手の問題は最近ではIT企業や投資銀行などの入社試験で出されると噂される問題、すなわちFermi推定と言われるものです。
図は論文より引用
フェルミ推定で有名なものは、シカゴには何人のピアノの調律師がいるかというものです。そんな数はwebを検索してまわっても載っていないでしょう。よってなんらかの推測をして答えを導くしかありません、導き方は本題ではないので触れませんが、とにかく推測されうる限られた情報から答えを導くためには論理的思考を駆使するしかありません。
では化学者にどうしてフェルミ推定もしくはチラ裏計算が必要なのでしょうか?
化学者は日々実験を繰り返し、そこから得られたデータを解析しています。当然そこで得られるべきデータは自分の理論に従ってあらかじめ予測ができるはずです。しかし、実際得られたデータが予測と大きく乖離していたらどうしましょう?自分の理論のどこかに大きなほころびを発見するチャンスとみることもできます。そこが新しい科学を探るチャンスでもあります。実際、黒体放射の理論値と実測値の差を説明するために量子力学の礎が築かれたのです。
そんなとき、チラ裏計算は絶大な力を発揮することでしょう。もしかしたら、一つの研究室で身につけることができるスキルよりももっと重要なスキルになるかもしれません。
“Encourage students to become as familiar with anchoring values as they are with chemical trends.”
そんなとき、Norman BrownとRobert Sieglerのメトリクスとマッピング[1]は役に立つかもしれません。なんでもいいので化学の教科書開いてみてください。電気陰性度やpKaなどはマッピングのいい例です。必ずしも連続的ではないデータの羅列ですが、それらのデータセットからある種の法則性が見えてくることもあるでしょう。または単位の換算に関する式も教科書には溢れています。PV=nRTなんてあまりにも有名です。
そこからスタートして未知の値を推定していくような訓練を学生のうちから慣れ親しんでおくことは非常に価値が高いと考えられます。では化学者にとってどんな数字がメトリクスとしてあれば便利なのでしょうか。人それぞれ異なると思いますが、MITで推定のコースを教えているSanjoy Mahajanは学生にbacks of envelopesのための数字のページをつくらせているそうです。個々人でニーズによってデータを集積しておけば、いざという時にさっと必要最小限のデータセットにアクセスできて効率的ですね。
最近の学生はとか言いたくないですが、何かあるとすぐGoogle、Wikipedia、Scifinder、ODOS(誰でしょうかこんな便利なけしからんサイトを作ってしまったのは)と簡単に情報にアクセスしてしまいます。それはそれなのですが、確かなスキルとして化学におけるなんらかの値をリーズナブルなレベルで推測する能力を学生に身に付けさせることは必ず役に立ちます。化学Fermi問題なんていいんじゃないでしょうか。もしお持ちでしたら物理学系ではありますが、XKCD What Ifなんてサイトもありますので投稿してみるのもいいですね。
直感が大きな発見に繋がるそんなシチュエーションがあることは歴史が証明しています。幸運の女神はあなたの封筒の裏側をのぞき見してるかもしれませんよ。
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